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 2011年2月27日 礼拝説教 【命への希望のしるし】 笠原義久

ヨナ書3章1~10節/マタイによる福音書12章38~42節

旧約聖書のヨナの物語に、私たちは三つのユニークな要素を見ることができます。

 第一に、預言者によって語られたもっとも短い説教を私たちは見出します。ヨナ書3章4節、ヨナが人々の前で叫んだ言葉「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」。元のヘブライ語でたった八つの言葉で、ヨナはニネベの都に対する神の裁きを告げ知らせたのです。

 第二は、このもっとも短い説教によって、かつて語られた説教の中でもっとも劇的な成功がもたらされたことです。すなわち、ニネベに住むすべての人がヨナのこの説教にいたく心を動かされ、その結果、上は王から下は家畜を含むもっとも身分の低い者までが、みんな神の前に悔い改め、神の憐れみを懇願するようになったのです。そして彼らは悔い改めのしるしとして断食を行い、神がその御心を変え、町を滅ぼそうという計画を思いとどまるように祈ったのです。

 ヨナの説教は、まさに、説教する使命が全うされた非常に数少ない例と言ってよいでしょう。ニネベの人々は悔い改め、計画されていた彼らに対する神の裁きは撤回されたのです。けれどもその後に、この物語の三つ目のユニークな要素がきます。このように非常に成功のうちに果たされた説教の務め ―― しかしこの説教者であり預言者であるヨナは、その説教の結果について、非常に気を動転させ、また不満だったというのです。ヨナは実際、彼の民イスラエルにとって悩みの種であったニネベというこの町が完全に滅ぼされることを望んでいました。ですから、神の裁きの撤回という事態に遭遇して、ヨナは抗議と憤懣を隠しませんでした。にもかかわらず、この町を滅ぼすことを神は最終的に断念したのです。神の尺度は、我々の尺度と同じではない ― 神が求める成功とは、実際には、ヨナのような人たちにとってはフラストレーションや怒りに終わってしまうかも知れない。逆に、私たちが通常人間として求める成功というものは、実際には神を失望させるものであることが多い。実にこれが、この物語の最もユニークな要素であり、物語が内容としてもっているアイロニーだと言ってよいでしょう。

 端的には、ヨナの物語は、一人の預言者の物語というより、神の恵み深さと慈しみとがどのような人々に向けられているか、という物語であると言ってよいでしょう。どのような人々か。イスラエルが非難して已まない、滅ぼされて当然であると見做している人々です。そのような人たちにまで、神の恵みと慈しみとが向けられている。この物語は、神がいかにして全く望みのない人々を甦らせ、彼らをご自分との新しい契約の関係に導くかを具体的に指し示しています。



 さて、このヨナの物語は主イエスによって一つの「しるし」として使われています。ここでは、イエスが、律法学者やファリサイ派の人々の要求に応えて、来るべき「裁きの日」について彼らに語っている、という設定になっています。律法学者たちは次のように言います。「先生、しるしを見せてください」。主イエスは言います。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」。

 私たちには、主イエスがここで、ヨナと自分自身との間に一つの類比を造りだそうとしていることが、すぐに分ります。すなわちヨナが魚の腹の中に「葬られた」ということと、「三日三晩、大地の中での」人の子の来るべき葬りとを引き比べていることです。実際、ヨナの物語は、一つのしるし、すなわち主イエスがこの地上での彼の使命をどのようにして終えるのかということの予兆としての役割を果しています。ヨナの物語は、主イエスの使命の最終的な結末についての一つのしるしとして、ヨナ物語それ自体を越えているように思われます。なぜなら、魚の腹のなかでのヨナの「葬り」を越えてあるのが、最終的にはニネベの人々の悔い改めへと至る「復活」だからです。ニネベの人たちに向かう神の恵みの行為が、ヨナ自身にとって全く非難すべき、また気を動転させるようなものであったとしても、ニネベの人々は滅びではなく命へと甦ったのです。ニネベは軍事大国アッシリアの都でした、ヨナは、かつてそのアッシリアが彼の民イスラエルに対して為してきたことの雪辱を欲していたのです。墓の中の主イエスに起ったことは、ヨナ以上に大きなあるものを決定的に指し示している、と言ってよいでしょう。主イエスにおける神の恵みが鍵です。この神の恵みのみが、死への有罪判決を既に受けている人間を命へと回復することができるのです。

 ここには、主イエスの時代の人々もまた悔い改めへと導かれねばならない事実があります。けれどもそれは、当時のユダヤ教当局には受け入れがたい事実でした。イエスが甦りの主、死から甦られた方であるという事実を信じるのではなく、主イエスの時代の指導者たちは、墓のイエスの体が消えてしまったことを次のように合理化して考えました。すなわち、イエスの体は実際には彼の弟子たちによって盗まれ、隠された。その彼らが、今やイエスは本当は死者たちの中から甦ったという物語を語り伝えている。彼らは自分たちで編み出した全くうその話を信じるようになったのだ、と。しかしマタイが今ここで言っているように、イエスが本当に誰であるかを認識できなかったユダヤ教当局、彼らはニネベの人々の非難を免れないでしょう。ニネベの人々、彼らはイスラエルにとっては外国人であり、またイスラエルから憎まれていた人々でしたが、その彼らでさえ、超国家主義の預言者ヨナの説教を聴いて悔い改めたからです。そうであるのに、ユダヤ教の指導者たちは、ヨナよりも明らかに偉大な一人の人の言葉と行為、そしてその人格を拒絶したのです。社会からのけ者にされている人々、忌み嫌われ、外に追放された人々にこそ本当のことが分る ― そのように語られているのではないでしょうか。



 私たちはどうでしょうか。主イエスの時代のユダヤ教の指導者たちと同じありようをしてはいないでしょうか。神が来たり給い、今ここにいらっしゃる、そのしるしを求め、また要求しながら、神が私たちに求めておられることを聴き、受け入れる用意がない、そのような私たち。私たちは、神が創造されたすべてのものにおよぶ神の御力と栄光のしるしを探し求めることができます。しかし私たちは、神が今私たちと共に、私たちの間にいらっしゃる、苦しみと抑圧という墓地の中に葬られたままになっている人々の生活と苦しみの闘いの中にいらっしゃる、その最も根源的なしるしに気づかないまま、私たちは今あるのではないでしょうか。



 今月12日から14日まで、教会の友6人と一緒に「沖縄・平和の旅」に行ってきました。沖縄に米国軍の基地が存在すること、そのことがどれほど沖縄の人たちの生きることの苦しみと抑圧となっていることか、その一端を垣間見ることができました。普天間基地移設が計画されている辺野古の海 ―― 隣接するキャンプ・シュワブで行われている実弾での射撃演習による射撃音がひっきりなしに鳴り響いていました。米軍ヘリパット増設のための道路工事強行を、身を挺して阻止している北部・高江の人たちの闘っている姿を間近で見ました。「基地は沖縄の問題ではなく、本土にいるあなたたちの問題である」との問いかけを鋭く突きつけられました。それと同時に、苦しみと抑圧という墓の中に葬られたままになっている人々の生活と苦しみの闘いの中に神がおられる ― そのしるしに気がつかない私たちのありようを問われた経験でもありました。



 私たちは、神への私たちの信仰と誠実に対して神がよしとしてくださるしるしを求め、要求してもよいでしょう。私たちは自らが属するそのところで、馳せ場で労苦を重ねているとき、そのようなとき特に、神がよしとしてくださるしるしを求めます。そして私たちの苦闘は、主の公正で義しいご意思とぴったり一致していると考えます。しかし、私たちは、主イエスがご自分に従おうとしている者たちに与えている独自のしるしには、なかなか気づこうとはしません。十字架とカルバリのしるし、他者の贖いのための苦難のしるし、他者のために自らの存在を、自らを虚しくして捧げるしるし、また自分自身の苦闘に対してだけではなく、この社会の中の弱い人々、名も無い人々、傷つきやすく無力な人々、このような人々の正義を求める闘いに情熱的に関わっていくしるし、そうしたしるしに私たちは気づかないままであるのではないでしょうか。主イエスが来られ、苦しみを受け、死んだのは、こうした人々のためでもあった。そのことによって、全ての者が真に豊かな生活を経験できるようになったのです。

 主イエスのイースターの勝利の出来事。この勝利は、主イエスが苦難を担い、死者と共に墓に葬られたという代価によって初めて成し遂げられたという事実を、私たちは忘れてはなりません。イースターを、あのヨナの葬りと同じように、主イエスの「葬り」を想い起こすことと切り離し、孤立させてはなりません。なぜなら、主イエスの生におけるこのような身の毛もよだつような恐れに満ちた瞬間を想い起こすことにおいて、私たちは、主イエスが私たちに与えていてくださる新しい復活の命という賜物の本当の深み、奥深さを正しく認識することができるからです。ヨナのしるしがニネベの人たちに新しい希望と新しい命を与えたのとまさに同じように、十字架と空虚の墓のしるしとは、死それ自身に、また死と滅びをその本質とする諸々の暗き力に打ち勝つ命への希望を、今私たちに与えてくれるのです。ヨナのしるしがニネベの人々の悔い改めをもたらしたように、十字架と空虚の墓のしるしは、甦られた私たちの神との交わりにおいて、真に新しく形を変えられた生活に私たちが取りくむ機会を、今私たちに与えています。


(2011年2月27日礼拝説教)
 
 
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