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 2010年2月28日 礼拝説教 【涙を拭ってくださる方】 笠原義久

  レビ記161122 ヨハネの黙示録71317

 今朝は「罪の贖い」について聖書からご一緒に聴きたいと思います。

 いにしえより、罪は何によって償われるのかということは、人類にとって大きなテーマであり続けてきました。犯された罪の償いは何によってなされるのか。その犯された罪の量と質に匹敵するものをもって償われなければならない、それに応じたものによって償われなければならない、とされてきました。その犯された罪に見合うだけ、それに相当するだけのものをもって、初めて償われる。もちろんそこで損なわれたもの、失われたものを本当の意味で償うことはできません。それは絶対的に不可能です。その最たるものは命です。命が損なわれる、これは何によって償われるでしょうか。殺人には死刑をもって ――?そのような刑罰応報主義をもってしたとしても、失われた命を取り戻すことはできないのです。

 旧約聖書のレビ記2417節以下、有名な「目には目を」のところですが、次のように記されています。「人を打ち殺した者はだれであっても、必ず死刑に処せられる。家畜を打ち殺す者は、その償いをする。命には命をもって償う。人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。ことはこの刑罰応報主義によって一応決着した、償いが成立したと見なしてきたのです。

 けれども、古代からイスラエルが最も頭を悩ましたのは、主なる神に対する罪は何によって償われるか、という問題でした。

端的に言って、神に対する罪とは、神の主権を侵すこと、神が神であり給うことを否定したり、無視したりすることです。神の主権を侵す?――?それは、神に楯突き、敵対することだけでなく、無意識に神を認めない。神を無視して、自分が支配権を握って行動する。これも重大な神の主権の侵害です。私たちは、生まれた時から神を知らず、神を無視し、あたかも自分が世界の中心であり、すべてが自分の考え通りでなければならない。これが生まれたままの人間の本性です。そこには、神の前での恐れもへりくだりもない。それどころか、主の名を汚す、神を侮り、神を自分の小間使いのようにしてしまう。無意識に神を拝んでいるようでありながら「ああして下さい、こうして下さい」と、私の願いに神を従わせることをしてしまっている。

 「神が神であり給うことを私は讃美いたします。私は塵灰にすぎません。私はあなたの僕です。主よ、あなたの御旨がなりますように」との願いではなく、先ず「我ありき」です。「主よ、主よ」と言いながら、その実、私が主人公。このような、神を侮り神の名を汚す罪は、何をもって償うことができるのでしょうか。

 古代イスラエルでは、どうしたらこの問題に決着がつけられるか、随分と苦しんで悩んで考え抜かれました。そして、神の前の罪、それが根本的に深くて、避け難くて、人間の一番深いところからにじみ出てくる罪であると知った時、これを償うことに絶望的な思いを抱いたことを、私たちは詩編詩人の嘆きの詩からも知ることができます。

古代イスラエルは、この問題をモーセの律法に従って考えました。自分たちの罪を償うのには、その代償として自分自身の命をもって償わなければならない。しかし、それでは命がいくつあっても足りない。そこで、自分の命の代わりとして動物を捧げました。いわゆる動物犠牲です。レビ記1711節には、「血はその中の命によって、贖いをするのである」と記されています。せめて大事な動物?――?彼らにとって動物は財産の中でも最たるものでしたから?――それも数多くの家畜の中で傷のないピカピカの最上級のものを捧げる。それは、かけがえのないものを捧げることによって、神に対する真心を表そうとすることです。パウロの言葉で言えば、神の怒りをなだめる「なだめの供物」として捧げたのです。

神に対する罪は、当然、神の怒りと審きを招きます。イスラエルの人々は、その神の怒りをなだめるものとして、動物を捧げてきました。それは幾世代にわたり、何百年にもわたって続けられてきました。しかし、ヘブライ人への手紙の著者が指摘するように、「すべての祭司は、毎日礼拝を献げるために立ち、決して罪を除くことのできない同じいけにえを、繰り返して献げます」(1011)。幾度、動物の血が注がれても、神の前の罪を償うことはできない。不可能なのです。くり返し行っても、決して罪を除き去ることはできないという限界の中にあります。

 長い間くり返し行われてきたこの罪の償いの儀式、これにピリオドを打ったのがイエス・キリストです。古代イスラエルの重大問題だけでなく、これは全人類の重大問題です。神の前の罪は何によっても決して償うことはできない。この不可能であることをきっちりと踏まえなければならない。その背景と経緯をしっかりと踏まえた上で、聖書の告げていることを聞きとる。聖書は、金輪際、律法によっては神の前の罪は償うことができない、弁償できない、賠償金は支払い得ないと言います。

 それにしても、ピリオドが打たれたとは、どういうことなのでしょうか。詩編四九編にはこうあります。「神に対して、人は兄弟をも贖いえない。神に身代金を払うことはできない。魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない」。つまり人は神に対して、身代金を絶対に償い、支払うことができないと言った上で、最後に「しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」と告白されています。

 「神が贖って下さる」。イエス・キリスト以前、数百年前から詩編の信仰者ははっきりこのことを語っています。神がピリオドを打ち、神御自身が、神の前に犯された罪を償う道を拓いて下さった。神御自身が実力行使、直接行動を起こされた、と。それが、イエス・キリストを私たちと共に、私たちのただ中に、私たちの一人として遣わし、キリストにおいて私たちの罪を償う道を拓いて下さったということです。

 ヘブライ人への手紙は、「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」(21415)と言います。聖書が告げる福音、よきおとずれとは、イエス・キリストによって罪の責任を解除されたことです。私たちはイエス・キリストにあってもはや、神の前に犯してきた罪、今犯している罪、これからも犯すかもしれない罪、一切の罪から解放されたのです。償うことは、弁償すること、借りを返すことです。イエスの十字架のわざは充分ではなくて半端だったので、私の罪はまだ残っている、過去はよいとしても、今と今からの罪は無理だろうと考えるのであれば、その人はイエス・キリストの十字架を半分しか分かっていない。キリストの十字架のわざは、過去と現在と将来にわたって有効な償いのわざです。イエス・キリストの償いは、単に借りを返し、神さまに借金を弁償して下さったということだけではありません。それを清めて赦しを与えて下さったのです。

 ここまで「償う」という言葉を使ってきましたが、主イエスの場合、これは「贖う」という言葉で言わなければならないでしょう。「贖う」とは、借金をゼロにしたというだけではなく、元通りにした、買い戻したということで、前以上にきれいになったということです。

主イエスによって救われるということは、主なる神、小羊であり給うイエス・キリストの血によって洗い清められた義の衣、純白の衣で装われることを意味します。白い衣を身にまとった人々、彼らは「大きな苦難を通ってきた者たち」(ヨハネの黙示録714節)だと言われています。今、彼らは神の玉座の前で昼も夜も仕えている者たちです。ここの「仕えている」(一五節)という言葉は、文字通り訳せば、「礼拝している」ということです。彼らに囲まれて真ん中に立っておられる方のことを、聖書はくり返し、「玉座に座っておられる方」と言い表しています。さらに15節は、「この玉座に座っておられる方は、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう」と言われています。文字通りに訳せば、彼は彼らの上に天幕を張って、彼らを安全に住まわせるであろうという言い方です。いずれにせよ、今もイエス・キリストは玉座にいます御方でありつつ、私たちと共にいて、私たちの中に天幕を張って覆って下さり、防ぎ守って下さると言われています。

この方は神の小羊でありながら、神の羊たちを牧する者。17節に「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導いて下さるであろう」とありますが、主に従う者たちの牧者、真の羊飼いです。ヨハネによる福音書104節「彼は自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」。私たちは、安心してより頼むことのできる御方の声を聞き逃してはなりません。聞き間違ってもなりません。絶えず聞き続けることを求められています。この御方こそ、生命の水に導く方です。イエスは私たちを、永遠に生き長らえることのできる生命へと導き給う御方です。

 私たちには悲しみ、憂い、嘆き、呻きがあり、恐れもあります。人知れず涙を流す私たちであるかもしれません。涙を拭って下さる御方、この御方は、根本から私たちに癒しを与えて下さり、慰めを与えて下さる御方です。今日捧げているこの礼拝、この礼拝をお受け下さり、私たちのただ中に御霊と御言葉によって共にいて、天幕を張って私たちを保護して下さる御方です。その主キリストに、私たち一人ひとりの信仰、教会の信仰を、混じりけなきもの、汚れなきものとして、言い表そうではありませんか。この教会を、私たち一人ひとりを、汚れなき真白き衣をもって装って下さる御方が主キリストです。

2010228日礼拝説教)

 
 
 
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