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 2010年12月26日 礼拝説教 【 労苦を解かれて安らぎを得る 】 笠原義久

ヨハネの黙示録14613

 世界も人間も自然も、すべてのものが時の刻みの中に置かれています。昼があり夕があり夜があります。春夏秋冬の季節があります。誕生があり死があります。私たちがそのような時の区切りと時の制約の中に置かれていることは言うまでもありません。時の制約の中にある私たちが、時をどのように捉えるかは種々様々であり、時を無情なものとして、もののあわれやはかなさを感じる人もあるでしょう。しかし誰しもが、避け難い時の刻みを感じています。容赦なく時は過ぎ行き、この年もはや年の瀬を迎えています。

 翻って、聖書は時というものをどのように捉えているでしょうか。旧約聖書には、「その日には、その時には、来るべき日」という言葉がよく出てきます。他方新約聖書には、「まだその時ではない」、「時が来る」、「眠りから覚めるべき時が、既に来ている」、さらに「その日、その時は、だれも知らない」(マタイ2536)という言い方がたくさんあります。概して言うなら、旧約は前方に向かって時を見、預言と約束が特徴になっています。つまり「やがてその時が来る、今はその時ではない」とする前方に向かっての時の理解です。それに対して新約は、今や時は既に来たとする捉え方で、約束や預言に対して成就とか実現が特徴になります。そうは言っても、新約の中にも「今や既に来た」「成就した」という言い方と同時に、「未だ来ていない」、すなわち約束と待望という言い方も確かにあります。聖書の時は、このように「既に」と「未だ」の緊張関係の中に置かれていると言ってよいでしょう。このことは、主キリストが、既に来り給うた御方であり、同時にやがて再び来り給う再臨の主、そのように告白されていることのうちに、端的に示されています。

 今の時とは、神の救いの歴史におけるこの「既に」と「未だ」の緊張関係の中にある「中間の時」と言うことができるでしょう。

 「ヨハネの黙示録」は、その中間の時の中で、既に始まって成就している事柄と、今も残っている事柄、例えばサタンや悪の力、罪が残存しているということを、天と地との対立というかたちで認識しています。地上においては、今も迫害があり、弾圧があり、人間の邪悪がはびこっている。だが今や天において実現しているキリストの勝利の現実を、私たちは信仰において見させられるのです。

 13章から14章に出てくるあの巨大な竜、サタンは、天において敗北し、天には居場所がなくなって地に投げ落とされます。けれども、地上に落とされた竜は、手を替え品を替えてその威力を行使します。竜は二匹の獣を使って暗躍を始めます。一匹は海から上ってくる獣、もう一匹は地から上ってくる獣です。この獣は非常に暴力的・武力的・軍事的で、執拗に人間を追いかけます。

 喰い尽くすべきものを求めて荒らし廻っているサタンの力、今日もその勢いはなお盛んです。目には見えない心、精神、魂が蝕まれている。今日、私たちの心は何と空洞化し虚無的になっていることでしょうか。何と望みに乏しく、手足が萎え、力が出て来ないことでしょうか。信仰を持って生きることがなんと厳しい時代であることでしょう。うっかりしているうちに押し流されて、気がついた時には無気力と無関心な生き方になっています。

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 さて、今日の146節以下には、三人の天使が登場します。天使は、天にも地にも轟き、響き渡る宣言をします。それは、ある一部のものにではなく、すべてのものに轟く勝利宣言です。「この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、?大声で言った。『神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい』」(67節)。「地に住む人々」の元の言葉は、「地にべったりと座り込んでいる」という意味で、寝そべって、すべてのことに無頓着で無関心、無感覚な民に対する、もう審きの時が来ているという呼びかけです。

 ルカによる福音書172630節にはこう記されています。

「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていたが、洪水が襲って来て、一人残らず滅ぼしてしまった。ロトの時代にも同じようなことが起こった。人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、ロトがソドムから出て行ったその日に、火と硫黄が天から降ってきて、一人残らず滅ぼしてしまった。人の子が現れる日にも、同じことが起こる」。

これは、創世記のノアの箱舟とロトの物語としてよく知られているところです。主の警告に対して知らん顔で文字通り地に座り込んで無関心でいた人々の中で、唯一ノアだけが目覚めて、主の命じられた通りに箱舟を作り、大洪水の時にはノアとその家族だけが救われたのです。それと同様なことが起こると言われています。この第一の天使は、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである」と忠告します。私たちはこれをどう聞いたらいいでしょうか。今、第一の天使が大声で宣言しているのは、永遠の福音と言われていることです。すべての者にとっての良きおとずれ。一時的なものでなく、永遠にわたる良きおとずれ。今や罪と死の支配が倒されて、救いの道が開かれたという宣言です。イエス・キリストの十字架によって、その死と復活によって、その扉が開かれたのです。この御方を受け入れないところには救いはあり得ないのです。この御方に従って初めて、罪から救いの扉が用意され、復活の望みと勝利が与えられるのです。

 さて、次に八節。「また、別の第二の天使が続いて来て、こう言った。『倒れた。大バビロンが倒れた。怒りを招くみだらな行いのぶどう酒を、諸国の民に飲ませたこの都が』」。この「バビロン」は確かに地名ですが、もとより具体的な場所を指すというよりも、あらゆる異教信仰・偶像崇拝の代名詞です。偶像崇拝は人々の目を眩ませ、その心を弛緩させ、いとも簡単にその虜にさせてしまうものです。解りやすく言えば、お金がその一つです。お金を差し出して人の心を掴み、引きずることは簡単です。お金信仰、お金という魔物に心が捕われていくのです。聖書は、「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」(マタイ624)と言っています。この場合、富は金銭だけでなく名誉でも権力でもあります。神ならざるものを金科玉条のようにして伏し拝み、それになびいていく人間の実の姿がここにはあります。

 この第二の天使は「バビロンが倒れた」と言います、この「倒れた」という言葉は、高いビルが崩壊していくように、建物がガラガラと崩壊していく様を表す言葉です。ですから、第二の天使が宣言しているのは、決定的にサタンの座が跡形もなく崩されたということです。

 第三の天使はこう言います。910節「別の第三の天使も続いて来て、大声でこう言った。『だれでも、獣とその像を拝み、額や手にこの獣の刻印を受ける者があれば、その者自身も、神の怒りの杯に混ぜものなしに注がれた、神の怒りのぶどう酒を飲むことになり、また、聖なる天使たちと小羊の前で、火と硫黄で苦しめられることになる』」。

無神経で無感覚で、時の迫っていることを弁えなしにいた者たち、それと獣の誘惑や強制にもろくも崩れていく者たちは、神の怒りの杯を免れることはできないと言われています。彼らは神の小羊の印ではなく、獣の印を手や額に刻印されている者たちです。さらに、火と硫黄の苦しみは絶え間なく続き、その苦しみは、聖なる天使たちと小羊との前で行われ、もはや神の小羊イエス・キリストも手を差し伸べないと言われています。決定的な審きの時が来たからです。

 しかし、神のことばを信じ、神の小羊によって開かれた救いの道を歩む者、信仰に生きる者には大きな栄光の座が用意されています。12節に「ここに、神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たちの忍耐が必要である」と記されています。信仰生活にはやはり忍耐が必要である。その忍耐はがまんとか辛抱ではなく、希望のある忍耐、希望に結びついた忍耐です。

 最後に13節。

「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」“霊”も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 その大きな天からの声は、「きちんと書き記せ」と言います。書物にというだけでなく、私たちの心にきちんと刻まれ、書き記されるべきだと言います。神の小羊の復活に共に与ることのできる者、主を信じる信仰を持って死ぬ人間はさいわいだと言われています。何と大きな勇気と希望が出てくる言葉ではないでしょうか。

さらに、一切の労苦を解かれて安らぎを得ると言われます。限りない労苦に喘ぐのではなく、すべての労苦は解かれて、そのわざは天にまでついていくのです。

 ヘブライ人への手紙にはこうあります。

「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません。わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(61012節)。

 過ぎたこの一年、多くの苦しみや涙があったとしても、主の復活の恵みを知り、主を信じて生きてきた者は、その労苦から解き放たれて休息が与えられ、そのわざが天にまで覚えられると約束されています。この言葉に意を強くされて、教会の暦ではアドベントからすでに始まっている新しい主の年を、共々に歩み行きたいと願うものです。

20101226日礼拝説教)

 
 
 
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