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 2010年7月25日 礼拝説教 【清くなれ】 笠原義久

レビ記13章1~8節 / マルコによる福音書1章40~45節

  イエスのもとにやってきた一人の重い皮膚病の人、彼にとって、このような公の場に姿を現すこと自体、まさに決死の行為であったに違いありません。なぜなら、旧約聖書のレビ記に規定されているように、重い皮膚病に罹った者は「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。そして独りで宿営の外に住まねばならない、つまり隔離されていなければならなかったからです。他にも感染や流行を引き起こすような伝染性の病気・疾病もあったでしょうが、この重い皮膚病だけが、どうしてこれほどまでに社会
的差別の対象とされたのでしょうか。

 この「重い皮膚病」という言葉ですが、聖書協会新共同訳聖書は、1997年まで、口語訳聖書の訳を継承して「らい病」と言っていました。このもとになっている言葉、ヘブライ語でツァーラアト、ギリシア語でレプラーと言いますが、これは、私たちが「らい病」と呼んできた疾病、すなわちハンセン病のことではない ― そのことが今日ではほぼ確認されています。「重い皮膚病」とは、皮膚のうろこ状の剥離を伴ういくつかの病気、すなわち乾癬や湿疹、種々の病原菌性皮膚病の総称だと言われています。
さて、「体・身体は、その社会のシンボルである」「その社会が人間の体を扱う仕方の内に、その社会が、社会的な関係や相違についてどう理解しているかが表現されている」と言われます。例えば、自分たちよりも強力な他の文化に吸収される危険にいつも曝されている社会においては、「社会的境界」をしっかり防御しなければならない。このことが「身体的境界」を守ることによって象徴される、というのです。古代の小国イスラエルはどうであったか。イスラエルは、政治的・軍事的なレベルでは、旧約聖書からも分かるように、常に周囲の帝国によって征服される憂き目に遭いました。また宗教的・文化的なレベルでは常に帝国によって吸収されるのではという圧力に耐えていかねばならなかった。そのことが、旧約聖書にあるように、身体的な境界について数多くの祭儀的な規定を定め、身体の完全と統一と清浄を守ろうとする並々ならぬ苦心に反映していると見ることができます。
このことは、人間の体の口を開いている部分、つまり「穴」に、何を出入りさせればよくて、何を出入りさせてはならないか、について特別な関心が払われていたことを意味します。レビ記に即して言えば、11章では口を通して体の中に入る食物について、その浄・不浄について規定しています。12章では体から出てくる新生児について規定しています。しかし、重い皮膚病の扱いを規定しているレビ記13章、14章は、さらに危険な境の問題を扱っています。皮膚病は本来口を開いてはいないところに発生するもの、その皮膚病が皮膚の表面にできた口・穴を通して、皮下組織にまで深く及んでいるとき「重い皮膚病」だと宣言されるのです。外から不浄なものが身体内部にまで浸食している、とみなされるからです。この重い皮膚病は、皮膚ばかりではなく、13章の終わりでは、衣服にもあてはめられます。そこでは重い皮膚病を発症させる原因の一つであるカビのことが言われています。汚れていると言い渡された衣服は隔離され焼かれねばならない。さらに14章では家の壁にもあてはめられています。このように皮膚・衣服・壁などによって外から守られていた境界が破られることは、社会的なシステム全体の崩壊を意味します。
ですから、重い皮膚病に罹っている人が社会的な脅威となったのは、私たちが想像するように、医学的な伝染、つまり感染や流行を引き起こす危険を彼らがもっていたからではないのです。そうではなく、社会全体のアイデンティティ、一致と安全を脅かす象徴的な汚染源であると見なされたからです。それゆえ、レビ記13章45~46節には次にように規定されています。
「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状がある限り、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。
死は、私たちの生の真っただ中において「関係の断絶」という仕方で、私たちを絶えず脅かしています。重い皮膚病の患者は、社会から関係を断たれ、いわば「社会的な死」の状態に据え置かれ、自分の失われた命のために喪にさえ服さねばならないのです。

この重い皮膚病の人は、そのような死の陰の谷から歩み出て、決死の覚悟でイエスの前に跪いたのです。
この人に相対した主イエスは「深く憐れんだ」と記されています。「かわいそうだ」と思い憐憫の情をかけてやる、ということではありません。よく言われるように、ここは「はらわたがちぎれるような思いに駆られて」と訳されるべきでしょう。すなわち腸や肝臓・腎臓などを指すスプランクノンという名詞に由来する言葉が使われています。内臓は人間の感情の座であると見なされていましたから、まさに、はらわたがちぎれそうな強い感情の動き、激情に駆られた主イエスが描かれています。社会的な死の状態に据え置かれ、自分の失われた命のために喪にまで服しているこの人のありように、イエスは涙を流さんばかりに強く心を動かします。しかしそれだけでなく、この人を隔離の状態にとどめおいているユダヤ社会のシステムに対する憤激、またこの病を祭儀的に不浄である、「汚れている」と宣告することによって、ユダヤの身体的境界の守り手を自任するユダヤの神殿当局、祭司たちに対する憤激の思いが、言い表されているのでしょう。
イエスは手を伸ばして彼に触り「清くなれ」と言います。ここで起こったこと、ことの真相はどのようなことだったのでしょうか。
これは近代的なものの見方かも知れませんが、「疾病を治療すること」と「病を癒すこと」との違いを踏まえることは大事だと思います。患者は「病」を患い、医者は「疾病」を診断して処置します。「疾病」が患者を物理的な観点から見るのに対して、「病」は患者をより広い心理的・社会的文脈において見ています。イエスと出会ったこの重い皮膚病の人に即して言うなら、この人は「疾病」(乾癬、湿疹などの病原菌性皮膚病)と「病」(汚れ、孤立、拒絶といった個人的・社会的な恥)の両方を患っていました。そして、疾病、つまり重い皮膚病という疾患が続く限り、汚れ・孤立・恥辱という病もまた続くことでしょう。疾病が悪化すれば、病もまた悪化することでしょう。一般的に言えば、疾病が治療によって治れば、病も治ります。
イエスがここで行ったことは、いわば物理的世界への介入によって、医者が行うと同じように疾病を治療し、その結果として社会的・心理的広がりをもっているこの人の病を癒したのでしょうか。それとも医者がするような治療行為はせずに、ただ社会的世界への介入によって病を癒したのでしょうか。
私たちには、イエスが疾病を治療する能力をもっていたかどうかは分かりません。しかし少なくとも、この治癒奇跡の伝承を伝えていった教会は、そしてマルコ福音書記者は、イエスのことを、治癒奇跡を行うことのできる霊的能力を生まれながらに備えていた奇跡行為者と見ていた、そのことは確かです。しかし医者が疾病を治療するのと同じような能力をイエスが備えていたと考える必要はない。仮に疾病を治療しなくても、イエスはこの人の病を完全に癒すという奇跡行為を為したのではないでしょうか。
主イエスが行ったこと ― それはこの重い皮膚病という疾病が、祭儀的に不浄であると受け取ることを拒絶し、またその不浄ゆえの社会的な排斥・隔離をよしとする考えを拒絶することによって、この貧しい社会の排斥者の病を癒したということではないでしょうか。それは具体的には、この人を、彼が追放されたもともとの共同体に戻してやった。もとの社会的関係の中に喜んで復帰させた。この人の抱えている深い苦悩に心打ち振るわせ、その苦悩を愛と顧みで温かく包んで共同体に復帰させることだった、と言えるでしょう。

イエスはこの人の病を「清くなれ」と言って癒しました。正確には「あなたは清くされるように」。つまりイエスはここで、祭司にのみ許されていた「あなたは清い」という宣言を、祭司に代わって行っていることになります。これは、ユダヤ社会の境界を守る者たち、管理する者たちの権利と特権を正面から批判する振舞いです。疾病を治療するのではなく、病を癒すことによって、イエスは、社会に確立されていた手順を覆したのです。
このことは、44節に記されているイエスの言葉によって、より鮮明になります。イエスは言います「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。最後のところ「人々に証明しなさい」は、「彼らへの証言として」あるいは「彼らへの証言のために」と訳した方がよいと思います。イエスがこの人に神殿に行くように命じたのは、律法遵守のためではなく、「祭司たちに対する証言として」つまり「上に立つのは誰であるかを彼らに示すために」であった、彼らへの対決的証言のためであった、と言えるのではないでしょうか。イエスによって病を癒されたこの人は、ユダヤの神殿当局、祭司たちへの対決的証言、挑戦状である。ユダヤ社会の境界の守り手を自任してきた祭司に代わって、いや祭司に勝るこの境界の新しい守り手としてイエスは自らを提示している。イエスは、病人に対する伝統的で公式の制裁をよしとする考えを拒否することによって癒しました。言い換えると、イエスは、この重い皮膚病の人を、神の民の共同体、すなわち「神の国」に引き入れることによって癒したのです。「貧しい人たちは幸いである。神の国はその人たちのものである」というあのイエスの言葉が、その本来の意味において現実のものとなったのです。
主イエスの重い皮膚病の人の癒しは、あなたたちの教会、信仰共同体はそのような病を抱えている人たちを担って共に生きようとしているのかどうか、そのように私たちに問いかけています。

    (20107月25日礼拝説教)

 

 
 
 
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