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2009年5月10日 礼拝説教 【地の塩の輝き】  稲垣 千世

マタイによる福音書 5章13~16節

 

 「あなたがたは地の塩・世の光である」とイエスは私たちに向かって言い切ります。しかし、そう言われても、そうではない自分を知っているので、自分は相応しくない、と後ろめたく感じます。このイエスの言葉は私たちを罪の意識に目覚めさせます。もし、私たちの内面の奥深くに隠されている罪の意識が暴かれ、明らかにされるだけであるならば、イエスの言葉は確かに真理には違いないけれども、私たちには厳しいだけの言葉でしかありません。罪の自覚が増すばかりです。私たちにとって辛く苦しい言葉として、私たちの良心を圧迫するばかりです。
しかし、このイエスの言葉は、私たちを裁く言葉ではなく救う言葉である、ということを私たちは知っています。私たちが心を込めて聖書をくり返し読む時、この濁りのない厳しい言葉の奥に一人の人が立っているのに気付かされます。今、私たちに向かってこの厳しい言葉を言われるその人が、私たちを生かすために、命をかけて死に至るまで私たちを愛し抜き、十字架にかかり死なれた方、そして、神が復活させた方であると気付かされます。私たちの活ける救い主イエス・キリストその人であると気付かされます。
この人を離れて私たちは聖書の言葉を福音として聴くことは出来ません。今、私たちの前にイエス・キリストが立っておられ、私たちは、私たちを新しい命に生かす復活の命の声を聴いているのだ、と受け入れることが出来なければ、私たちは福音の訪れとして聖書の言葉を聴くことは出来ません。聖書の言葉の奥にこのように言い切る方が、今、私たちの前に立っておられるということが福音の中心です。だから、福音の言葉はその言葉を言う方と切り離すことはできません。復活の主イエス・キリストが言う言葉であるからこそ、私たちはそのままに受け取ります。復活の主イエス・キリストが私たちと共にいて下さるが故に、自分自身としては耐えることが出来ないこの厳しい言葉を、敢えて受け止めさせられます。この言葉の厳しさに目覚めて自分自身が裁かれた私たちは、自分の罪の故にイエスから死刑の宣告を受けたに等しい者です。しかし、このように厳しく言うのは、イエスが私たちの罪を赦す救い主だからです。
救い主の訪れが福音の訪れです。福音の訪れの時は律法の成就の時、神の御心の完成の時です。イエス・キリストと共に古い命に死に、イエス・キリストと共に救われ新しい復活の命に生きる時の始まりです。キリストによって神が私たちを赦し、キリストによって神が私たちと和解し、キリストによって神が私たちに新たに生きる命を与えている今、この世にあって私たちの生きる道はキリストと共に生きる道です。イエス・キリストの十字架の福音が私たちの生きる姿を通してこの世に現れる時です。そして、その私たちの生きる姿が「地の塩・世の光」であると復活の主イエス・キリストが、今、私たちに言い切っているのです。私たちがイエス・キリストの言う声をそのままに聴くことが出来るのは、まさにイエス・キリスト自身が十字架を通して、「地の塩・世の光」として生きておられる方だと知るからです。そして、私たち自身の命がこの方の命を通して救われ、新しく生かされていると知るからです。
「あなたがたは地の塩である」とイエス・キリストが私たちに言う時、私たちはどのような者たちであると言っているのでしょうか。「地」は創世記以来、堕落しやすいもの、汚れたものです。「塩」はその腐敗を防ぐものという意味です。もし、地に塩が無ければ、何の対抗する要素もなく腐敗がひどくなるばかりです。地が地のあり方を追求していくのみです。塩があればそれが阻まれます。地は自ら欲するところを思うようにやってゆけなくなります。イエスが「地の塩」と言われる時、地を完全に清め尽くすというよりは、地の腐敗に対抗している、あるいは抵抗しているということが意味されています。これは微妙な違いですが大切な違いです。自分自身について考えてみても、自分の罪を完全に除くことが出来ているとは思えません。ただ言えることは、この世の人との違いは問題を感じているということ、そのことに対して抵抗するということにあります。
私たちキリスト者にはこの世の人とは違った意味の戦いがあるように思います。地の塩がなければ地は腐敗し、神の裁きが及んで来ます。それを塩が防いでいます。この世が自ら欲する道をまっしぐらに進むのを塩が止めています。「小さな者が一人でも滅びることはあなたがたの天の父の御心ではない」「あなたに言っておく。七回どころか七の七〇倍までも赦しなさい」とイエス・キリストが私たちに言う時、この言葉はこの世が滅びないための一番深い問題を担っている命の言葉であると言えます。私たちは地の塩として、この世が腐敗していくのに抵抗するように求められています。キリスト者としてキリスト者でしか出来ない戦い方で。キリストが十字架で戦ったような深い戦いをこの世の悪に対して為すこと。この世の罪を罪として裁きつつ、同時に愛することによってその罪を贖い、救い、罪赦された者として、新しい復活の命に生かすこと。この立場から、個々の具体的な戦いが辛抱強く為されなければならないと思います。この戦い以外のことならこの世の人でも出来ます。この事を見失って人間的に焦ったりすれば、それは福音的ではない戦いになってしまいます。十字架の光によって明るくされていなければ、私たちキリスト者の戦いは福音的な戦いとならないでしょう。私たちが「塩気がなくなった塩」にならないために何が必要かと言えば、私たち自身が十字架の意味をいつも新鮮に生きているということです。キリストと共に死に、キリストと共に復活の命に生かされているということです。そのことを忘れてしまえば、「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ」てしまうでしょう。十字架なき福音なきキリスト教は「人々に踏みつけられるだけ」となります。
さて、「地の塩」は隠れた姿で抵抗していることを示していますが、「世の光」は現れる事を意味しています。私たちが何の武装もしないで、また自分を世に対して主張しようとしないで、世の只中に出て行くということを意味します。そのことを通して、自分ではない光を輝かせています。私たちが武装を解き、自分が一番消えている時、その時、天にいます私たちの神が崇められる、それが「立派なおこない」だと言います。
「地の塩」も「世の光」も、どちらにも共通な事は、私たち自身が空しくされ、何も隠さず顕わである時、神の崇められるべき光が私たちの空しくされた姿を通して、輝き出るということです。イエス・キリストの十字架の戦いの中にこの身を投じて生きることが、キリスト者が福音に生きるということであり、この世の悪と戦い勝利する姿、死に勝利する姿であると言います。
私たちの中心にあるのは常に復活の主、活ける救い主イエス・キリストであり、この命の光が私たちを通してこの世に輝くのであると、今、キリストは私たちに向かって言い切ります。何故なら、イエス・キリスト自身が十字架に掛かって死なれ、この地を救うための「地の塩」となられた方だからです。イエス・キリストの死が、罪の結果であった死を新しい復活の命に至る門である死へと変えて下さったからです。だから、私たちが自分の罪の深さ故に神から見捨てられる程に遠く離れてもイエス・キリストからは離れることが出来ません。何故なら、イエス・キリストの方から私たちのところにやってきて、神から見捨てられる程に低い人の立場に立たれたからです。人を救う神の子が人となられ、人の罪を背負い神から見捨てられた罪人として、十字架上で死なれたからです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた方だからです。私たちが神からどんなに遠く離れてもイエス・キリストからは離れることが出来ません。そして、この方を通して私たちは神に立ち帰る事が出来るのです。この救いを私たちに与えるために「インマヌエル」「神は我々と共におられる」と呼ばれる方が神から遠く離れた私たちの前に、今、立っておられるのです。
活ける救い主イエス・キリストとの出会いを通して、その復活の命の輝きの中で、私たちは死の意味に出会わされます。聖書が明らかにしている死の意味は受肉者であり復活者であるイエス・キリストの死を通して示されています。受肉者の死というイエス・キリストの十字架の死という出来事は、神が人の姿を取り人間と共に生きる同伴者となって地上で生きる間その人を守るだけではなく、死においてもその人に同伴される方だという意味が込められています。更に、この受肉者の死が、十字架刑の死と埋葬と復活によって告げられていることの中には、人間の罪が救い主であるキリストにおいて裁かれ、葬り去られ、もはや人間は死ぬ時に神に見捨てられる者として死ぬのではなく、神に救われ、死において神のもとへ取り去られる者として死ぬのだという意味が込められています。死ぬということは真っ暗な奈落の底にたった独りで落ち込んでいくということではありません。死においても生においてと同じように、イエス・キリストに伴われているのであり、私たちは神の御手の中で死を迎えるのです。私たちは神なしに生き、神なしに死ぬのではありません。このことが、私たちが、今、活ける救い主イエス・キリストに出会わされているという出来事の中に示されている意味です。
イエス・キリスト自身が私たちを救うため、自ら「地の塩」となられ、神の御心をこの世に成し遂げられ、神の栄光をこの世に輝かせています。その栄光の主であるイエス・キリストが私たちに向かって、「あなたがたは地の塩・世の光である」と言い切ります。私たちがイエス・キリストの復活の命に繋がる者として、イエス・キリストが歩まれた十字架への道を私たちもまた歩む者たちであると、私たちに向かって言っています。厳しい言葉ではありますが、私たちを新しい復活の命に生かす恵みの言葉、永遠の命の声です。「恐れることはない」「私について来なさい」と言って、私たちを招き寄せる主イエス・キリストの声に聴き従い、主イエスに伴われて、永遠の命の門である主の道を通り、神のみもとへ行きたいと願います。
(2009年5月10日礼拝説教)


 
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