黙示録22章10~16節の御言葉の内容は、「時が近づいている」という預言です。この時期に何をどうすべきかについての警告と指示です。
ここで言われている時とは、「わたしはすぐに来る」という言葉に示されているその方が来られる時のことです。その方はどのような方か。彼は「アルファでありオメガ」であり「最初の者にして最後の者」である方、すなわち歴史の始めでありまた終末をなしとげる方です。創造者であると同時に審判者であるということであり、その意昧で歴史の主人のことです。その「わたし」は、世界精神とか歴史の法則というような観念的なものではなく、この歴史の中に歴史的存在として来られて出来事を起こした方です。そのように来られた方が、「来る」と言うのです。しかも「輝く明けの明星」として、夜明けを背負って来られるというのです。
「時」はこのような方に直接関わっています。歴史の幕をあげた方、歴史的存在として来られ、古い歴史との対決の中で歴史の悪に抑えられて死の苦難を受けた方、歴史の悪循環の中で受難する人間の苦しみを担われた方が来られる。そして最終的な恐怖の対象である死までも克服することによって、新しい歴史の場を基礎づけたその方が、古い歴史の終わりと共に、新しい歴史の幕をあげるために「すぐに来る」というのです。このことは今という時が古い歴史の終末であると同時に、新しい世界の幕があがる前夜の暁であることを意味します。終末直前の時のことです。
*
それでは、この「時」すなわち終末前夜のしるしとは何でしょうか。
その時のしるしとは「両極化する現象」であると言えます。「不義な者はさらに不義を行ない」、「義なる者はさらに義を行なう」ということです。ここで、不義な者、汚れた者については、その内容がもっと具体的に示されています。「犬のような者、魔術を使う者、みだらなことをする者、人を殺す者、偶像を拝む者、すべて偽りを好み、また行なう者」です(15節)。その者たちはいっそう狂犬のようになり、いっそう巧妙に苛酷な策を弄する。殺人者たちは、ますます残忍になり、吸血鬼になる。偶像崇拝者たちは、自分たちが作り出した制度とかイデオロギー、あるいはある特定の集団や人間を徹底的に神のような存在に祭り上げ、それに触れると容赦なく断罪する。また、初めは自己防禦のためになした偽りの争いを、ついには日常化させ、それを愛しそれに溺れてしまう。
これらのことは、ローマの信徒への手紙の1章で、パウロが記しているローマ帝国下の罪悪と相通ずるものです。けれども、神はこのような状況に一向に介入されないように見える。そこで人々は、神は存在するのか、神は眠っているのか、神は外出しているのかと騒ぎ立てる。パウロはそれに対して、それは神が勝手に放っておくのであり、墜落したままに捨てておくためであると考えます。それは、彼らが自滅するようという審きであるというのです。
黙示録では、そのような状態に対して、さらに不義な者、汚れた者をいっそうの不義に、いっそうの汚れに押しやるようにという命令がなされています。なぜでしょうか。このことは、終末前の暗い時代に、義なる者がいかに生きるべきかという神の命令に関係しています。すなわち「義なる者はさらに義を行ない、聖なる者はさらに聖なることを」行なわねばならない、と。
終りの時の前夜には、白と黒が完全に区別され暴露される、徹底的に分かれるのが前夜の特徴です。刈り入れの時には、麦と毒麦がはっきりと区別されるからです。羊と山羊が区別される前夜、すでに審きは始まっているのです。
*
それでは、時が来れば、前夜が過ぎて彼が来られる日には、一体どのようなことが起こるのでしょうか。
第一は、「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれの行いに応じて報いよう」と記されています。報いとは、新しい世界、新しい時代の主人公になれる資格です。それは、「いのちの木に対する権利を与えられ、また門をとおって都にはいる」資格、そういう報いです。
第二は、ますます不義を行ないながら、大きなことを言っていた者たちには罰が与えられる。その罰はごく簡単です。「みな外に」出されるのです。すなわち、彼らは新しい世界、新しい時代に参与することができずに滅び行く世界や時代と、歩みを共にするのです。そこで都との内と外に分かれる。これは、ヘブライ人への手紙(13章)に照らして見ると、主客が逆転することを意味します。「時」が来れば、不義は城門の外に、義は城門の内にいるようになるというのです。ヘブライ人への手紙には、「この地上には、永遠の都はない。きたらんとする都こそ、わたしたちの求めているものである」と記されています。新しいエルサレムに入るためには、滅び行く古い城から脱出しなければならない。その時、不義を行なう者はこの新しい城の門の外にいることになる、というのです。
それでは、この前夜に義なる者、正しい者は何をなすべきでしょうか。
まず着物をきれいに洗うことが命じられています。7章13節以下に、次のような言葉があります。「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである」。白い衣をまとっている人々は、患難をとおってきた人たちです。この衣は小羊の血で洗って白くなっています。小羊の血、イエスの血は受難です。その血が魔術的なものであるというのではなく、その受難に参与してこそ浄化がなされるということです。彼らが大きな患難をとおってきたのは、受難に参与したからであった。キリストの受難は、苦しんでいる人々の苦しみを代わって担った痛みであった。彼らもまた、その道を歩んで患難に遭ったのです。
したがってここでは、義のための受難に参与していない人は、新しい時代に参与することができないと言われているのではないでしょうか。不義を行なう者たちが威勢を振るっている時代に受難に遭わないとすれば、キリストの血とは関係がないことになる、と。
ではなぜ受難に遭わねばならないのか。また受難の理由はどこにあるのでしょうか。ここに、わたしたちがなすべき第二の仕事があります。「不義な者はさらに不義を行ない、汚れた者はさらに汚れたことを」行なうようにせよという命令があります。不義を助長せよということでしょうか。汚れた行為に加勢せよということでしょうか。この命令は、これに続く義なる者に対する命令との関連において理解されなければなりません。義なる者が義を行なうことが中心です。義を行なうことによって、正義と真理の戦いを選択し、それが行為として現われれば現われるほど、不義を行なう者はますます反撥して、自分たちで既に得た権利を守るためにもっともっと汚れたことをするようになる、そういうことです。
歴史は、義なる人々の血を流させては、そのあとに墓石を建てることを繰り返してきました。義人を殺すのは、その正しさを知らないからではありません。その力を知っているから、それに脅威を感じるからであり、またその正しさが自分たちの醜悪さを暴露するので、攻撃をくり広げるのです。このようにして、もっともっと不義を働くようになるのは、不義を行なう者の自己防禦のために避けられないものです。そこで黙示録は、義なる者はさらに義を行ない、聖なる者はさらに聖なることを行なうようにと言うのです。
*
それでは、この新しい時代の前夜に立っている私たちは何をしたらよいのでしょうか。
新しい時代の前夜、これまでアメリカを主軸とした国と国との、民族と民族との、人と人との関係の中に、平和よりも利己主義と利益追求と暴力的な罪が溢れていました。
2月3日の「朝日新聞」朝刊に、フランスの前首相ドミニク・ドビルパン氏のインタビュー記事が載っていました。彼は歴史家、作家としても著名ですが、外務大臣時代に、イラク戦争回避に動いた人物として知られています。彼はインタビューの中でこう言います。
この10年間は、ブッシュ・アメリカ政権とネオコン(新保守主義者)による「力の支配」だった。9・11の恐怖がもたらした発想で、力が世界秩序を築き、平和も創り出そうとした。だがこれは成就しなかった。それでは新たな理念は何か。それは「正義」であるべきだと考える。
不正義は暴力の源、テロの背景になる。不安定を助長し、ストレスを高め、屈辱心を植え付ける。苦しむ人々について知り、不正義の存在に気づくことが、変化につながる。不正義をただすことで「身勝手な力が世界を支配する時代は終わった」と内外に示すことができる。 ―― 「正義」を新理念として実現させること。
かつて広島の「平和アピール」は次のように宣言しました。「私ども人間は、紛争や対立を平和的手段で解決するに相応しい存在である」と。対立や闘いを克服して、平和をかたちづくる人間の叡智、あるいは知性が私たちに与えられている、と。
私たちは、自分の中にもある暴力的利己主義や自己中心の根を認め、神に赦されて生きる存在であることを深く自覚し、人との関係の中で具体的な和解と平和の実りをもたらす生き方を始めたいものです。ドビルパン氏の言うように、不正義をただすことで「身勝手な力が世界を支配する時代は終わった」ことを、私たちの身近な関係の中で具体的に示して行きたいと思います。私たちに求められているのは、ボンヘッファーの言葉を借りるなら、「正義を行うことと祈ること」です。私たちの祈りと行いがどんなに小さく微力でも、暴力と死が人間の魂や良心をあざ笑う暗闇の世界の中で、星のように輝くものでありますように、と願うものです。
(2月15日礼拝説教)
|