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 2010年5月16日 特別伝道礼拝説教 【神の激情】 笠原義久

ルカによる福音書 15章11~32節

 物語は「放蕩息子」であった弟が父のもとに帰還し、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった、祝おうではないか」という父の言葉をもって、24節で一応完結しています。ところがそのあとに「ところで、兄の方は畑にいたが」という新しいストーリーが展開され、これが第一幕である弟のストーリーに添えられたちょっとしたエピソードではなく、ストーリー全体の方向性を左右するような重要な意味を持っていることに私たちは気づかされます。ですから弟を主人公とする一幕ものの「放蕩息子のたとえ」ではなく、不均衡ではありますが、二幕からなる「二人の息子と父親の物語」として捉えるべきでしょう。

下の息子は、父に、自分がもらうことになっている財産を今くれと要求しました。ユダヤの家父長制社会では、これは父親の長寿を喜ばないに等しい行為でした。それだけでなく早い時期における生前贈与は、家父長である父親の名誉を著しく傷つけるものでした。それでも、父親は、息子の言うことを聞き入れ、自分の財産を二人に分けてやりました。しかし下の息子は、もらったものをすべて取りまとめて、つまり売り払って、家を出てしまったのです。ですから下の息子は、財産を所有する権利だけでなく処分する権利をも要求し、これを獲得していたことが分かります。財産処分の権利行使は、父親の死を想定して為される行為ですから、この息子は、父親は事実上死んでいると公言していることになります。実際、父親が分けてやった「財産」という言葉は、ここではビオスすなわち「生命・いのち」という言葉が使われています。父親は自分の命を与えたも同然です。また息子の財産処分は、その財産によって守られていたであろう、ここには登場しない母親や女の子どもたち家族の生活を、多少なりとも危険にさらしたに違いありません。

 さて、下の息子は異国で放蕩の限りをつくします。癒しがたい、矯正されることのない、自己破滅的な生き方をしたのでしょう。その原因は何か。はっきり語られてはいませんが、家族から、とりわけ父親から離れて生きることが、この息子を成り行き任せの不安定な状況に導いたのではないでしょうか。彼は堕ちるべきところにまで堕ちました。動物も同然、人間であることさえ棄てようとしました。
しかし「我に返る」という言葉によって、彼に何らかの回復が始まった、自己破滅的な行動パターンを克服し始めたことが示唆されています。しかしこの展開を「悔い改め」と言うことが果たしてできるでしょうか。彼が父親の家に帰る決心をしたことは、必ずしも悔悛の結果ではないように思われます。ここには下の息子の「有り余るほどのパン」、「飢え死に」という言葉しか記されていません。つまり、彼の「胃袋」が父の家への帰還を促したと言えなくもないのです。
さらにもう一つ、彼が帰宅したらすぐ言うつもりであった「お父さん、私は天に対しても、またあなたに対しても罪を犯しました」という言葉は、イエスのこのたとえ話の聴き手とされている律法学者やファリサイ派の人々にとっては、出エジプト記からの引用であることがすぐに分かるものでした。エジプトの王ファラオは、エジプトの人々の上にもたらされる様々な災いを止めさせようとして「あなたたちの神、主に対し、またあなたたちに対しても、私は過ちを犯した」と言います。ファラオが悔い改めていないことは誰もが知っています。イエスも、この息子が本当の意味で悔い改めてはいないことを伝えようとしたのではないでしょうか。そのことは、この息子が、帰還後の自分と父親との関係を、親子ではなく、雇用主と雇用人の関係で結び直そうと考えていることによっても裏付けされるように思われます。
もう一つの問題は、この息子の罪とは一体何であったか、ということです。第一は、異邦人のところに身を寄せ、さらにユダヤでは禁じられている豚の世話をするという職業に就くことによって、ユダヤ教を棄てたという罪です。第二は、相続財産を異邦の地ですべて使い果たしてしまったということ。それは、ユダヤの土地、そしてユダヤの財産を、よその土地に捨ててしまったに等しいことであり、また父の面倒をみるという家族としての責任履行を不可能にしてしまったということです。これは個人的なあやまちのレベルを超えています。実際、父親にだけでなく、神に対して、またユダヤの共同体に対しても罪を犯したことになる。彼はそのことを真の悔悛なしに口にしようとしているのです。

 こうして帰還した息子を、父親は激情をもって迎え受け入れます。この息子の所業は村中に知れ渡っていました。またそのことによって家長としての父親の名誉は著しく貶められていたことでしょう。息子が人々の非難の目にさらされる前に、父親は駆け寄って彼を受け入れ、そのことを人々に公然と示したのです。父親は息子を憐れに思った、とあります。ここで用いられている「憐れむ」という言葉は、内臓(特に心臓、肺、肝臓、腎臓など)という言葉から派生したもので、まさにはらわたがちぎれそうな強い感情・激情を示しています。ユダヤの社会では、社会的地位のある男が人前で感情を露わにして走り、抱擁し接吻するなどということは、恥ずべき行為と見られていました。情愛を込めた抱擁と接吻、これは女性、特に母親に相応しい行為だと考えられていました。
このたとえ話を題材にした一七世紀オランダの画家レンブラントの傑作『放蕩息子の帰還』は、息子を抱く父親の片手を、ごつごつ骨張っていない母親の手、女性の手のように描いています。これは、無私で無条件の母親の愛を表し、それが、息子をもとの地位に復帰させる家長の権限をもつ父親の愛とともに、神の愛の側面であることを示しているように思います。

 聖書の中に、「神は愛である」という言葉があります。神のご本質は愛である。本質という以上に、神さまそのものが愛だと言われています。聖書は、その神さまご自身が、イエス・キリストという人格において身を低くして私たちのところに来られた、私たち人間と徹底的に連帯し、共に生きておられる ―― それが神さまの愛である、と言います。ある人は、このような神の愛を、親の愛にたとえて次のように言っています。親はわが子を、美しいから、かわいいから、あるいは何か固有の価値を持っているから愛するのではない。どのような子であろうと、人から見て美しくあろうとなかろうと、ただそこにある、存在している、生きているが故に、全く無条件に愛するのだ ―― 神の愛とはそのような愛なのだ、と。

 父親のほとばしり出るような激情 ―― 抱擁と接吻は言うまでもなく「赦し」のしるしです。この「赦し」のまえに、息子の言っていることが真実かどうかを吟味するようなことは一切為されていません。悔い改めているかどうかも問われていません。「赦し」が一切に先行します。
財産の分与を要求して以来、父親にとって死んでいた息子が、息子として生き返り、再び新しく見出されたのです。

たとえ話の第二幕は、25節からの上の息子の物語です。
上の息子は、父親に対し怒り、父親を激しく拒絶します。第一幕で下の息子が父親を切ったのとまさに同じように、彼は自らを父から切り離そうとします。上の息子はおそらく下の息子とは異なり、財産を所有する権利しか得ていなかったと思われます。そして生活の実際面では、自分が完全に父に依存していると理解していました。実際この上の息子が、私は父に「仕えてきた」と言うとき、「奴隷として仕えてきた」という言葉が使われていますから、自分と父親との関係を主人=僕という関係で考えていたことが分かります。
これに対し、父親の方は、この息子のことをどう考えていたか。「いつも私と一緒にいる」という言葉からも分かるように、父親にとっては仲間・友であり、土地の共同所有者でした(「わたしのものは全部お前のもの」)。父親は「子よ」と呼びかけます。この呼称は非常に強い情愛を表しています。法的な相続人たる「息子」ではなく、自分が愛情を注いで已まない「子ども」である、というのです。
26節、上の息子は、何が起こっているのか僕の一人にたずねます。僕は答えます。「弟さんが帰ってこられました」。僕はこのストーリーに「兄弟」すなわち「家族」という視点を入れようと試みているのです。しかし兄はこれを拒否します。30節「あなたのあの息子が」と彼は言います。家族・弟ではなく、あなたの息子、相続人だと言うのです。しかし父親は、「子よ」と呼びかけます。法的な相続人ではなく、自分が愛して已まない「子ども」と呼んで、息子に向かい合っています。弟に接吻しかき抱いたのと同じ父親がここに再現されているのです。
父親の激情が注がれたのは、財産でも相続でも道徳でなく、その子どもたちを見出すこと、本来の人間性における兄弟の一致を見出すことであった ―― そのように言うことができるのではないでしょうか。

最後に私たちはこのたとえを、神の国のたとえとして聞かねばなりません。一言で言えば、神の国は詩編133編1節の言葉が現実となっている、そのことが出来事として起こっていることです。「見よ、兄弟が共に座っている、何という恵み、なんという喜び」 ―― 兄が正しい、いや弟の方が正しい、兄・弟いずれをとるか、神の国はそのようなものではなく、兄と弟が共に座っていることが直ちに喜びであるような事態 ―― ここに登場する兄と弟のように、分裂と崩壊しか見いだせないところに、そこにあるだけでよい、存在するだけでよい、生きているだけでよいと仰せられ、激情を注いで下さる神の熱意が貫き通されるような事態、それが聖書の告げる神の国です。
(2010年5月16日特別伝道礼拝説教)

 
 
 
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