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マタイによる福音書 20章1~16節 |
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主イエスは、宣教開始の第一声で「神の国は近づいた」と言われました。直訳すると「神の国が近づくという事態がすでに完了し、今その状態にある」となります。つまり「神の国はすでに来てここにある」ということです。ここでは、神の国は明らかに現在のこととして把握されています。さらに「時は満ち」、すなわち神の救いの時は満ちたという事態と対応し、現在の時はそのように決定的な時なのだ、という強い意識の表明でもあります。 しかし、なんと大胆な発言でしょうか。終末的な完全な栄光の状態であると既成の理念では考えられている神の国が、相も変わらず困窮と苦渋に満ちた今の時にすでに来ていると宣言するなど、何と状況を無視した誇大妄想家の発想だと受け取られかねないからです。 それでは、イエスにあって神の国が現在のこととして捉えられているとして、イエスご自身の神の国理解の特徴はいったい何処にあるのでしょうか。イエスは神の国がどういうものであるかについてはほとんどと言っていいくらい説明していません。むしろ神の国が人間に直面したときに及ぼす働きについてだけ語っています。 * さて先ほどお読みいただいた「ぶどう園の労働者」のたとえとして良く知られているイエスのたとえ話は、「天の国は次のようにたとえられる」という福音書記者マタイのまえがきによって、神の国についてのたとえと見てよいでしょう。 このたとえ話の成り行きについては、もう繰り返す必要はないでしょう。私たちはこのたとえ話が始まるやいなや、「ある家の主人」とは神さまのことなのだ。この主人によって雇われてぶどう畑で働く労働者は他ならぬ私なのだ、夕方五時頃に雇われ一時間しか働いていない者が、自分と同額の一デナリオンを受け取る、しかも一番最初に受け取るという不合理に対し、主人に文句を言う労働者とはこの私のことなのだというように、たとえ話の登場人物と自分との置き換えを直ぐにはじめます。たとえ話は、そのように自分がそのたとえ話のどこにいるのか、創世記のはじめのところで、アダムが神からお前は一体何処にいるのかという問の前に立たされたと同じように、たとえを、神と自分との切実な物語、自分に注がれている神の愛の物語として聴くように促されているのではないでしょうか。 さて私たちは、まず主人のやり方に文句を言う労働者に自分を置き換えることができます。朝一番に雇われ、一デナリオンというその日一日家族が食べていけるだけの報酬を確保し、一日中一所懸命働き、その労働の喜びと充実感から感謝を言い表してもよいはずなのに、ここでは妬んでいます。一五節の主人の言葉「私の気前のよさをねたむのか」 ―― この「ねたむ」と訳されている元の言葉は「目が悪い」という意味です。私たちの心の目がどこでおかしくなるかというと、それは「妬む」ことによるとイエスは見ているのです。妬むことによって、他の人を見る目が曲がってしまう、見るべきものがよく見えなくなってしまう、と言うのです。 主人に文句を言い、責める者に向かって主人は呼びかけます。「友よ」と。親愛の情の籠もった言葉のようですが、実は期待を裏切る者に対する時に使われる言葉です。ユダの裏切りの場面で、イエスはユダに「友よ」と呼びかけます。裏切らざるを得ない者に対する悲しみと憂いが込められています。私たちはいつも自分の愛、自分の忠実さに対する報いを求めます。その報いを求める思いと、妬みが一つになり、その妬みが神の愛を裏切るのです。妬みによって、どんなに多くの人が、悩み、愛を裏切っていることでしょうか。その妬みを生む最大の原因は、自分がどのようにもてなされているかという関心からです。そしていつもそのことを他人と比べます。あの人はうまくやっている、自分の方が本当は評価されるべきなのに無視されている。自分より手厚くもてなされている者を見ると、自ずと目つきが悪くなるのです。 この一人の人も、今日は朝一番に仕事にありつけましたが、仕事がないときの苦しみ、飢えの苦しみは十分知っていたはずです。しかし自分が恵みを与えられると仲間のことは忘れてしまいます。仲間のことを覚えているなら、夕方の五時にようやく仕事にありつけた仲間のところに歩み寄り、手を握って「本当によかったよな。今日は一日中暑い中本当に大変だったね」と言葉をかけ、喜びを分かち合うことができたはずなのに …… 。それとは全く逆の振舞いに出てしまったのです。 * 私たちはまた、最後に雇われた人々のところに自分をおくこともできます。 夕暮れになっても職も得られぬまま立ちん坊をしている。もうどうしてよいか分からなくなっている。そこに、お前も来て働け、何の役にも立たないかもしれないけれど、来て働きなさい。誰も雇ってくれる者もないとお前は言ったね。なぜ雇われないのか、何の役にも立たないと思われたのか。何の役にも立たないと自分でも絶望しているのか。そんなことはない。あなたは私のぶどう園なら一人前に扱われる。自分に絶望し始めている者を神はお招きになる。私のぶどう園では誰でもその場所を得ることができる。一時間でもよい。ぶどう一房でもよい。私のために働いてごらん。 あなたも望みに生きることができる。永遠のいのちの望みに生きることができる。 このたとえ話から、主イエスがそのように呼びかけてくださる言葉を、私たちが聞くことができるかどうか、そこに全てがかかっているのです。 私たちは誰もが、まずそのようにして招かれたのです。しかし私たちはそのことを忘れます。そのようにして招かれたのに、いつの間にか、自分は一日中十分働いた人だと思い込んでしまい、その人と同じ考え方になってしまうのです。 ? ぶどう園のぶどうの収穫は、朝一番に契約した労働者だけで十分人手は足りていたかもしれません。それでも主人は何度でも見に行き、何度でも自由に何人かをぶどう園に連れて行きました。何もしないでいる人を「見る」という言葉だけでなく「見つける」「見出す」という言葉すら使われています。どうしても仕事をさせたかったのです。何の収入もなければ、家族を養うことのできない人々が現にそこにいるという事実がこの主人の心を捉えたのです。 「気前がよい」とは、人に何でも与えることができる、そういう人間の性格のこと、つまり善い性質の人のこと、つまり他者に対して自由に、とらわれずに恩恵を与えることです。神について言えば「御自分のものすべてにおいて、御自分がしたいと思っていることをする自由」と言ってよいでしょう。 「神の国」に人が直面すること、それは神から私たちに語りかけられている招きを聴くことです。自分は何の役にも立たないのではないかと自分に絶望し始めている私たちを、神は、私はこうしたいのだ、という御自分の自由によって、招き、御自分のぶどう園でそれぞれに相応しい場所を得させてくださるのです。全ての人を平等に、等しくするのではありません。それぞれに相応しい場所を与えてくださり、私のために働いてごらん、とおっしゃってくださるのです。 ?* 最後に、この「ぶどう園の労働者」のたとえが語っている、今日的コンテキストにおける意味について触れておきたいと思います。労働価値説が基本的には貫徹し、労働を労働力商品として商品化する資本主義経済にあって、このたとえ話は、ユートピア的理想郷、まさに彼岸的理想社会のことを謳っているのでしょうか。 主イエスは、自分によって「神の国は近づいた」と宣言され、神の国の到来はすでに現在のことといって差し支えないとさえ言いました。そして、この世的基準では全く無価値な者とみなされている罪人、徴税人、売春婦らと食事を共にし、その喜びと悲しみを分かち合いました。全ての者が神の国に招かれている、と。さらに「あなたがたのただ中に神の国がある」と言いました。ですから、この「ぶどう園の労働者」に示される神の国が人間に直面したときに及ぼす働きは、決して未来的・彼岸的理想社会において妥当するものではないのです。今この時、この決定的な時にこそ、その働きが露わにならなければならないのではないでしょうか。 先ほど、神はわたしたちにぶどう園におけるそれぞれに相応しい場所を与えてくださり、私のために働いてごらんとおっしゃっていると申しました。そうです。神にあっては、全ての人にとって、生きるということが働くということです。その根拠は神、働き給うという神の事実にあります。人はその神の類比(アナロギア)において、働く者として存在しています。それだけではなく、わたしたちはその神の救いのお働き ― 御子イエス・キリストの十字架、そして復活にあらわれているすさまじいまでのお働きに与ることを許されました。そして、神のそのお働きに応答して働くことへと召されています。働くとは、神にあっては生きることです。単に自覚的・自律的・自発的にことを為すことのできない者だけではなく、またことを為すことが諸々の理由で大きく制限を受けているものだけではなく、神にあっては、全ての人にとって、生きるということが働くということです。これが基本です。 その上でさらに言えば、働くとは、それぞれに与えられている賜物を、それぞれに相応しく、神のため、隣人のため、自分のために活用することです。私たちは働くことが許され、働くことへと召されているのです。これは幸いなことです。働くことが禁止されたり、まったく自分の勝手放題のことであるのでなく、神の恵みの招きとしてあることを、感謝をもって受け入れたいのです。 (2009年11月15日礼拝説教) |
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