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2004年4月18日 礼拝説教 【希望の根拠】南 吉衛
ぺトロの手紙一 1章3~9節
 

 復活祭の礼拝を感謝の中に祝った一週間後、今日の聖書個所が与えられたのは時宜に適っている。ペトロは今日の個所で、わたしたちがイースターに聞いたことをもう一度強調している。つまりキリストが復活したのは、すべての死者の復活の初穂であったことで、わたしたちの新しい「誕生」を意味した。わたしたちは、死者の中からのイエス・キリストの復活によって新たに生まれさせられたのである。これは何よりもわたしたちに対する神の憐れみであった。この「イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように に」と今日の聖書箇所は始まっている。
 一般に手紙の冒頭に書く言葉は、相手の健康についてであり、仕事がうまく行っているかなどである。それと比べると聖書の手紙は違っている。冒頭に「神がほめたたえられますように」と言ってわたしたちの目を、イエス・キリストの父なる神に向けるのである。神がその豊かな憐れみによってわたしたちにしてくださった一番大きなことは、わたしたちの「新たに生まれること(新生)」であり、それによって「生き生きとした希望」が与えられたことである(3節)。それだけではない、憐れみの神は、わたしたちのために「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者として」くださったのである(4節)。この二つのことを、わたしたちは、まず聞くのである。
 わたしたちに希望が与えられている。そしてそのことを今朝わたしたちは聞くのである。行き先の暗い時代に、わたしたちは希望について聞くことができる。本当に感謝すべきことだと言わざるを得ない。そしてその希望は「死者の中からのイエス・キリストの復活」に根拠を持っている。かつ、それは「生き生きとした」希望である。
  「希望」と言う言葉を聞き、直ぐに思い出すのはパウロの言葉、また体験である。彼は、「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」と言う(ローマの信徒への手紙一 2章21節)。さらにコリントの信徒への手紙二、1章8~10節では「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました……わたしたちは神に希望をかけています」と語る。
 いみじくもこのパウロの言葉の中に、ペトロが語っている希望とその根拠が述べられている。イエス・キリストを死人の中から復活、させた神ご自身が、わたしたちに働きかけている、そこに聖書的な希望がある。そしてその希望は、「わたしたちが新たに生まれること(新生)」と意味の上で非常に近い。「新生」はまったく神の一方的な憐れみの行為である。つまり新生は洗礼を受けることと関連するが勿論何か「儀式的なこと」でそれが達成されるのではない。新生は、わたしたちの目を自分自身にではなく、ひとえに神の言葉、神の創造の言葉に向け、それを聞くこと・で達成されるのである。そこに希望があり、甜そこから希望が生まれて来る。
 聖書は更にこの希望が「生き生きと」していると言う。いったい何が聖書的希望を生き生きとさせるのだろうか。それは一つにはその希望が隠れていることと関係している。つまり神がイエス・キリストを死者の中から復活させたことに希望の根拠がある。そしてその神の業は(言うまでもなく)隠されている。
 さらに、その希望がイエス・キリストの復活によって始まった新しい命に根拠を持っているからである。つまり、復活のキリストが、今もここで、働いていることと密接に結び付いているからである。あるいは別 の言い方をすれば、御言葉それ自身が生きているからである。さらに、この希望は御言葉と共に何時も新しく与えられるからである。「神の言葉は生きている」(ヘブライ人への手紙4章12節)から希望も生き生きとしているのである。

 つまりキリスト教的希望は、イエス・キリストの復活と生ける御言葉と切り離すことができない。それらの反映である。だからこそ、この世的に希望がないと思える時にも、あるいは「死の床」にあっても希望は失われることはない。その反対にイエス・キリストの復活に根拠を置かない希望は、それが一時的にどんなに希望らしく見えたとしても本当の希望ではない。つまり御言葉に力がなく、信仰も色あせてしまったならば、そこには希望もなくなってしまうと言わねばならない。

 それでは次に希望の内容・目標は何だろうか。四節がそれについて語っている。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。聖書的な希望は、普段わたしたちが口にする「…することがわたしの希望です」という風には表すことができない。同時に「天に蓄えられている財産」と言われてもそれが具体的にどういうものであるかを知ることは困難である。それは、わたしたちキリスト教徒にとって「神の像」を具体的に描くことが困難であることに似ている。しかしだからと言って、聖書的な希望、聖書の神が色あせてしまって、神を賛美し、神に感謝することが難しいということではない。わたしたちにとって神が、「イエス・キリストの父なる神」であること、それで十分である。わたしたちは、その神を賛美し、その神を喜ぶのである。つまり、聖書の希望、その内容は、死人を復活させ、死に打ち勝った神の業を証しする御言葉それ自身である。

 更に難しいことは、この財産が天に蓄えられていること。つまりわたしたちの手の中にはないのである。「相続人」であってもその受け取るべきものは地上にはない。しかしだからこそ、財産のことで起こってくるさまざまな間題から解放されている。もしキリスト者に、神がその地上的な働きによって見える形での報酬を与えるとすれば、どんなにか血と涙、罪と罰の争いの中に巻き込まれることだろうか。地上に財産が無ければ、いたずらに人々を恐れたり、心を乱すこともないのである(3章14節参照)。そして当然起こってくるこの世での思い煩いは、何もかも神に任せることができるのである(5章7節)。
 もちろん天に財産が蓄えられていることは、この世のことを「くだらないこと」と見なすことではない。ペトロの手紙全体を読めば、それが良く分かる。4章7~10節はそのための適切な聖書個所である。 一つはっきりしていることは、聖書が「希望」という時、それは最終的には、終末的な希望であることだ。従ってこの世の終わりを覚えての「思慮深さ、慎み、祈り」が欠かせないのである(4章7節)。

 さて今朝もう一つ触れておかねばならないことは希望と試練との関係である(6節以下)。希望(殆ど信仰と言っても良い)が与えられその根拠を知っていることは、すべての面 で「安全」が確保されていることではない。そうではなく聖書は、この希望が試練の中で勇気と慰めを与えることを語っている。キリスト者は、この世のさまざまな試練の中で、自分たちの信仰によって守られているのではなく、の力によって守られているのである。そのことはイエスが度々「信仰の薄い」者たちのことに触れていることからも分かる(マタイによる福音書14章31節参照)。
 信仰の薄い者を守ることは神の尊い業である。とりわけ試練の時にそれが言える。確かにキリスト者はさまざまな攻撃にあう。しかし、自分たちの勇気・力・想像力に頼るべく放り出されているのではない。彼らは神の力により、信仰によって守られているのである(5節)。そしてそれは、「終わりの日」に向かって歩む生活の中で、つまりわたしたちが、今日の一日を「終末に」向かっての一日、神の国に向かっての一日と位 置付ける時、ますます明白になる。「救い」は、少なくともその「完成」は、終わりの時を待たねばならない(5節鋤参照)。終わり、神の国に向かっての歩みは、救いの日、喜びの日である。

 それは同時に「試練の」時でもある。終末に向かっての歩みは、「特別 な意味において」試練と悩みの時なのである。この手紙の著者にとっても、わたしたちにとっても、キリス ト者の生活と「万物の終わりが迫っている」との信仰は切り離せない(4章7節)。それも「神の家から裁きが始まる」のである(4章17節)
 ここで言う試練とか悩みは、人間一般に降りかかるものではなく、「キリストの苦しみ」に与る試練である(4章12節参照)。つまりキリストとの交わりと、神からキリストを通 して与えられる救いを思う時である。キリスト者の試練や悩みは、わたしたちが神から見捨てられたとか災いに遭っていることとほとんど関係がない。パウロの言葉を使えば、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」のである(フイリピの信徒への手紙1章29節)。

 わたしたちに与えられている希望は、現実を現実として厳しく見ることに繋がる。幻を描くことではない。身が裂かれるような現実・事実の前で、イエスを復活させた神の力に頼ることである。 八節にこうある「あなたがは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」。そういう形でわたしたちは「魂の救い」を得ているのである(9節)。つまりわたしたちが見たり、経験し たりする悩みや試練だけ、あるいは希望と信仰をくじくようなものだけが、すべてではない。むしろ、見なくても信じていることの中に、本当の力が隠されている。アブラハムは「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」(ローマの信徒への手紙4章18節)のである。ここに神の力による本当の救いがある。
 改めて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」と祈りたい。
(2004年4月18日 礼拝)

 
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