ダニエル書12章1~13節/ヨハネの黙示録5章1~5節
教会は過ぐる主の日に降誕祭の礼拝を捧げました。私たちは今、クリスマスを祝い感謝した者として、2009年最後の聖日の朝を迎えています。この一年間を省みる時、この年が私たち一人ひとりにとって、またこの時代この世界にとって、たといどんなであるにしても、確かに降誕祭の喜びと光の中に置かれています。しかし私たちは、この神さまの圧倒的事実の中に置かれていることを認めつつも、自分が抱え込んでいる闇の深さ、この時代の闇の広がりにどうしても押しつぶされそうになります。この一年、私たちの中には、愛する肉親が神さまによって召された友方もおられます。まだ心の深いところで「神さまどうしてなのですか」と問い続けざるを得ない、まだ涙の跡も乾いてはいない、喜びとか光などと言われても、そこに空しい響きしか聞き取れない。この一年を感謝して終わることなどどうしてできようか。実際のところ、そのような思いの内にこの年の瀬を迎えている方もおられるのではないでしょうか。
「泣くな」「泣かなくてよい」、今朝のヨハネの黙示録5章は、根底からの慰めの言葉をもって私たちの問題に向き合ってくれます。
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ここで、著者ヨハネは、「巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者が見当らなかったので、わたしは激しく泣いていた」(4節)と記しています。彼は封印された巻物が気になり、不安で仕方がないだけではなく、それを取り上げて開いてくれる者がいない事に激しく泣いているのです。
人間のわだかまりや心の中の黒い暗闇がそのままで、それが解放されない苦しさ。病気で癌を抱えているなら、医術の力によってこれを摘出することはできるかもしれない。しかし、内的な黒いこだわりを抱えたままでいるのは非常にきつく苦しいことです。人間はこのわだかまりをずっと持ち続けているのではないでしょうか。一体自分は何のために生きているのか。このような人間を本当に救うことのできる者はいるのか。あれに聞き、これに尋ね、あれこれに挑戦し、あれこれに触れてみる。しかし、これといって自分を解放してくれる、救われたと思われるものが得られない。自分を囚われから、暗闇の桎梏(しっこく)から解いてくれる者がいないもどかしさと悲しさと苦しさ。それは全人類の涙とでも言ったらよいでしょうか。人間存在とはなぜこんなにも悲しいのか。うれしいことや楽しいことがいっぱいあっても、それはごまかしにしか過ぎない。結局、人間は死ぬのだ。解決はどこにもないままで終るのだ。本当に虚しくはかない。私たちは束の間の喜びや楽しみでそれを忘れようとします。しかしどこにも解決がない悲しさが残ります。どうしたらよいのでしょうか。
この著者ヨハネの嘆き。激しく泣いたとは、声を出して泣き叫ぶという言葉です。絶叫して「この封印を解いてくれる者がいないのか」と叫び、その時、証しにふさわしい者がいないのだと悲しみ慟哭しているのです。
私たちはこういう話を、何か全く私たちの現実とは無関係な話だと聞き流してはならないでしょう。霊的なことを見定めることのできる者だけが、この預言者ヨハネと同じ幻を今見ることができるのです。私たちは目に見えるものによって左右されています。一喜一憂しています。そして、霊的な目で見ること、悟ることができなくなっています。その意味で、礼拝において、私たちの日常生活の手を休めるだけではなく、私たちの肉の心がびっしり脂肪で覆われているのが吹き払われ、澄みきった霊的な目を与えられて、聖書を通して語られている事柄を、預言者と同じ幻において見ることができるのです。聖霊の導きによって私たちもまた、七つの封印で封じられている巻物を右手に持っている方の姿を見上げることができます。そして、今泣き叫んでいる著者ヨハネ、その涙が私たちにも伝わってきます。
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さて、今この預言者は驚くべきことを私たちに伝えます。長老の一人が、「泣くな。泣くことをやめよ、いや、泣かなくてよい」と言ってくれている、と。
イエスがガリラヤの湖のほとりで伝道を開始された時に言われた第一声は、「神の国は近づいた。神の国が来た。汝ら思い煩うな」ということでした。イエスは「私が来たから思い煩わなくてもよい」とおっしゃったのです。今、「泣くな」と言われ、悲しさと辛さを取り除く方が来て下さったから泣かなくてもよいのです。
聖書の中には、「泣くな」「涙を拭ってくださる」という言い方がしばしば出てきますが、その極めつきは、このヨハネの黙示録の二一章です。「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、 彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。この聖書の箇所は、よく葬儀の時に読まれます。そして私たちは、亡くなった方が今や主と共にあって、もはや死もなく涙もないこと、死後のこととして考え、捉えることが一般的です。しかしここで言われていることは、敢えて言うなら、クリスマスのことです。今や神の子が来て下さった、神が人となり、私たちと共に住まわれる、と繰り返し言っています。私たちと共にいて下さる方、私たちのところに来て下さっている方、それはイエス・キリストのことであり、この御方がおとめマリヤから生まれて下さったのです。この御方を知り迎え入れた者が、絶望的な涙に陥ることがあり得るでしょうか。一度この御方が来て下さっていることを信じ、この御方が私たちと共にいて下さることを知っている者は、決定的な涙を拭われています。絶望的な涙をイエスによって拭っていただいたのです
長老はこう言います。「泣くな。見よ、ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、巻物を開くことができる」(五節)。今この御方のことを二つの言葉で言っています。一つは「ユダ族の獅子」、もう一つは「ダビデのひこばえ」です。ヨハネの黙示録は、「ユダ族の獅子、ダビデのひこばえ」によって旧約以来の神の約束の成就を言っているのです。
全人類にとって、その悲しみと虚しさの原因は死と滅びです。それを打ち破って下さった御方、この方が勝てないものはない、全能にして勝利者なるイエス・キリスト、死に打ち勝って勝利し給うた御方、復活の主イエス・キリスト、この御方こそ唯一の封印を解くことができる方だという言い方がされています。それでは一体、解決することのできる方だとは、どういうことなのでしょうか。
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聖書の中には、「あなたの罪状書が記されている」という言い方があります。コロサイの信徒への手紙には「肉に割礼を受けず、罪の中にいて死んでいたあなたがたを、神はキリストと共に生かしてくださったのです。神は、わたしたちの一切の罪を赦し、 規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(2章13~14節)。
私たちを責めて不利におとしいれる証書が罪状書です。どうしても消せない、生涯ついてまわるもの。しかしイエスは、この罪状書を規定もろともぬり消して、取り除いてしまわれた。これが十字架において果たされたということです。イエスは、封印された巻物を開いて読むことができる方であるだけでなく、これを解決することのできる方、処分することができる方、恐るべき審きが私たちにふりかかってこないように、御自分が審きを代わって受けて下さった。
ヨハネの黙示録の著者はこのようにも言っています。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない。その方が次のように言われる。『わたしはあなたの行いを知っている。見よ、わたしはあなたの前に門を開いておいた。だれもこれを閉めることはできない』」(3章7~8節)。この5章では、封じられた巻物を解く方と言われています。これを開いて七つの封印を解くことができる。そして、私たちに解決の、即ち救いの門を開いて下さっている御方。泣くな、見よ、この御方が来ておられるではないか。私たちの目から涙を、心から嘆きを取り去って下さる御方。そればかりか、この御方のおかげで私たちは罪を免れ、審きから救われ、死と滅びから助け出されて、明るい希望を持って生きることができる。救いへの解放の扉を開いて下さった、と。
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この一年間の私たちの罪を、もし数えあげるとするなら、際限がありません。自分で数えるならほどほどのところで済むかも知れません。しかし、神御自身が罪の私たちを告発し、その罪を数えあげたならば、きりがないでしょう。そういう者たちに対し、今この年の終りにあたり、罪の赦し手としてキリストが共にいてくださいます。私たちに解決の、すなわち救いの門を開いて下さっている方がおられます。この事実に私たちは依り頼む他ありません。私たちそれぞれは、罪の重荷、人生の労苦、生活のさまざまな破れを負っている者たちです。そして、個人の、家庭の、この国の、時代の、負いきれないほどの重荷を負ってこの一年過して来ました。そのような重荷の中で倒れたり傷ついたりしながら生きるより他ない者たちです。来るべき年には重荷がないということは決してありません。その私たちのために、主は罪の赦し手とし、重荷を共に負って下さる御方として、私たちと共にいて下さいます。それ故、負い切れない重荷を負っていても、私たちは丸ごと主に負っていただいているのですから身軽になれます。望みが新たにされます。
泣かなくてよい。見よ、私たちの目から涙を、心から嘆きを取り去って下さる御方が共にいて下さる。だから友よ、この御方への信頼をいっそう厚くして生きようではないか。ヨハネの黙示録はそう私たちに語りかけて已みません。
(2009年12月27日礼拝説教) |