夕暮れ近く、エルサレム西方のエマオという村に向って、二人の弟子が、その朝起った出来事について論じあいながら重い足取りで歩いていました。それは復活節の喜ばしい散歩などという調子のいいものではなく、エルサレムから離れるため、つまり挫折感に打ちひしがれながらの逃亡でした。
ここに描かれている弟子たちの様子から二つの事情を見ることができると思います。
一つは、彼らが失望し落胆し、不安と悲しみに沈んでいる姿です。
「話しあい論じ合っていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、『歩きながらやり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。そのひとりのクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか』」(15~18節)。
そして最近エルサレムで起ったナザレのイエスのこと、彼が祭司長や役人たちによって十字架にかけられ、死刑にされたことが述べられます。さらに「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)のに、と言います。
弟子たちは、自己喪失と負い切れない課題からイスラエルを回復することのできるのはこの人であろうと望みをかけてきました。だからこそ彼に期待し、さらにわが身の望みをも彼に託して従って来たはずです。そのイエスが十字架にかけられ殺されてしまったのです。確かだと思っていた自分たちの希望は泡沫のようについえ去り、彼らは戸惑い失望に打ちのめされて、夕暮れ迫る道をエマオヘと歩んで行きました。
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この聖書箇所を読むと、悲しみ、苦悩、不安、恐怖を負って生きて行く他ない限りある人間について思わざるを得ません。彼らは「悲しそうな顔」(17節)をしていました。おそらく沈み行く陽を見詰めつつ、寂莫たる思いをもって歩んでいたのでしょう。本当に私たちの心の襞にしみる情景です。実際、人は誰でも人生途上で、それぞれのエマオヘの道を避けることはできません。
さらにもう一つ、私たちはここから、彼らの存在の根本に関わるような問題、すなわち彼らが答えのない状態に置かれているのを見ることができます。聖書は、彼らは「話し合い論じ合って」いたと書いています。しかし、彼らがここでイエスが十字架に死んだ事件そのものについて、どんなに微に入り細にわたって語りあったとしても、所詮、それは過去の思い出以上のことではないし、その出来事がどんな意味をもち、どんな力を持っているのか、彼らには分からないことでした。彼らは究極的な答えのない相対的な世界で空しく論じあう他ない者たちでした。
決定的な確かさのない相対世界は、結局は虚無の世界です。何をしてもどう生きても同じだということになります。虚無を生み出す相対世界というものは、神を失った罪の世界であり、人間が皆それぞれ自分を中心にして神になることのできる世界であり、従って答えのない世界でもあります。彼ら二人が答えのない状態にあったということは、実はどうしようもなく虚無を負いこんでいたということです。それは罪の重荷に喘いでいたことに他なりません。答えのないところでエゴイズムに突き動かされながら論じあっている二人に、虚無と罪を負って生きざるをえない私たちの姿を重ねて見ざるを得ません。
ここで彼らが「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)と第三者から、すなわち主イエスから問われた時、暗く悲しい顔をして立ちどまる他なかったのは当然のことと言えます。この主イエスの問いによって、人間の底深い罪と虚無の姿が端的にあらわにされたのです。
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エマオ途上の弟子たちのもとに復活の主イエスは来られました。悲しみと底深い罪の中に喘ぐ弟子たちと、この復活された主イエスは一緒に歩いて行かれたと記されています。
主イエスは「預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」(25節)というふうに語りかけて、御自身についての聖書の証言を明らかにされます。
モーセをはじめとするすべての預言者から始めて聖書全体(すなわち旧約聖書)にわたり、御自身について記されていることを解明されました。主イエスは弟子たちの失望落胆、虚無の直接の原因となっている御自身の十字架の死についての意味を、ここで聖書にしたがって説かれたのです。 聖書は、死に至るまで神に従順なキリストを、天の栄光に入れられるキリストを告げ知らせているのだと説きます。このキリストは、イスラエルの願いに叶うキリストではないゆえに、十字架にかけられ死なねばならないということ、しかし、それにもかかわらず、イスラエルを救済するキリストであることを明らかにされました。その言葉には論理と力と情熱があり、愛にみちていました。
「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まり下さい。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28~29節)。今や弟子の心には何か変ったことが起りました。彼らは自分たちの中に、いのちと望みの新しい血が流れこんでいるのを感じとったに違いありません。そしてその原因こそ、今聖書の解き明かしをされたこの方にあるのではないだろうかと考えました。そこで強いてこの方を引き止め「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」と言います。イエスは彼らの言葉を受け入れました。
「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(30~31節)。
キリストがここでなさったことは、あの過越の食事を想起させます。またパンを取り、感謝してこれを裂き、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」。パンを祝福して裂くということは、十字架における罪の赦しと弟子たちに対する新しい契約を意味しました。今やこの二人はイエスの十字架の死を経たところで、ふたたびあの日の晩餐を想起させられ、十字架が何であったのかということを知らされました。それゆえ「目が開け」と記されているのです。
十字架の上で死んだ主イエスは、この十字架を通して私たちの罪を赦し、罪の力から私たちを解放してくださいました。ですから虚無からも、悲しみや落胆からも私たちを解き放ってくださったのです。そのような方として今も生きておられるゆえに、彼らの中には新しい力と希望の火が燃えはじめました。今こそ彼らはなぜ彼らの内側が一変し、光がさしのぼり、心に灯がともったかが理解できたのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)と書かれています。単なる一時的感動ではない。彼らはこの時、いわば燃える心を与えられたのです。エルサレムから逃亡して諦めて暮らす、その命の火の消えたような生活、死んだも同然の生活の只中に、イエスが命の火を投げ入れた、ということです。
彼らは泊まるつもりで入った宿屋から「時を移さず出発して、エルサレムに戻って」行きました(33節)。夜道の危険に対する恐怖はすでに消え失せ、ひたすら主イエスは生きて私たちに出会って下さったということを、他の弟子たちに一刻も早く告げるため、エルサレムに急行するのでした。エルサレムはつい今しがた逃げ出してきた所、彼らの幻滅と挫折の場所、しかし今や彼らは、そここそが再起の場所、否、全く新しく立ち上がる場所であることを知ったのです。彼らにとって終りと見えた場所が、大いなる始まりの場所となったのです。罪の赦しを受け失望から解かれた者は、その力につき動かされて召命を受け、使命を与えられて立たされる、という次第がここにはっきり示されていると思います。
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主イエスは、それぞれエマオ途上にある私たちに生ける方として臨んでくださいます。そして私たちをエマオからエルサレムに向けて、即ち失望から望みに向けて、夕暮れからあしたに向けて、罪の支配から恵みの支配に向けて生かしてくださる御方です。「わたしが生きているので、あなたがたも生きる」とヨハネ福音書14章19節に記されている通りです。
弟子たちは「わたしたちと一緒にお泊まり下さい」と主イエスに向って願いました。イエスがさらに先に進み行かれる様子であったので、彼らは強いて引きとめた、と聖書は記しています。私たちは教会の歩みが神の前に整えられ、神に用いられたいという切なる願いをもって歩んでいます。すべての事は、十字架と復活のイエス・キリストにかかっています。私たちの生活のすべては、この死んで復活されたイエス・キリストが今も生きて働いておられ、私たちに臨み、私たちと共に生きていてくださるという一事による他ないのです。
弟子たちは主イエスを強いて引きとめました。生ける主は必ずしも私たちの日程に従う方ではありません。弟子たちが泊まろうとした時、イエスは先に進もうとされました。神の御計画と私たちの日程が合うわけではなくとも、弟子たちが「私たちと一緒にお泊まりください」と切実に願ったように、私たちも自分の生き死ににかかわることとして「私たちと一緒にお泊まりください」と、復活の生ける主イエス・キリストに対して心から祈り願います。
主イエスが二人の弟子の要請に答えて彼らと共に泊まり、御自身を生ける主として啓示されたように、私たちの願いに対しても主はご自身をそのような方として啓示してくださいます。そして、そこにこそ私たちの望みがあるのです。
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