「死せる信仰から生ける信仰へ」、さまざまな問題をはらんでいるヤコブの手紙の主題を一言で言うならば、このように言うことができるでしょう。「真に生き生きとした生命的な信仰の回復」、ヤコブの手紙の著者が本当に願い、読者に対して、また今日の私たちに訴えようとしているのは、この生命的な信仰です。
さて、著者ヤコブが目の前にしている教会の姿とは、おおよそ次のようなものであったと推察されます。一言で言うなら、そこにあったのは教会の信仰が後退する、勢いが衰え後ろ向きになりつつある、という事態でした。「後ろに退く」ということには二重の意味が含まれています。第一は、この時代の教会、すなわち第三世代の時代に入った教会が抱え込んでいた困難な状況というものがありました。次第に周辺世界の精神、時代の精神の中にしっかり組み入れられ、その中でこの世との調整をとっていかなければならない、何らかの折り合いをつけていかなければならない、そういう時代に教会が突入していた、という困難さがありました。
この世とは、ヤコブが理解するところでは、神に敵対する勢力によって支配されている現実世界のことです。この現実世界に適合し、折り合っていかねばならない、それは教会の信仰にとって大きな危機、大きな後退だと言えるでしょう。
ところで、神に敵対する力の根はどこにあるのでしょうか。ヤコブは、それをおそらく「欲」に見ていたように思います。1章14節以下にはこうあります。「人はそれぞれ、自分自身の誘惑に引かれ、唆(そそのか)されて、誘惑に陥るのです。そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」。
ヤコブが強調しているのは欲、とりわけ金銭に対する欲、また権力に対する欲であることが、他の箇所からも分かります。ここでの欲とは、いかんとも抗しがたい力を持って私たちを支配する貪欲、むさぼりです。この貪欲の力に左右された世界に自分の存在を売り渡してしまうこと ― ヤコブの手紙の著者は、そこに教会の信仰にとって取り返しのつかない大きな後退を見ていると言えるでしょう。
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第二の後退、引き下がりとは、第一の後退の結果として、教会の中に広がりつつあった疲れ、疲労現象でした。この世の力に支配された現実の中に身を置きつつ、しかし無批判にその趨勢に迎合することなく、また自分をこれに売り渡すことなく生きる ― そこにさらに、それぞれの人が抱えているさまざまな問題や運命的な打撃が加わることもあるでしょう。政治や経済の状況の変化や圧迫が加わることもあるでしょう。そうした現実に身を置きつつ、しかしこれに迎合することなく、この世の支配に属する者ではないかのように生きること ― これは相当な緊張を強いるものであったに相違ありません。この緊張は疲労現象として現れてきます。疲れているキリスト教信仰、ヤコブはこのような事態をも眼前にしているのです。
それは虚しい空疎な信仰、皮相的・うわべだけの信仰、なんの役にも立たない信仰への後退という事態。このことは、信仰の私的領域への限定、いわば小さな家庭菜園のように狭い私的領域での営みへと信仰を小さくする、という傾向として端的には現れます。
ヤコブの手紙には、確かに「世の汚れに染まらず、身を清く保つように」という勧めの言葉があります。「世から自分を清く保つ」とは大いに誤解を受けやすい言葉です。この世から逃避し、いわばこの世から隠遁するかたちで、自分の宗教性の中に閉じこもることを意味するかのように取られがちだからです。
しかしそうではありません。1章27節にはこうあります。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」それが「清く汚れのない信心」だ、と。困っている孤児や寡婦 ― 彼らは旧約時代から一貫して、社会的・経済的な弱者として差別と虐げを受けている代表的な存在として扱われてきました。そうした彼らの「世話をする」ことが勧められています。具体的な援助が勧められているのです。このような小さな行為が、孤児ややもめに代表される弱い者、力のない者を餌食にし、貪りの対象としている者との対決を強いられることもあったに違いありません。
神に敵対する力によって支配されている世界に自分を売り渡さないこと ― それは、逃避する形で自分の宗教性の中に閉じこもり、私的領域での純潔さを保つことによっては成し遂げられない、むしろ逃避とは逆のあり方、積極的・行動的にこの世の生活領域での問題に関わっていくこと、孤児や寡婦に代表される社会の中で虐げられている者を訪れ、彼らの問題を担い必要な援助を為していくこと、まさにそうしたありようこそが、世から自分を清く保つことに繋がるのだ ― ヤコブの真意はそこにあるように思います。
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ヤコブが言わんとした模範となる一人の人物を紹介したいと思います。それは、ドストエフスキーの最後、そして未完の小説となった『カラマーゾフの兄弟』の中に登場する三人兄弟の一番下の弟アリョーシャです。
ドストエフスキーはこのアリョーシャを次のように紹介します。
「アリョーシャ青年は決して狂信者ではなく、また少なくとも私の見るかぎり神秘主義的なところさえまったくなかった。彼が修道司祭の世界に入ったのも ― つまりロシア正教会の司祭として立つべく、ということ ― 博愛ということ、若き人類愛というただこれ一つのみが彼の心に驚異の念を呼びさまし、世界の悪の闇から愛の光明を目指して邁進する彼の心に、窮極の理想として映じたからである」。アリョーシャが修道院に入ったのは、したがって決して「臆病な絶望」によって世から逃れ隠遁することではなく、唯一の真理と信じたものを自己の生活の中に、そしてまたこの世界全体の中に現実化しようとする第一歩であったと言うことができます。事実、ドストエフスキーは、アリョーシャを「誰よりも一番正しい意味の現実派」であると記しています。
さてこのアリョーシャが先生として尊敬して已まない修道院の修道苦行司祭であるゾシマという長老、この人は自分の死を前にして、青年アリョーシャに次にように命じます。自分が死んだ後は、修道院を去って世間に出て行くように、と。ゾシマ長老は、正しい意味での現実派の信仰者であるアリョーシャが、信仰の現実化という使命を負っていることを信じていました。それゆえ、アリョーシャに対して、修道院の壁を越え、しかし、司祭として、信仰の現実化のために世の中で労することを命じたのです。
それでは信仰の現実化とは何であるのか。著者ドストエフスキーは、「神を愛する者は、またその兄弟をも愛すべし」というヨハネの手紙一の言葉を引き合いに出しつつ、それは抽象的・観念的な「人類愛」ではなく、現実的な実行愛だと語ります。
アリョーシャの愛の性質は実行的であった。消極的な愛し方はできない。いったん愛した以上ただちに救助に取りかからねばならない。
私たちは、ここで言われている愛を「信仰」と読み替えてもよいでしょう。信仰の性質は極めて実行的である。消極的な信仰ということはない。いったん信仰した以上、直ちに実際的・具体的援助に取りかかる― そのように読み替えることが許されると思います。
翻って、ヤコブの手紙に目を転ずるとき、2章14節以下で語られている信仰・行いとは、このような内実をもつ信仰であり、行いであると言えるのではないでしょうか。
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さて、2章14節以下では、「行いの伴わない信仰は人を救うことができない」という命題と共に、信仰を自分の特権だと主張しながら、何の行いもしない人たちに激しい批判の目が向けられています。そして24節には、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」という決定的な一句が記されています。この一句は、使徒パウロの言う「信仰による義」の否定なのでしょうか。あるいはヤコブは、パウロの信仰義認の教えの神学的敵対者として立っているのでしょうか。
答えは「否」です。ヤコブは、信仰による義を否定しているのではありません。また信仰義認の教えに取って代わる行為義認の教えを新しく提起しているのでもありません。 問題の所在は、信仰による義を否定していると受け取られかねない命題を、ヤコブが、敢えて意図してここに記しているかにあります。
ヤコブの手紙が書かれた状況や背景を今日正確に把握することはできませんが、ヤコブが17節にある「死んだ信仰」を目の前にしていたことは明らかです。またパウロの信仰義認の教えから生じた、誤ったパウロ主義あるいは堕落したパウロ主義といったものと何らかの形で闘っていた、ということは十分推察できるところです。誤ったパウロ主義、その本質が「死せる信仰」という言葉に集約されているのです。「死せる信仰」、それは先ほど「二重の後退、引き下がり」という言葉でお話ししたところと一致します。ヤコブは、このような「死せる信仰」を克服し、教会を再び生き生きとした信仰へと呼び戻すべく、敢えて「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではない」と語らざるを得なかったのではないでしょうか。
「生ける信仰」の回復、それはパウロの言う「愛によって働く信仰」の回復です。主イエスが語られたような「私のこれらの言葉を聞いて行う者」となること。イエスに向かって「主よ、主よ」と口先で言うのではなく、神の御心を行う者とされることに他なりません。私たちも、あのアリョーシャのように「神を愛する者は、またその兄弟をも愛すべし」との御言葉を身に帯びた者として、また「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」とおっしゃる主キリストに従う群れとして、世のための教会として、具体的・実際的な行いを為していきたい。今般の大地震・大津波によって被災した教会や地域住民の方々を支援・救援する業も、私たちの生ける信仰の証しとして為していきたいと願うものです。
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