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 2011年7月3日 礼拝説教 【愛の配慮の中で】 稲垣千世

エレミヤ書 9章22~23節/ヨハネによる福音書6章1~15節


 イエスがガリラヤで活動を始められると大勢の群衆がイエスの後について来るようになりました。それは何故か、と言えば、それは「イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」と今日の聖書の箇所に記されています。もし私たちが「イエスがなさったそのしるしとは何ですか」と問われたら、何と答えるでしょうか。それは「イエスが目の見えない人を見えるようにしたことであり、歩けない人を歩けるようにしたことです。また病気の人を癒やし、死んだ人を生き返らせたことです」と答えるのではないでしょうか。そして、今日の聖書の箇所から答えるとすれば、「大勢の人に食べ物を与えたことです」と答えるでしょう。

 その通りです。その通りですが、しかし、それで本当に答えたことになるのか、と考えてみると、どうも心許ない気持ちになって来ます。このように答える時、私たちは目に見える実際的な効果だけを重要視しているのではないか、と思わされます。イエスがなさったこの目を見張るような働きに心を奪われて、私たちはその働きの土台となり、その働きを生み出している、目には見えない大切な配慮に満ちたイエスの愛を忘れてはいないだろうか、と考えさせられます。

 思い起こして下さい。イエスがラザロを墓から生き返らせた時、イエスは心の底から嘆きの声を上げて涙を流された、ということを。そして、イエスが大勢の人に食べ物を与えた時、イエスは一人の少年からパンと魚をもらった、ということを。

 さて、イエスはここで弟子たちに何を教えようとされているのでしょうか。イエスは、愛の配慮の中で共に生かされている共同体の姿を弟子たちに教えようとされています。「イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった」と3節に記されています。ここを読むと私たちはマタイによる福音書のあの山上の説教の場面を思い起こします。イエスはその時弟子たちに神の福音に生きることがどういうことであるのか、ということを教えられました。しかし、ここではイエス御自身が命である、ということを教えています。そして、その命とは十字架を通っての復活の命である、ということが「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」という4節の言葉によって暗示されています。

 それでは、イエスは愛の配慮の中から生まれてくる救いの出来事をどのように弟子たちに教えようとされているのでしょうか。4~5節にイエスが弟子一人に話しかけられている様子が記されています。イエスは今御自分がなそうとしていることを知っているのです。つまり、イエスは御自分が十字架にかかり死ぬということを知っているだけでなく、十字架にかかり死ぬイエス御自身こそが神からのパンであり永遠の命である、ということを知っているのです。これからイエス御自身をイエスのもとに集まって来る人々に与えようとされています。イエスの愛の配慮の中でそこに集う人々にイエス御自身の命が与えられるのです。癒しの源であり新しい命の源として、いつもその共同体の中心に生き続ける永遠の命であるイエス御自身が、今これからなそうとしていることへの信仰を弟子たちに求めたことを「試みる」という言葉の中に読み取ることが出来ます。

 弟子のフィリポは、今イエスがなそうとしていることに盲目のまま「めいめいが少しずつ食べるためにも、200デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えます。アンデレも「ここに大麦のパン5つと魚2匹を持っている少年がいます。けれどもこんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」とこの少年に対する愛の配慮の全くない言葉を口にします。こんな弟子たちに対して、イエスは「人々を座らせなさい」とだけ言われました。「そこには草がたくさん生えていた」と記されています。草がたくさん生えている命の豊かな所に私たちを休ませてくれるイエス。詩編23編を思い起こさせてくれます。

 イエスのなさったことが11節に記されています。「何の役にも立たないでしょう」とアンデレに言われた少年が差し出したパンと魚を、イエスは感謝して受け取りました。イエスが受け取ってから群衆にそれを返すと、全員が十分に食べられる量がありました。与えられたものから与えることの出来るものが生み出されたのです。食べ物は貧しく飢えた人々を同じ所に立つことから出て来ました。貧しく苦しんでいる人々と共に叫び求めることの出来る人が、人々を傷つけることなしに与えることが出来るのです。困窮の中にある一人の少年、大人の男たちの数にも数えられない小さな存在です。しかし、その名もない貧しく小さな者が差し出したパンをもらい、感謝の微笑みを返すことの出来る人は、自分でも気づかないうちに大勢の人を養うことが出来るということを、この聖書の箇所は私たちに教えています。

 相手に対して愛の配慮をする人とは相手に対して無関心ではいられない人です。相手のために心を痛め悲しむ人です。悲しみの中から共に叫ぶ人です。相手に配慮すると言う時、私たちは強い者が自分よりも弱い者に、力のある者が力のない者に、また、持つ者が持たない者に取る態度だと考えてはいないでしょうか。もし、誰かの痛みを何とかしようとする前に、その痛みを共にするようにと招かれたら、私たちは躊躇しないでしょうか。

 しかし、これまでの自分の人生をふり返ってみて、どんな人が自分にとって愛の配慮に満ちた特別な人であるか、ということを考えてみると、その人は助言や解決策を一生懸命になって与えようとした人ではなく、この私の痛みを共にして、その傷に優しい手でそっと触れてくれた人であるように思います。本当の愛の配慮をしてくれる友とはどのような人かと言えば、私たちが絶望し混乱している時、黙ってそばにいてくれる人です。愛する人を失った悲しみの時に、私たちと一緒にいてくれる人です。その意味を教えてくれなくても、治せなくても、私たちのこの無力さに一緒になって向き合ってくれる人です。

 死に直面した時、私たちは無力であるということを正直に認めようとする覚悟があるでしょうか。深い悲しみから逃げようとしないで、何も出来ないのに忙しなく動き回ったりするようなことをしないで、悲嘆にくれる人と共に、しっかりと死に向き合う意志があるでしょうか。本当の愛の配慮をしてくれる友によって明らかにされることは、たとえ現実にどんなことが起ころうとも、互いに傍らに留まり、お互いに対して真実をもって向き合うことこそが大切だということです。このことは悲しみや病、そして死そのものよりもずっと重大な意味がある、と言えるのです。

 私たちは痛ましい現実から逃げようとしたり、なるべく早くその状態を変えようとしたりしがちです。しかし、愛の配慮なしに救済しようとすると、私たちは支配する者、命令する者、操作する者になってしまいます。愛の配慮の伴わない救済活動では、私たちは早く結果を出すことに頭が一杯で気が短くなり、お互いの重荷を担い合うことに積極的ではなくなります。そのために私たちの救済の行為が相手を傷つけることになってしまうことも多いのです。だから本当の愛の配慮がないと感じた時、助けを必要としている人がその助けを拒むことも、決して少なくないのです。愛の配慮のない相手から施しを受けて自尊心を失うよりも苦しむ方がまだましだと考えるからです。

 名も知らぬ小さな人からパンをもらい、感謝の微笑みを返すことが出来る人は自分でも気づかないうちに大勢の人を養うことが出来ます。言うべき言葉はわからないけれど、そこにいるべきだとわかるので、じっと黙って友の傍らに坐ることの出来る人は瀕死の飢えた心に潤いを与え新しい命に甦らすことが出来ます。臆することなく感謝の思いから「有り難う」と言える人。悲しみの涙を流す人。心の底からの嘆きの叫び声を上げることが出来る人は、私たちの間にある隔ての壁を打ち破って、新しい交わりの誕生に立ち会うことが出来ます。その新しい交わりとは傷つき砕かれた者たちの交わりです。その時、力ある者、権力者のためにではなく、力なき者、小さき者のために来て下さった神、即ち、私たちと違った者としてではなく、私たちと同じ有様で来て下さった神、そして私たちの苦しみを取り除くためにではなく、分かち合うために来て下さった神、この神の愛の配慮の働きの中に、私たちは自ら望んで加わっていくことが出来るようになります。この出来事の中で、私たちは恐れることなく、互いに心を開くことが出来るようになり、愛の配慮に基づく新しい共同体を創りだして行くことが出来るようになります。

 イエスは「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。私たちは食べるために生きているのではありません。生きるために食べるのです。それでは何のために生きるのかと言えば、それは永遠の命に至る食べ物のため、つまり父の御心を行うイエスの愛の配慮の中で生きるためです。弟子たちのつとめはパンを渡すことではなく残りを集めることでした。つまりイエスの働きの中で自分たちも働くことでした。

 イエスに聞き従い、愛の配慮の中で生きることを通して、私たちは自分の罪や弱さによってだけではなく、仲間の人間の悲しみや苦しみに連なることによっても、深く悔い、心打ち砕かれた者となることが出来るでしょう。その時、私たち人間の努力の限界を遙かに高く越えるところにまで達する新しい世界の中に生かされている自分たちの姿に目が開かれて来るでしょう。その時こそ、それまで臆病な狭い心で、自分のための十分な食べ物がなくなるのではないかと恐れていた私たちは、感謝して微笑むことが出来るようになるでしょう。そこにおいて、5000人以上の人に食べ物を与えた後でも、12の籠に一杯のパンと魚がまだ残っている、ということに改めて気が付くでしょう。 

 こうして、愛の配慮の中で生きる時、イエスが名もなき一人の少年からもらった五つのパンと二匹の魚は、やがて完全な喜びの日がやって来ることを信じて待つ共同体の望みのしるしとなりうるのです。

     


(2011年7月3日礼拝説教)
 
 
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