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 2011年1月23日 礼拝説教 【命の主】 稲垣千世

エゼキエル書18章30~32節/マタイによる福音書9章18~26節

 

 私たちはクリスマスを祝い新しい一年の歩みを踏み出しました。神の子が新たに私たちの中に生まれて下さった喜びと感謝の歩みを始めました。私たちの貧しい命の中に宿り、生まれ、生きているイエス・キリストの命に導かれて生きる新たな一年の歩みを始めました。私たちの命の主、イエス・キリストが私たちを招く命の言葉に素直に聞き従う日々の歩みでありたいと願いつつ、今日の聖書の言葉から私たちの罪の深さと、しかし、それよりも深い神の愛に生かされている事実に目を開かれたいと思います。
 「人々はイエスをあざ笑った」と、ここに記されています。今、イエスをあざ笑い見下している人々が、イエスのまわりには大勢います。イエスはガリラヤ中を回って諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気を癒されました。大勢の人々がイエスに従いました。イエスがこの群衆を見て山に登り教えられた後には、群衆は権威ある者としてのイエスの教えに非常に驚きました。また、イエスが中風の人を癒やした時には、群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威を委ねられた神を賛美した、と聖書に記されています。
 人々はありとあらゆる病気や患いを癒やすイエスに従いました。そして、そのイエスの教えに驚き、律法学者にはない権威を認めました。驚き、恐れ、イエスに従い、神を賛美した人々です。その人々が今、イエスをあざ笑っています。何故なのでしょうか。
 ここまでイエスに従って来た人々は、ここで初めてイエスと共に死の現実と向き合いました。死を前にすると、人々は生きる望みを全て絶たれてしまいます。死は絶対であり、この世の生は全て死によって終わります。生は死の絶対的な支配下にあり、死の権威は揺らぐことがありません。人々にとっては死が神であると言えるでしょう。死の恐れによって常に脅かされている生においては、病が癒やされても、その教えに感動しても、結局は、死が全てを奪っていくことに変わりはありません。
 ここにこそ、最も癒やしがたい病、絶望があります。生きることにおいてその根底に絶望がある限り、病が癒やされても、教えに感動しその教えに従って生きても、生きる希望や、生きる喜びは、何処にもありません。所詮、人生なんてこんなものとばかりに、早々と見切りをつけて、この世で自分が損をしないように、自分が馬鹿を見ることがないようにと、うまく立ち回る心を閉ざした生き方となっていきます。
 「人々はイエスをあざ笑った」という聖書のこの言葉の中に、死に支配されている人々の絶望の姿を見ることができます。命をあざ笑うことしかできない人々のどうしようもない救いの無さを見ることができます。それと同時に、その人々を深く憐れんで立っておられるイエスの姿、十字架と復活の主、イエス・キリストの姿をここに見ることができます。何故なら、イエスこそは命そのものであり、神から遣わされた私たちの命の救い主、キリストだからです。そして、今、イエス・キリストは私たちの命の中に生まれ、私たちと共に生きてくださっています。この事実から離れず、この事実に立ち帰って生きることへと、私たちと共におられる神、インマヌエルの神と共に生きることへと招かれています。
 旧約聖書全体を通して知られる神は生ける神です。生ける神が望んでおられることは人が死ぬことではありません。人が神と共に生きることです。「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、・・・彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」と、主なる神は言われます(エゼキエル書18章23節)。「悔い改めて、お前たちの全ての背きから立ち帰れ。罪がお前たちつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われます(エゼキエル書18章30~32節)。
 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言われるイエスは、今、私たちの中に生きておられます。死ぬ生であるが故に絶望している私たちと共に生きて、神の永遠の命が私たちに与えられているという恵みの現実に立ち帰るようにと招いています。旧約の神の言葉の成就、神の民の待ち望んでいた神の救いの到来が、十字架と復活の主イエス・キリストが私たちと共に生きているという現実です。死が支配する現実から命が支配する現実へ私たちが立ち帰り、私たちが命である神と共に生きることを、神は望んでおられます。イエスが私たちと共に生きておられます。恐れることなく、諦めることなく、イエスのなさる業、語られる教えに心を開いて受け入れましょう。
 死者の復活、永遠の命が、私たちにとってどんなに理解しがたいことであるか、死の現実が、私たちにとってどんなに絶望的で絶対的な力を持っているか、この事実をありのまま認めるならば、イエスをあざ笑った人々を裁くことはできず、その人々と共に私たちも救われたいと願う者となるでしょう。イエスは言われました。「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」。
さて、今日の聖書の箇所から死の現実の中で生きる人々の姿を、イエス・キリストとの出会いを通して見ていきましょう。まず、娘の死という現実の中で、命の主であるイエスに信頼し全てを委ねて生きる一人の指導者の姿が記されています。次ぎに、不治の病の身でありながらもイエスに生きる希望を見いだして生きている女性です。
彼女は後ろからイエスに近寄りイエスの服に触れました。この方の服に触れさえすれば治してもらえると思ったからです。その時、イエスは振り向いて彼女を見ながら言われました。「あなたの信仰があなたを救った」と。その時、彼女は治ったと記されています。イエスが振り向いて言葉をかけられた時に治ったのです。何と憐れみに満ちた福音の言葉でしょうか。私たちは自分の罪に怯え、不安に駆られ、こっそり後ろからイエスの服の端にでも触ろうかと思い悩みながら、びくびくして生きている者です。そんな態度でしかイエスに近づいていけないような者です。しかし、そんな私たちに対してイエスは「元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言って下さるのです。ほんの少しでもイエスの所に行こうという気持ちがありさえすれば、救いが与えられるのです。私たちは自分の罪すらよく分からないままで生きています。しかし、今、イエスの所に行きさえすればそれでいいのだ、と思って行けば良いのです。そんな私たちに対して、「あなたの信仰があなたを救った」とイエスは言って下さいます。そんな大した信仰ではないのに、言って下さいます。このイエスの言葉に深い愛を感じます。そして、イエスに深く愛されているという自覚が、私たちにイエスの愛に応えて生きていきたい、生きていこう、と生きることへの能動性を芽生えさせます。命の主に愛され、私たちの主体性が喚起されます。イエスは私たちの弱く小さな信仰を励まし、信じて生きることへと導いて下さいます。
 三番目がイエスをあざ笑う態度です。眠るとは旧約聖書において死を表す言葉です。それがイエスの口を通して言われているのです。つまり、命そのものである方、イエス・キリストによって復活させられるという意味で眠っていると言われたのです。この言葉を聞いて人々はイエスをあざ笑いました。それほどまでに死の現実は絶対的であり、人々の絶望は深いのです。しかし、イエスは命そのもの、命の主です。生きている方、生ける神です。だからこそ、イエスは墓の中に留まらなかったのです。このイエスの命に信頼するならば、家の中に入ったイエスが少女の手を取ると、「少女は起き上がった」という言葉が決して信じ難いことではなくなります。ここに新しい命の光が輝いています。
私たちの命の主、十字架と復活の主、イエス・キリストに信頼することが福音を信じて生きることです。しかし、ここまで来ると人々はイエスをあざ笑うのです。「わたしにつまずかない人は幸いである」とイエスは言われました。今、イエスをあざ笑っている人はイエスを受け入れていません。イエスを軽蔑し、見捨て、イエスにつまずいています。イエスにつまずくことの頂点は十字架です。十字架の前で全ての人が神の救いを信じることにつまずきました。イエスは弟子たちにも見捨てられました。十字架でイエスは誰にも尊敬されませんでした。そのイエスにつまずくということがもうすでにここで起こっています。だからこの出来事はイエスの受難の道に通じています。
考えてみれば、イエスの生涯は受難の道でした。人々が軽蔑しあざ笑う人とイエスは共に生きました。罪人や徴税人と一緒に食事をしました。それでは一体、イエスの十字架のつまずきに耐えることができる人とはどんな人なのでしょうか。その人とは、自らの低さを知る痛み、自らの罪を知る痛みをもってイエスの十字架のつまずきがわかる人です。弱く低い人、自らの罪に苦しんでいる人は、その自分の所にまで降りて来たその憐れみに満ちたイエスの低さがどんなに深い慰めと慈愛に満ちた福音であるか、ということがよくわかるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とイエスは言われました。
 イエスの十字架の福音はつまずく人の福音、見捨てられた人の福音です。イエス自身がその人たちと等しくなられました。イエス自身があざ笑われ、受け入れられず、つまずきとなりました。見捨てられ、周囲の人から尊敬されませんでした。十字架の福音を受け入れるということは本当に低くなるということです。十字架のイエスと一つになるということです。自分の最も暗い闇において、自分が最も見捨てられ軽蔑される所において、そこにおいてこそ、キリストが救いの御手を差し伸べておられるからです。もう何も恐れることはないのです。イエスは父の命の業を為しましたが、その命の業はイエスにおいて低く、卑しく、惨めな人の子の姿に隠されています。隠されている神の栄光、復活の命の光を見る者でありたいと願います。
(2011年1月23日礼拝説教)

 
 
 
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