「この世に倣うな」。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の12章から始まる勧め・勧告、キリストにおける新しい生活がいったい何を基として、また何を目標として営まれるべきか ―― それを、この世に順応すること、この世に迎合すること、この世のありようと同じ形を取ることへの否定から開始しています。
「この世に倣うな」。ここで「倣う」と訳されている言葉は、同じパウロ書簡では、フィリピの信徒への手紙3・21(「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる」)で、「同じ形に変えられる」という意味で使われています。
また同じ12章2節に「心を新たにして自分を変えていただき」とありますが、この「変えられる」という言葉は、コリントの信徒への手紙Ⅱの3・18では「主と同じ姿に造り変えられる」すなわち変容の意味で使われています。
ですから2節の「倣う」「変える」この二つの言葉は、パウロ書簡においては、外的なまた表面的な変容を意味する言葉として、ほとんど同義語として使われていることが分ります。ですから「倣う」というよりは、「同じ形に変えられる」と訳した方がよいかもしれません。
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もう一つ、日本語の訳の問題に触れておきます。「この世に倣ってはなりません」とありますが、これは、一般的な禁止命令というよりは、むしろ「この世に倣うことを止めなさい」という、すなわち今進行中の動作や行為をストップさせることに、ここでの命令法では力点が置かれているように思います。これまでのあなたがたのこの世への順応主義的なあり方を止めよ。あなたがたは既にキリストによって贖いとられたのだ、だから贖いとられた新しい存在として … と、うしろにスムースに繋がっていくと言ってよいでしょう。
さらに、これが一般的な禁止命令でないとすれば、パウロはここで、ある意味での人間の責任ということをも語っている。語りかけられているローマの信徒たちのこれまでの行動のパターンを形成してきた社会的・文化的な規範や制度、伝統など諸々の力、あなたがたはそうした諸々の力を引き続き受け入れることもできるし、またこれに抵抗することもできる ―― しかし、いずれにするか、その決断はあなた方の主体的責任において為しなさい。けれども私は勧める、そうした権力的な構造を受け入れることはもう止めた方がよい。そうではなくむしろ…。パウロの勧めの本意はここにあると言うべきでしょう。
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さて、回り道はこの位にして、「それに倣うことは止めた方がよい」「それと同じ形に変えられることのないように」と言われている「この世」とは、パウロがここで問題にしている「この世」とは一体何でしょうか。このアイオーンという言葉、ほとんどの英語訳では world と訳されています。world すなわち「世界」、 ここに大きな誤解が生じる可能性が秘められています。「世界」、それは私たちが今現実に生きているこの世界のこと、またこの世界が含まれる宇宙のこと、今も絶え間なく行われている神の創造の業が現れるところ、また私たちが「主の祈り」の中で、そこに神の国が成るようにと、祈り求めるところ ―― そこが世界です。私ども教会の志として、かくありたいと願っている「世のための教会」、その「世」のことです。イエス・キリストが極みまで愛し抜かれ、最後はそのために十字架にご自身を捧げられた世のことです。そこに生きる人間がすべての被造物と調和して、正義と平和と自由を尊んで生きる、この時代のこの世界のことです。
しかし聖書が「この世」と言うとき、そこには次のような意味が抜きがたく含まれています。すなわち世界とは、私たちがその中で生きている状態のこと、パウロの言い方をもってすれば、「肉にしたがった」人間の状態、人間だけではなく被造物全体のあり方、神に敵対するあり方を指していると言ってもよいでしょう。神に敵対するあり方から必然的に生じる邪悪・頽廃・腐敗、もっと突き詰めて言うなら、一切が虚無に服している状態 ―― 端的にはそれが「この世」です。「世界」という言葉には、この二重性が避けがたく含まれています。
それではパウロが、「この世と同じ形に変えられないように」「この世に倣うことは止めた方がよい」と言っている本意はどこにあるのでしょうか。この世は悪しきものだから、肉に従うことを原理としている世界を捨てること、私たちが原理的な意味で世捨て人、厭世家になるようにとパウロは勧めているのだ、という理解は甚だしい誤解です。さらに、この世界を否定し、栄光に包まれた彼岸的世界、この世界を超越した世界に目をやるようにパウロは勧めている、というのも、誤解であると言わねばなりません。
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パウロがアイオーンということで中心的に見据えていることは何か。先ほど、二節のキーワードとも言える「倣う」「変える」この二つの言葉は、元々のギリシア語では外的なまた表面的な形の変容を意味する言葉であると言いましたが、そのことと緊密な関係にあります。アイオーン、この世の究極的在りようは、端的には「偶像」のことであると言えるでしょう。パウロが「それと同じ形になることを止めよ」、という時、それは私たち自身の内にある偶像、この世界の中にある偶像、今のこの文明社会の中にある偶像、さらに私たちの教会の中にある偶像、そのような私たちの周りに、また私たち自らが抱え込んでいるあらゆる偶像にプロテストすること、それらの偶像から意志的に決別することを、パウロは求めているのではないでしょうか。
聖書は、神でないものを神とし、これに膝をかがめて仕え、その手先になること、すなわち偶像礼拝を指して、これこそが人間の罪の最たるものだと言っています。それに神という名を与えないだけで、私たちの周りは偶像に満ち満ちています。偶像礼拝の本質とは何か ―― これは一種の取引で、自分の役に立つかどうかということが最後の基準になります。自分にとってそれがどれだけ役に立つか、どれほど自分を生かすか、という自分との取引関係で偶像礼拝は成り立っています。偶像礼拝の対象となる神はそういう神ですから、結局自分中心の世界を作り出します。それは一切を自分の価値観・尺度で測る差別の世界です。関係破壊の世界です。これが偶像礼拝の本質であり、罪の姿です。この自分を中心とした世界は、つまるところ皆がおのおの自分を中心とした世界を持つわけですから、一種の相対世界だと言わなければなりません。相対世界には何の確かさもありません。ですからそこには虚無、むなしさが必ずついてまわります。この虚無こそ罪と裏腹の関係にあります。先ほど、一切が虚無に服している状態、この世とは端的にはそのことだ、と申し上げたとおりです。
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今のこの世界の中にある偶像 ―― すぐに思い浮かべるのが、「情報」という偶像です。ニューメディアを中心とした情報技術が急速な進歩をみせ、社会に大きな変化を引き起こしてきました。この「情報化」が私たちの生活にもたらす恩恵について積極的に評価することにやぶさかではありません。私自身、ニューメディアということについて言えば、決して否定論者ではありません。どちらかと言えば、その恩恵を積極的に享受し、もっと便利なものはないかと新しい情報に目を光らせ、聞き耳を立てている部類に入るだろう、と思います。
しかし、他方で、全面バラ色で塗りつくされた「情報化社会」という宣伝に易々と躍らされることには警戒しないではいられません。「情報」は、これまで圧倒的に、持てる者の消費と連動して働いてきました。「情報」が商品化され、これを手に入れ消費することのできる経済的強者だけが、その恩恵を享受してきたという現実を、私たちは見過ごしてはならないと思います。また、その情報によって、私たちが同質化され、画一化されるおそれは大いにあります。さらに「情報化」による人間関係の希薄化もよく指摘されるところです。ニューメディアを介してしか他者との関係をもつことのできない危険、人との関係を創り出していく力の衰弱などなど ―― 私たちは、こうした「情報化」がもたらす負の側面をどれだけ弁えているでしょうか。また「情報化社会」宣伝の裏には、これを宣伝し、それに乗らない者は社会の落後者であるかのように錯覚させる。つまり情報化によって利便を得るものの意志が強く働いている、という側面があります。
繰り返しになりますが、「情報」そのものが悪であり、即偶像であると言っているのではありません。神ならぬ神として、人をどうしようもなく虜にし、服従させ礼拝させるような力と構造とを「情報化社会」はもっているということです。そしてその本質は、同質化と非人間化にあると言ってもよいでしょう。さらにまた、私たちの内にある偶像、それは自己絶対化というありかたで、その形を露にするでしょう。
パウロは語ります。あなたがたは、そのような偶像との関係を変えなさい。あなた自身の中にある偶像、自己絶対化への誘惑を断ち切りなさい。またあなたを虜にしてきた、また今も虜にしている偶像が、今のこの世界のこの時代の偶像が何であるかをはっきり識別しなさい。そしてその偶像が振りまいている同質化と非人間化の道に追従することのないように。なぜならあなたがたはキリストによって贖いとられ、キリストにある新しい生へと召されているのだから。
聖書は、その新しい生へと、偶像を無力化する生へと私たちを招いています。
(2009年8月23日礼拝説教)
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