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2009年5月10日 礼拝説教 【あなた方に平和があるように】  大塩清之助

ヨハネによる福音書 20章19~23節

 

今日はペンテコステの礼拝です。この日、主イエスの約束通り弟子たちに天から聖霊が注がれて、福音伝道が開始され、教会が誕生しました。信濃町教会は50年前に、創立30周年を記念して、下町である板橋の開拓伝道を開始し板橋大山教会を設立しました。今日のこの日に、貴教会は、板橋開拓伝道50周年を記念して、当時現地に派遣した私を、説教者として立てて下さったと伺い、感謝致します。

さて、今日取り上げた聖書は、板槁開拓伝道を記念するにふさわしい聖句であると思います。説教の前半でまず聖書に耳を傾け、後半では私の伝道牧会50年の中で「十字架の罪の赦しの福音」を強く経験した証しをさせていただきたいと思います。

ヨハネ福音書の書かれた時代は90年代でした。ローマとユダヤ人による二重の迫害の下にあったユダヤ人主体の教会を励ますために、その指導者ヨハネが、イエスの生涯を独特な福音書の形式で書いた牧会的な文書です。当時は教会員は世を恐れ、互いに疑心暗鬼となり、愛が冷え、外に向かって伝道する力を失い、教会から離脱するものが増えました。ヨハネはそういう教会のために、復活のイエスはわれらと共におられると福音を語ったのです。(19節)「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真中に立ち、『あなた方に平和があるように』と言われた。」――イエスは最後の晩餐の直後ペトロに向かって「あなたは私の行くところについてくることは出来ない・・・あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」と彼の裏切りを予言しておられました。その時ペトロは「あなたのためなら命も捨てます」と豪語したのですが、イエスがゲッセマネで逮捕されるや、弟子たちは皆連座を恐れて主の予言通り逃亡し、一軒の家に逃げかくれていました。そこへその日の早朝復活された主が現れたのです。その瞬間彼らはイエスを幽霊かと恐れたと思うのです。しかしそうではありませんでした。裏切られた死者の幽霊は「うらめしや」と出るものですが、この方は「あなた方に平和があるように」と言い、手と脇の傷あとをお見せになったのですから。

弟子たちはこの時、イエスは本当に予告通り神の力によって復活されたこと、そして、

彼らの裏切りの罪を赦し、彼らが断ち切った交わりをいま永遠につないで下さったこと、これより後は復活の主が共にいて下さるから死は怖くないことなどを啓示され、「主を見て喜んだ(20節)」のであると思います。

「イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす』(二一節)」。復活のイエスは、いま弟子たちの魂に、復活の主との再会を通して「主の十字架の死による罪の贖いと復活の希望の福音」が宿ったのを確認し、彼らを神がみ子を派遣されたように福音宣教に派遣されたのです。

 「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい』(22節)」。イエス・キリストによる救いは、人間のわざではなく神の恵みのわざです。それゆえ福音伝道は、キリストのみ名によって与えられる聖霊の導きによらねばなりません。人間の計画だけでは挫折します。

 「誰でもあなた方が赦せば、その罪は赦される。誰でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」。これは弟子たちに神のような生殺与奪の権威を与えるという意味ではなく、「万人の罪を赦して復活の命を与え、天国に導く」との主の福音を述べ伝えることの重要性と緊急性を語られたのであると思います。それは福音を聞かないで死んだ人は罪によって亡びるという意味ではないでしょう。 

以下に私が「十字架の罪の赦しの福音」を経験した証しをいたします。一九四九年四月に東神大に入学し、熊本の草葉町教会から信濃町教会に転会した私は、数ヶ月もたたぬ中に信濃町教会につまずいてしまいました。私は熊本の松木治三郎牧師から福田先生を紹介されて転会したので、福田先生のところに他教会への転会のゆるしを求めに伺ったのです。先生は私の転会の二つの理由を聞いて沈黙しておられましたが、重い口を開いて「私もそう思います」と言われ、また「もしあなたが私たちと共に十字架を負って下さるつもりなら、留まって下さい」と言って口をつぐまれました。私は絶句したまま寮に帰り、先生の言葉を黙想していました。すると眼前に信濃町の立派な会堂が浮かびました。見ると真中に暗い大きな穴がほげて(空いて)おり何とそこに十字架につけられたままのキリストが立っておられました。私は危うくあの弟子たちのようにキリストを捨てて去るところでした。十字架の主の許に留まったとき光景は一変しました。みんなはあるがままに共に主に赦されている親しい兄弟姉妹・神の豊かな愛の家族でした

もう一つ私にとって決定的に重要な「キリストによる罪の赦しの経験」を証しします。

板槁開拓伝道が開始された翌1960年、安保の年の8月のことです。私はある事情のために一人の人を「どうしても赦せない」という思いにとりつかれてしまいました。 

私は戦時中軍国主義教育を受け、また教会ではよきサマリヤ人の隣人愛の教育をうけました。その二つの教育が心の中でひとつに結びついて、「アジアを欧米の植民地支配から解放することは神のみ心に適っている」と信じ、そのために進学を断念し、海軍少年航空兵を志願したのでした。しかし敗戦後、自分が最善をつくしたことが、実は侵略戦争加担という最悪のことのために命を献げていたことを知って絶望したのです。そして自分を赦せない、国を赦せない、教会を赦せない、という思いに苦しみ、死を願っていました。その時に「一切を捨ててわれに従え」という迫り来る神のみ声を聞いたのです。そして信仰の先輩のN兄が貸してくださったルターの「ガラテヤ書注解」(黒崎訳)を読んで、「イエス・キリストのみ名による罪の赦しの宣言」を聞いて回心しました。そして「主よお赦しください、これより後ただあなたのために生きさせてください」と祈りました。やがて伝道者となる決心を与えられて東神大に入学しました。したがって私にとって生きる希望であり命であり生涯の使命である「罪の赦しの福音」に生きることが出来なければ、もはや福音を語る資格はない・・とそのとき思いつめてしまったのです。

 その頃療養所時代の信仰の友が、ある教団の塩原の祈祷大聖会はすばらしいと誘ってくれました。私は「このたぐいは祈りと断食によらなければ治らない」という主の言葉を思い出して思い切って参加しました。しかし私の「赦せない」病は治りませんでした。私は、これは「一切を捨ててわれに従え」と私を召命された神様ご自身に当たって祈り聞くしかないと決心し、独り山に残りました。

 八月の夜の山は骨まで冷えてろくろく眠れず、昼間に居眠りをする有様でした。しかしもはや聖書を読んでは祈る以外にすることはありません。神様からの答えが無ければ山を下りることは出来ません。こうして断食祈祷をしながら聖書をマタイから読み進み、3日目の夕方頃ローマ書8章にさしかかりました。すると・・・。

 「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。艱難か。苦悩か。迫害か。

飢えか。裸か。危難か。剣か『わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている』」(ローマ人への手紙83536節)。

 この時、わたしは眼前に十字架につけられたままの主イエス・キリストの幻を見たのです。(それは神大入学1年目に信濃町教会を去ろうとした時に見た、あの「十字架にかけられたままなるキリスト」でした。)

 主は、はらわたをしぼりだすように祈っておられました。「わが神、わが神何ぞわれを見捨て給いし」と。ああ、これは私だ!と思いました。主が私と一つになり、私の苦しみを共に苦しみ神に祈り訴えておられると。するとつづいて主は「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」と。主は今、赦しえない私の罪の赦しを祈っていて下さる!」主は山の上まで私を追い求めて来られたのだと思ったとき、次の聖句がすらすらと頭に浮かびました。「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる。・・・羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を捨てて逃げ去る」・・ああ、これは私だと、牧師ではなく雇い人に過ぎない自分の正体が分かりました。(私はそれ以来、『真の牧師はイエス・キリストだけである』と信じ、困難な問題はすべて生けるキリストに委ねたので、この50年やって来ることが出来ました。)また、私はその時、主の十字架の下に私の他にもう一人いると直感していました。私が赦せなかったその人です。それ以後、私は自然にその人を赦せるようになりました。

 私たちは、「この世でいかに敵対していても、神の子イエス・キリストの死と復活によって、共に赦され、共に復活し、共に神の国に甦る兄弟姉妹であり神の家族である」という主の恵みの約束においては、すでに完全に一致しているのです。教会のみ言葉による宣教と、隣人愛の実践(世のためにある教会)は、この終末的一致と和解の福音の事実から生まれ出ると信じています。

こうして私はその後、同労の光子と会員の兄弟姉妹と共に板槁大山教会に30年仕え、また同教会の30周年の記念伝道として、「家庭会(家の教会)程度でも開拓伝道を」との信徒の祈りから生まれた町屋新生伝道所に仕えて、この20年、行くところを知らずして旅してきました。

そして私は今年3月、(82歳)感謝をもって隠退しました。後はすべて主と主の教会にお委ねします。ハレルヤ・アーメン。

(2009531日聖霊降臨日礼拝説教) (町屋新生伝道所・協力牧師)


 
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