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 2011年8月7日 礼拝説教 【平和をつくりだす者】 笠原義久

エレミヤ書29章10~14節/マタイによる福音書5章9節

「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」。「心の貧しい人々」に始まる主イエスの山上の説教は、私たちの現在、今のこの世界の現実というものに根元的に対立する将来を約束しています。イエス・キリストの受肉と十字架と復活において、神の真実のご支配、すべての人間と自然のあるべき本来のかたちを回復するご支配、すべてのものの間にある深い繋がりを甦らせ、共に生きる真の連帯へともたらすご支配がすでに始まっている。必ず実現する、という圧倒的な約束の中で語りかけられています。
 イエス・キリストの受肉と十字架と復活において、と言いました。
 イエス・キリストの受肉、それは人間の世界のあるがままの現実の中に神が介入した、しかも人間の世界のことを自らのものとして取り上げて下さった、人間世界の現実が、どれほど惨めで醜いものであろうと、神によってまともに相手にされていることの現れと言ってよいでしょう。
 イエス・キリストの十字架。それは一方で、堕落した人間世界が、良いもの、真実なもの、愛に満ちたものを理不尽にも抹殺してしまうという、その深い人間の根元的な罪を露わにする出来事です。しかしその罪を裁く方は聖なる高みから自らは決して傷つくことなしに居丈高に裁くというのではない。裁く方が他の誰よりも深く傷つき、苦しむという裁き、深い連帯における裁き、十字架は、その真実な愛の出来事です。
 イエス・キリストの復活。それは裁かれた全人類の罪に対する勝利、死の克服、そして新しいいのちの贈与以外の何ものでもありません。
 聖書は、創世記3章に描かれているような人間の堕罪による世界の混沌の只中に、堕罪によって失われた世界の本来の姿を回復しようとする神の意志、救いの意志が決定的に露わにされたと語ります。現実に対する裁きと本来のものの回復という二つの面をもって現れた、それがイエス・キリストによる神のご支配 ― 神の真実のご支配、すべての人間と自然のあるべき本来のかたちを回復するご支配、すべてのものの間にある深い繋がりを甦らせ、共に生きる真の連帯へともたらすご支配です。
 このイエス・キリストによる神のご支配ということは、今朝の「平和をつくりだす」という言葉と深く関わっています。

 新約聖書が平和(エイレーネー)を語るとき、そこに共通の背景となっているのは旧約聖書の平和(シャーローム)です。シャーロームは、契約の民イスラエルが、また造られたすべての民が、神との関係においてまた隣人との関係において、そしてまた自分自身との関係において、本来あるべき調和の状態にあることに他なりません。しかしこれらの関係は、いたるところで痛み破れ転倒している。ことに基礎となる神と人との関係において転倒が起こり、そのことの故に私たちの平和は無惨な状態となっている ― これが人間の現実であり私たちが日毎に避け難く直面している現実の姿である、聖書はそう告げています。不安・争い・葛藤・虚無的な思い・虚栄・恐れ・思いやりのなさ ・・・これらが私たちの毎日の生活に深く喰い入っている、と。
 ここでの平和ということが、先の聖日、修養会準備会でお話しした「和解」ということと意味内容をほぼ同じくすることは、お分かりいただけると思います。「和解」と言うからには、和解されねばならないような事態、すなわち交わり・関係の崩壊ということが前提となっている。具体的には、それは不和、分裂、敵意、憎悪、排除、分断という歪んだかたちで露わになります。パウロはこの崩壊している、あるいは崩壊の危機に直面している関係を修復し癒す「和解」を、神と人間との和解、人間相互の和解、被造世界全体の和解という被造世界における三つの和解に分けて述べています。
 さて、新約聖書が平和を語るとき、そこに共通して証言されていることは、イエス・キリストによってシャーロームが現実となったということです。平和が私たちの現実ともなり望み得る希望ともなり実現可能な課題ともなったということです。ですから、平和とは、単に争いがない状態のことではありません。平和の反対語は戦争ではなく、むしろ罪であると言えるでしょう。
 聖書が「キリストはわたしたちの平和である」(エフェ2:14)と語るとき、それは贖罪の十字架を負ってくださり、今そのような方としてご支配をなし活きて働いておられるキリストに対する感謝と賛美の告白である、と言えます。贖罪の主キリスト・イエスを他にして平和はあり得ない。あったとしてもそれは見せかけのもの、一時的なもの、過ぎ去るものです。
 イエス・キリストは、ご自身の負った十字架によって、私たちを神と和解させ、私たちの敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった(エフェ2:16)。あの神に対する、人に対する、また被造物に対する崩壊と分裂の関係が、贖罪の和解者キリストによって、根本的に新しく回復された、あなたがたは敵意という自他を疎んじる重荷から今や解かれている、この事実こそがあなたがたの根本の現実である。聖書はこのことを語っています。そしてこの事実は、不十分であるとは言え、私たちが信じ、同時に経験させられ、また見ている現実でもある、と言えるでしょう。
 私たちは今、イエス・キリストによる神の平和の現実の中におかれ、キリストの再臨によるその完成の約束を与えられている者としてある。そしてこの力ある事実、私の魂にも体にも及び、この時代・この世界全体に及ぶこの力ある活ける事実を空しくするものは 何もない、これが聖書の語る喜ばしい平和の使信です。

 「ああ、なんと幸いなことか。平和をつくりだす者たちは」。
 平和をつくりだす ― このことをなさるのはイエス・キリストお一人です。他の誰もまた何ものもキリストがつくりだされたような平和をつくりだすことはできない。それではここで「平和をつくりだす者たち」と語られるとき、それはどのような者のことを言っているのでしょうか。
 それは、イエス・キリストこそ真で唯一の平和の実現者であることを告白する者のことです。キリストによって、すでに天と地に神の平和が実現された。そしてこの事実はやがて全くあらわとなってすべてのものの上に及ぶ、この確かな事実と約束の中に私たちもまた置かれている、という認識、このことへの信頼、このことの喜ばしき告白 ― これが平和をつくりだす者の基本の姿である、と言えるでしょう。
 この基本に立つときそれは、イエス・キリストによる神の平和の支配(神の国)を告白して指し示し、証しし、それに仕えることへと導かれる。そしてこのことは、神の平和がキリストの十字架による和解によって実現したように、私たちが具体的な事情の中で和解のための十字架を負うというかたちをとるでしょう。それぞれが与えられた賜物、おかれた場所や時の中で、不信と対立の壁を取り壊す働きをするということでしょう。それは時には調停というかたちをとる場合もあるでしょう。けれどもそれで終るのではありません。和解は調停ではありません。和解は神の真理が人間の主張を圧倒すること、神の愛が人間の冷淡や無関心を打砕くことであり、神の救いが人間の惨めさに届くことです。人間を関係の中で生かそうとする神の働きである。私たちが和解のための十字架を負うというとき、それは神に向って他者を、否、人間だけでなく全ての被造物を生かそうとする、仕える働きとなるでしょう。

 私たち日本基督教団は、毎年この8月の第一主日を平和聖日と定め、この日特別に世界の平和のために祈り、平和への思いを新たにしようとしてきました。この時期のこの日が定められているのは、1945年、広島、長崎に原子爆弾が投下された日を覚えてのことです。私たちはこれまで、核兵器が人間の生のみならず被造世界の全体的な崩壊をもたらたす人間の罪の最大の増幅物として、その無条件・無期限の廃止を願ってきました。けれども3月11日のあの福島第一原子力発電所の事故による、今も日本だけでなく世界中を脅かしている放射能の脅威は、申し上げてきた平和がまさに音をたてて崩壊している事態です。核兵器の悪魔性を告発しつつ、同じ核を用いた原発の安全性神話にからめ捕られてきた、これは私たちの罪の帰結だと思います。よく言われることですが、広島・長崎の原爆で犠牲になった方々、今もその後遺症に苦しんでいる方々の、平和への必死の願いを無にしてしまった ― 端的に、そのような罪であったと思います。
 私たちが、これまでお話ししてきたような意味で平和をつくりだす者としてあろうとするとき、私たちがなすべきは、贖罪の和解者にして平和の主であるイエス・キリストを礼拝し宣べ伝えることをおいて他にはありません。しかしこのことの上に立ちつつ、教会は今明確な態度決定を求められています。核の平和利用ということは原理的に成り立ち得ないこと、一切の核は、被造世界の全的な滅びをもたらすものであり、全きよき意志によってなされたあの神の創造の行為と秩序に対抗し、これを否定するものであること ― そのことを66年前の被爆国、また今現在の被爆国にある教会として訴えることです。もちろん私たちの犯してきた罪の告白を伴ってのことです。それと同時に、私たちの国が最後決定的に脱原発に向けて舵を切っていくべきことを訴え、そのための国民的合意形成に向けて何らかの行動を起こしていく、ということだと思います。

 平和の主を告白しその主に従って平和をつくりだす者となる、これは以上のような現実の課題でありまた教会の望みのことでもあります。この道に立つ者は「神の子たち」と呼ばれるとあります。この光栄と責任を覚えつつ、望みをもって平和をつくりだす者とさせられたいと願うものです。


(2011年8月7日平和聖日礼拝説教)
 
 
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