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 2012年3月25日 礼拝説教「彼女を記念して 」笠原 義久  
 マルコによる福音書14章3~9節/サムエル記上9章27節~10章1節

お読みいただいたマルコによる福音書14章のベタニアでの主イエスの油注ぎの出来事は、十字架に向かうイエスに対する一人の女性による何の見返りも求めない献身が示された福音書の中でももっとも心打たれる、美しい物語として読まれてきました。ヒマラヤに自生する松の根からとられた高価なナルドの香油の香りがたちこめる中、主イエスによって「彼女を記念して」、すなわち彼女を新しく想い起こすため、語り継がれるべきと宣言されているこの女性のしたことは何であったか、ご一緒に聴きたいと思います
この物語は、民衆の指導者たちがイエスを捕らえようと策略を巡らしている記事と、イエスが十二弟子の一人ユダによってお金のために裏切られるという告知との間に挟まれています。イエスの受難がまさに現実のものとして動き始めたその時の中に置かれています。
私たちは、イエスご自身による苦難と処刑と復活の予告が、もうすでに三回にわたってなされていることを知っています。この予告が告げられたあとには、その都度弟子たちの誤解が続き、さらにイエスの弟子であることの性格についての教えが続く、というパターンで展開していきます。弟子であること ― それは文字どおりイエスの十字架への道に従って行くこととされています。生命の危険を冒してまでも苦難と迫害のイエスに従って行くようにという招きです。そして、そのイエスの周りに形成されていた弟子たちの共同体の指導権の問題をめぐって、もっとも大いなる者つまり共同体の指導者たちは、もっとも小さい者つまりすべての人の召使いにならなければならないことが強調されています。
しかしながら弟子たちは、ペトロがその代弁者ですが、苦難と死が必然であることを説くイエスの告知を理解しなかった。またイエスによって示されたキリスト者に相応しい共同体の指導者であることへの招きも理解しなかった。実際ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、イエスの受難告知の直後、イエスの国、神の御国での自分たちの栄光と権力の座を願い求めています。イエスは彼らを手厳しく諫めます。異邦での指導権は権力と他者支配に基づくが、キリスト者の間にあっては、そのような支配=被支配の関係は断じてあってはならない。共同体の指導者たちは支配者の位置を取るのではなく、むしろ奴隷の位置に、すべての人の奴隷とならなければならない、と。しかしながらペトロも他の弟子たちも、イエスの自分自身の苦難と死についての告知、また本当のキリスト者の指導権を特徴づけるすべての者の召使いとなるようにという招きも理解しなかったのです。
マルコによる福音書の描く指導的な男弟子たちのポートレイトは、このようにかなり批判的、ほとんど否定的と言ってもよいでしょう。彼らはイエスの使命を誤解しただけでなく、イエスというお方が何者であるか、その本質が何であるかも間違って理解した。そしてついに彼らはイエスの逮捕と処刑の時に、イエスを裏切り、否定し、彼を捨て去った。

ところが、イエスの受難と死への道行きの途上で、この男の弟子たちに代わって、突然本当の弟子として姿を現すのが、女性の弟子たちです。ガリラヤからエルサレムへとイエスに従ってきた女性の弟子たち、彼女たちは十字架への道をイエスに付き添い、最後にイエスの十字架上の死を見届けたことを、マルコは名を挙げて報告しています。彼女たちは、男弟子たちとは対照的に、自分たち自身の生命と安全の危険を冒して十字架のもとに身を置きます。彼女たちが、ローマによって十字架刑に処せられた政治犯の追従者として捕らえられ処刑される危険があることを十分に承知していたことは、彼女たちが「遠くから見守っていた」との記述からも明らかです。
マルコは、十字架の下にあるこの女性の弟子集団を、三つの動詞を用いて特徴づけています。彼女たちはガリラヤからイエスに「従って来た」。彼女たちはイエスに「奉仕した」。そして彼女たちはエルサレムに彼と「共に上って来た」。すなわち「従う」「奉仕する」「共に上る」という三つの動詞です。
「従う」は、弟子集団への召命と決断のこと。最初の弟子たちはすべてを棄ててイエスに従って来たとあります。そしてイエスは、自分に従ってくることは「十字架を背負うこと」、つまり処刑される危険を受け入れることだと言います。女性たちはすべてを棄てて、イエスの十字架への道行きに悲惨な結末に到るまでも従って来たイエスの本当の弟子です。
「奉仕する」は、女性の弟子たちが、イエスにつき従う者に必要とされた本当の指導権を実行してきたことを強調しています。ディアコニア(奉仕)は、イエスご自身の宣教活動、その使命と働き全体を要約する言葉です。「奉仕する」は、食卓の奉仕をするときにも使われますが、その意味に限られません。イエスは、先ほども触れたように、異邦の支配者のように他の人々を従属させたり奴隷にさせたりしない方、他の人々を隷属状態から、罪の力の支配から引き上げて解放する苦難の僕です。同じように共同体で指導権を実行する人は、一番端の席に、末席に座る者として、召使いとしての指導権を実行する ―― 十字架の下にある女性たちはそのような本当の弟子として特徴づけられています。
「共に上る」は、四人の指導的な女性弟子だけではなく、ガリラヤからエルサレムへとイエスに従って来たすべての女性弟子に対して用いられています。この言葉は、ここ以外では使徒言行録13・31にしか出てきません。そこでは復活の主に出会って主の証人となった人々に用いられています。ですからガリラヤから「共に上」って来た女性たちは、使徒的証人として特徴づけられています。

ガリラヤからエルサレムへと主イエスに従ってきた女性の弟子たち ―― 今朝のベタニアでイエスの頭に香油を注ぐ、その名も記されていない「一人の女」は、間違いなくこの女性弟子の一人であった。「はっきり言っておく。福音が宣べ伝えられる所では、全世界のどこでも、彼女のしたことは語られるであろう、彼女を記念して」と主イエスによって断言されているこの女性弟子、その名前さえ私たちには失われているこの女性のしたことは何であったのでしょうか。今私たちがこの女性弟子を新しく想い起こすとはどのようなことなのでしょうか
彼女はイエスの女性弟子の一人、自分の十字架を背負ってイエスに従い、末座に座して召使いとしてすべての人々に仕えてきた女性弟子です。彼女が為したことは、イエスの頭に油を注ぎかけるという旧約の預言者が為したと同じ預言者的な象徴的な行為であった。 ヨハネ福音書は、この女性をベタニアのマリアと同一人物であるとみなし、彼女はイエスの誠実な友として、その愛をイエスへの油注ぎによって示したと見ています。彼女は香油をイエスの足に塗り、自分の髪でその足を拭ったと記されています。しかし物語が客の足に油を注ぐ物語であったとすれば、ある意味そのようなありふれた行為が福音の宣教として覚えられ語り告げられることはなかったでしょう。ここでは一人の女性がイエスの頭に油を注いだ、ということが重要です。
旧約聖書において、お読みいただいたサムエル記上のサムエルがそうですが、預言者はユダヤの王の頭に油を注ぎました。この油注ぎによって、預言者はこの王が油注がれた者、すなわちメシアであることを承認するのです。ですからイエスの頭への油注ぎは、直ちに、イエスは油注がれた者、メシア、救い主、すなわちキリストであることの預言者的な承認であると言えます。ここでイエスをメシア、キリストとして指名したのは、指導的な男弟子ではなく、この一人の女性であった。彼女はイエスに本当に従って来た者であり、イエスのメシアとしての使命が、支配と王的な栄光にあるのではなく、ディアコニアすなわち「奉仕」にあることを理解していました。イエスは罪人や徴税人と食事を共にする人でした。食事を共にするということは、互いに受け入れ合うということであり、腹を割って友となり兄弟となるということでしょう。ここで重い皮膚病の人シモンの家で食卓についていたこと、それは、神がそのイエス、メシア・キリストにおいて、末席に座る者、宴席の末座の人として私たちのところに来てくださっている。そしてこの世の末座の人の友となり、そこに座るしか他に座る場所のない者の兄弟となってくださっている、ということに他なりません。ですから、この女性の油注ぎは、そのような方として、メシア・キリストにおいて私たちの間に臨んでいてくださる神に対する彼女の精一杯の信仰告白でもある、と言えるでしょう。
彼女のしたことを、イエスは「彼女はできるかぎりのことをした」と是認します。「よし」とします。何を「よし」としたのか。彼女が真の、正真正銘の弟子であることを「よし」としたのです。「従う」「奉仕する」「共に上る」、十字架のもとにたたずんでいたあの女性弟子たちの真の弟子であることを特徴づける三つのありようをそのままに生きている彼女を「よし」としたのではないでしょうか。
この女性は、おそらくイエスの十字架のもとに身をおいた女性弟子たちのサークルの一人となったことでしょう。自分たちの生命を脅かす非常に大きな恐れにもかかわらず、彼女たちは苦難に際してイエスと共に立ち、またイエスの死に際して礼を尽くそうと努め、そしてイエスの死後「空の墓」の目撃者として、イエスの復活の証人として、復活を宣べ伝える者となったのです。彼女たちは、十字架にかけられた主と復活された主とがメシアとして同じ方であること、そのことを宣べ伝えることが自分たち弟子のサークルに委ねられていることをしっかり心に留めたのです。
私たちの教会は、今もなおあの女性弟子たちが経験した恐れを今も経験しています。またペトロと同じように、教会は苦難を避けるためにイエスを裏切る誘惑を受けています。にもかかわらず、そのイエスから教会は、私たち一人ひとりは、「従う」「奉仕する」「共に上る」弟子としての召命を確かに受けています。弟子として立つよう呼びかけられています。そしてそれぞれの馳せ場で、弟子としてできる限りのことをなすよう求められています。

(2012年3月25日主日礼拝説教)

 

 

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