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2009年4月5日 礼拝説教 【イエスの担った十字架】 笠原義久 

ヨハネによる福音書19?2830 /フィリピの信徒への手紙2?611

 

十字架に示される神の救いの事実、十字架の恩寵?―?私たちは、与えられている信仰の中心、最も核のところにあることとして、イエス・キリストの十字架を語ります。しかし毎年迎える受難節の中でいつも思わされるのは、2000年前、私があの十字架の処刑の現場に居合わせたとしたら、ゴルゴタの丘にまで至らなくとも、血を流し、幾度となく倒れながら十字架を担うイエス・キリストにまみえていたら、どうであったろうか、ということです。実際、キリストの十字架が私たち一人ひとりにとって救いの力となるためには、私たちは、キリストの受難物語の傍観者に止まってはならないでしょう。傍観者とならないための一つの助けは、聖書の伝えている受難の出来事・経過の中の登場人物の中に、自分自身を見出すことです。そうすることによって、私たち自身にとって十字架のもっている主体的な意味が多少なりとも浮かび上がってきます。

 イエスを十字架の苦難へと追いやった、いわば加害責任を持つ人たちは、何らかの程度とかたちにおいて、現在の私たち自身の一面を代表しています。イエスの十字架は、この世と人間の実相を赤裸々に暴露して、私たちの目の前に突きつけます。それを一言で言うなら、イエスの十字架に加害責任を持つ人に共通してある「自己中心性」という真相です。

 ドストエフスキーの『地下生活者の手記』という小説の中に、次のようなセリフがあります。「自分の今飲めるコーヒー一杯がありさえすれば、地球がたとい滅んだとしても、自分は何の関心もない」。私たちが抱え込んでいる、抜き難い自己中心性が徹底すれば、このような表現にならざるを得ないです。人間は生来善なる存在であって、十分に教育され啓発され、勇気を与えられるならば、人間は正しい軌道を歩みゆくことができるという、私たちが心の底のどこかで抱いている楽天的な信仰?―?だがそれは幻想に過ぎないことを指し示す場所、それが十字架です。神を認めない者、あるいは信仰を持っていると自認する者、善人も悪人も、すべての者が自己の真実を暴露される場所、それが十字架です。

 しかし私たちはここで、「十字架こそが救い」などと軽々しく言うことのできない、十字架という事実そのもの、十字架という言葉に備わっている残虐さと身の毛もよだつような恐ろしさについて知らなくてはなりません。

 十字架刑は、古代において広範囲に亙る民族の間で最も残虐な処刑法として共通して行われていました。その残虐さが十分に意識されても、止められることはありませんでした。多くの場合、政治犯や軍事的な犯罪人に対し、国家の権威と現存の社会秩序を保持するため、最大の見せしめ的効果を狙った処刑法でした。しばしば他の拷問、例えば鞭打ちなどと結合されました。イエスが十字架に架けられる前に既に出血多量で十字架を負い切れなかったことは周知のとおりです。人目に付きやすい場所に晒しものにし、犠牲者を最大限に辱めるばかりでなく、犠牲者を埋葬させないことによって、この刑の非人間性は極限に達します。まさに支配者や大衆の復讐本能、残虐性を最高度に満足させる処刑法?―?人間の内にある悪魔的な残虐性や獣性を最も露にする処刑法でした。この時代、ローマの平和を害する恐れのある重罪人や下層民、とりわけ反乱を起こしたローマの属州の民、とりわけユダヤの不穏分子に対して行われました。イエスは、まさにこのローマに反逆するユダヤの不穏分子として断罪されたのです。

 主イエスの死は単なる死ではありません。ソクラテスのような英雄的な死でもなければ、祝福のうちに歳満ちて死んだ旧約のアブラハムら族長たちのような死でもありません。恥と苦痛の極みである十字架という残虐な処刑法による死です。奴隷にこそふさわしいとされていた処刑法による死です。

 私たちは、最も初期の教会、原始教団が、主イエスの十字架の死を、一つの象徴や符号としてではなく、十字架という言葉に備わっていた残虐さや身の毛のよだつような恐ろしさを保持しながら宣べ伝えたことを、フィリピの信徒への手紙から知ることができます。ここには、パウロに伝えられた原始教団のキリスト告白がほとんどそのままの形で留められています。7節に「自分を無にして、僕の身分となり」とあります。僕とはドゥーロス(奴隷)のことです。続く8節には「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあります。ここには、「十字架の死」が「奴隷の姿をとる」ということの、最終的で最も悲惨な結果であったということが記されています。

 けれども驚くべきことに、この「奴隷」「十字架」という言葉とは全く対照的な言葉が、同じ文章の中に組み入れられています。それは6節「キリストは神の身分であった」、さらに9節「神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった」という言葉です。神の身分、すなわち神と全く同質(その本質を同じくしていた)であったという意味でしょう。奴隷にこそふさわしい、激しい不快、恥以外の何ものでもない死を遂げた人間が、神と本質を同じくし、高く挙げられて、全被造物の主となり、神にこそふさわしい「主」という称号を与えられることになった、というのです。

ローマ時代、キリスト教に敵対する運動について触れている教会側の短い文章が残されています。主イエスの十字架のことについてですが、次のように記されています。

 「敵たち(すなわち反キリスト教運動)は、特に力を込め、冷笑的な喜びをもって、常にイエスの十字架の恥辱に言及した。神あるいは、神の子が恥辱の十字架の木に架かって死んだなんて! 新興宗教の息の根を止めるにはこれで十分であった」。

 パウロが記しているように「十字架の言葉」は、まさに当時の人々に不快の念を与えるもの、ユダヤ人には宗教的な躓き、危険な罠であり、ギリシア人にとっては愚かなもの―?「愚か」というのは、知的に劣っている、あるいは知恵が欠けているというのではなく、「狂気じみたもの」という意味―でした。冷笑と嘲りの対象以外の何ものでもなかった。それでは一体何が一番問題であったか―それは、端的には、神が苦しみを受ける、神が恥辱の木に架かって死ぬという点にあったと思います。当時のローマ・ギリシア世界の神話や宗教、また哲学の中に、「高く挙げられる」「昇天」「甦り」等の観念自体は(聖書の使信とはもちろん違いますが)存在していました。しかし、神が苦しむ、恥の死を遂げるという観念は全く存在しませんでした。教会の宣教する「十字架の言葉」は狂気そのものでした。

教会が、そしてパウロを初めとする使徒たちが、この狂気を、なぜ生死を賭けてまで宣教したのでしょうか。奴隷にこそふさわしい恥の死を遂げた人間が、高く挙げられ、神にこそふさわしい「主」という称号を帯びることになった、この全くの矛盾をあくまでも貫き通そうとする神の圧倒的な意志を、彼らは十字架に見たからではないでしょうか。神が十字架という人間の悲惨の極みの中に身を起き給うた。十字架に架けられ、言語に絶する苦しみの内に殺された人々と共に、愛なる神も徹底して苦しみ、痛み給う?―これが神の徹底した意志であると示されたからではないでしょうか。

 ヨハネによる福音書は、十字架上のイエスの最後の言葉に、他の福音書には伝えられていない「成し遂げられた」という言葉を充てています。十字架において全てが成し遂げられた、全てが完成した、と。ヨハネ福音書の著者は、「神はそのひとり子を賜ったほどにこの世を愛してくださった」と語り、あのよき羊飼いは、彼の羊たちを破滅から守るために命を捨てた、と記しています。十字架の死は、神のこの世を愛し給う愛の極み・完成です。神はイエスの十字架の死において私たちに全面的に連帯し給う。私たちの問題を、御自分が徹底して苦しみ給うことによって、神ご自身の問題とされた。この神の愛が十字架において全き形で完成した、と語られています。

 教会は、その息の根を止めるに十分だと冷笑された「神の子が恥辱の木に架けられた」という最も弱い部分こそが、最も確かなこと、神が現にいますことの最も確かなしるしであるとしたのです。神の恵みの約束の、確実性と真実性に対する限りない確信は、ここから湧き出したのです。

 主イエスの十字架の日から、神と私たちの間に全く新しい関係が拓かれました。神は考えうる最も低い所にまで降り、全面的に連帯し給う。私たちのどうしようもない根元的な悲しみ、自己中心性、罪の最も深い谷間にまで降り給う。絶望の底においても、なお「共にいます」愛をもって、共に苦しみ、共に担い給う?―?イエスの十字架の日から、あらゆる時代の、あらゆる人間が、この確信を持つことが許されているのです。

 しかしこの時代、イエスを「十字架につけよ」という声高な叫びは、渦を巻いて増幅されているかのようです。私たちもまた、依然として毎日毎日、主を十字架へと追いやる新しい加害者である、という現実を真実に告白せざるを得ない者たちです。この時代はまた、絶えず血の噴き出る多くの傷を抱えています。主の十字架は、私たちの、またこの世の自己主張、自己義認、自己中心性に、真正面から対立し、これらを徹底的に陽のあたるところに引き出し断罪するものです。受難節は、一方で、この十字架の私たちに対する重い問いかけを心に刻みつける時です。しかし他方、(と言うより)全く同時に、苦しみ給う神、私たちと共に、また時代と共に苦しみ給う神から与えられた確かな約束に、希望を与えられて歩みゆくことを許されている、その事実に心底感謝する、そのような時でもあります。共に苦しみ給う神と共に、この時代、血を噴き出している多くの傷のために、それぞれが生活の戦線のどこかの部署で、その傷を塞ぐ者として、癒す者として立つ志を持つ、そのような決意を与えられる時ではないでしょうか。それが神との新しい関係に入れられた者の進むべき道です。

  (200945日礼拝説教)

 
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