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2009年1月11日 礼拝説教 【主の招く声】  稲垣 千世

詩編95編3~7節 /マルコによる福音書 2章13~17節
 

 「わたしについて来なさい」とイエスは自分の弟子を招きます。イエスが歩み行かれるその道をイエスの後に続いて歩む者たちを、イエスは自分のそばに呼び寄せます。イエスは大勢の人々の中から自分の弟子を見出し、近づき、声をかけ、呼び出していきます。イエスはレビを見出し、近づき、声をかけ、呼び出します。「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』といわれた。彼は立ち上がってイエスに従った」。
イエスに呼び出されたレビは、イエスに向かって一言も喋らず、無言でイエスの後について行きます。何故、イエスは大勢の中からレビを呼び寄せたのでしょうか。何故、レビはイエスに向かって何も言わずに、黙ってイエスの後に従って行ったのでしょうか。イエスとレビ―この二人を結び付けている関係は何なのでしょうか。ここには何の説明も与えられていません。秘密にされています。
イエスが自分の弟子を呼び寄せる場面はもう一箇所あります。イエスがシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネの四人を呼び出す場面です。一章一六節から二〇節に記されてあります。ここでも同じように四人はイエスによって呼び出され、呼び出された四人はイエスに向かって何も言わず、黙ってイエスの後についていきます。イエスと弟子とを結びつけているこの関係は何なのでしょうか。他の人との関係とは何が違うのでしょうか。イエスの弟子として呼び出された者と、そうでない者とは何が違うのでしょうか。
イエスはガリラヤで自分の弟子を呼び寄せながら、ガリラヤ中の会堂へ行き、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちを癒し、また悪霊を追い出しました。その様子が一章から二章にかけて、シモンたち四人をイエスの弟子として呼び出し、その後、レビを弟子として呼び出すまでの間に記されてあります。そこには、悪霊を追い出し病人を癒すイエスの評判はたちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった、と記されてあります。イエスのところに集まってくる大勢の人たち。続々とイエスのところにやって来て、イエスに奇跡を行うことを願い求める人たちの様子が記されてあります。一章四〇節から四五節までには、イエスが重い皮膚病を患っている人を癒す様子が記されてあります。ここを読むと、イエスが行った癒しの奇跡に対する人々の反応の大きさが伝わってきます。
しかし、この名前も知られることなく、イエスのそばにやって来て、イエスに懇願し、イエスに癒してもらった後、イエスに厳しく立ち去るように命じられたこの人は、イエスに「わたしについて来なさい」とは言われませんでした。イエスが奇跡を行う方であることは間違いのないことではありますが、しかし、奇跡だけが宣べ伝えられることは、イエスの本来の意志ではないということが分かります。この後に続く中風の人を癒す奇跡物語においても同様のことが記されてあります。
イエスによって罪の赦しを宣言され、罪から解放されたこの病人は、病気からも解放されます。そして、イエスはこの人に言います。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで、家に帰りなさい」と。イエスはこの人に「家に帰りなさい」と命じています。「わたしについて来なさい」とは言いませんでした。また、このイエスの奇跡行為を見た大勢の人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した、と記されてあります。大勢の人々はイエスのこの奇跡行為の中にイエスを通して働く神の意志と神の偉大な力とを見出して神を賛美した、と考えることが出来ます。
しかし、ここでは、この人は名前も知られず、イエスに招かれてもいません。そして、この後にイエスは、レビを自分の弟子として、「わたしについて来なさい」と呼び掛けます。レビはイエスの招く声に立ち上がり、何も言わず、従っていきます。ここには何の奇跡行為も行われていません。イエスの招く声だけが聞こえてきます。
おびただしい群衆の熱狂的な神の偉大さへの喝采と賛美を引き起こしたイエスの奇跡行為によって、神の国の宣教をすることをイエスは望みませんでした。また、イエスの奇跡行為によって、イエスの弟子を集めることもしませんでした。しかし、イエスは神の福音を宣べ伝えるためにやって来ました。そのイエスの教えとイエスの奇跡行為とはどのような関係にあるのでしょうか。
まず、イエスの教えの言葉とイエスの癒しの行為とは一つのこととして結びつけられています。一章二一節から二八節までには、イエスの最初の奇跡行為が記されてあります。そこでは、イエスは会堂に入って教え、人々はその権威ある教えに驚いています。その時、悪霊追放がなされ、イエスのこの奇跡行為を「権威ある新しい教えだ」と言っています。ここではイエスの教えと行為を結合し、同一視しています。イエスの言葉と奇跡行為とは一つであることが分かります。イエスは病気に苦しみ悩む人々に深い慈しみの心をもって接し、機会あるごとにその人たちを救いました。イエスのこの行為を忘れると、人々と共に生きたイエス自身よりも、言葉の真理性のみを重んじるという危険に陥ります。
しかし、他方、奇跡行為と教えを一つに結合させることで作られるイエス像、つまり、イエスを奇跡を行う者、奇跡行者としてのみ、崇め、敬い、宣教することを禁じています。奇跡行為の後にイエスが沈黙も命令していることがそのことを表しています。
イエスが奇跡行者としてのみ宣べ伝えられたら、イエスの十字架は救いにおいて積極的な意味を持ち得なくなります。単に言葉の真理性のみを伝える知恵の教師でもなく、また、単に特別な能力の持ち主である奇跡行者でもない、イエスの神の救いの教えの中心は「受難の告知」にあります。イエスがキリストであるのはイエスが受難する神の子であるからです。
イエスは弟子たちに受難を抜きにしたキリスト告白の無意味さを教えます。弟子の一人であるペトロがキリスト告白をした直後に、イエスはペトロを「サタン」と呼び、激しく叱ります。それは、ペトロがイエスの受難の必然性と意味とを理解しないで、通俗的なメシア観でイエスの計画を変更させようとしたからです。イエスは弟子たちに対して、自分のことを誰にも言ってはいけない、とキリスト告白を秘密にしておくことを命じ、その後に弟子たちもイエスと同様に十字架を負うべきことを教えます。
しかし、弟子たちはイエスの十字架を見るまではイエスの生の重大さを十分に理解出来ません。復活の知らせを受けた後に、弟子たちはイエスに対して信じ従う態度を貫く任務を負う者とされます。そのためにイエスは弟子たちに三度受難予告をし、理解出来ない弟子たちに弟子たることについて教えます。イエスと同じ苦難の道を歩むべきことを教えます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と。イエスの弟子であるということは、一方で、イエスに叱られる対象でありつつ、しかし、他方、身をもって受難のキリストを証しする特別な使命を与えられている者なのです。イエスの運命はいずれ、弟子たちの運命となります。苦難の中でイエスと共に生きる者たちがイエスの弟子たちだからです。
しかし、イエスの十字架を前にして、弟子たちは皆、イエスを見捨てて、逃げてしまいます。イエスはそんな弟子たちに教えていました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより、先にガリラヤに行く」と。そして、弟子たちが復活の知らせを受けた後、弟子たちは、イエスが歩んだガリラヤからエルサレムへの受難の道を復活の命であるイエスに招かれて、復活の命であるイエスに生かされて、復活の命であるイエスと共に生きる者たちとなります。
イエスの十字架を見た弟子たちは今、イエスの生の重大な意味に出会わされ、生かされ、その意味を知る者たちとなります。イエスを見捨てて逃げた弟子たちをイエスは変わることなく愛し生かし続けているという、愛の奇跡である復活のイエスに、今、弟子たちは出会わされているからです。イエスは神の子キリストとして生き、神の子キリストとして死に、そして、神の子キリストとして復活し、 今、弟子たちと共に生きています。神の人間を救おうとする愛がイエスの受難の生涯と復活を通して示されています。そして、この神の愛の世界の中で生きるように、と復活のイエスによって招かれています。復活のイエスによって再び招かれているということが赦しの宣言です。イエスの弟子が、イエスから離れて生きる道を見出し得ないにもかかわらず、死の恐怖からイエスを見捨てて逃げたという現実が、イエスの弟子を絶望させています。しかし、神の人間を救おうとする愛は、イエスを見捨てて逃げたイエスの弟子の閉ざされた絶望する魂の底にまでやって来ます。
イエスの評判を聞きつけて、イエスのところへ押し寄せてきた多くの病人たちをイエスが癒したことは、確かに奇跡には違いないでしょう。しかし、イエスの奇跡行為の本質はイエスの受難と死と復活にあります。イエスは言います。「わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。イエスを見捨てて逃げた罪を負うイエスの弟子をイエスは招き、その弟子を愛するが故に、その罪をイエスが引き受け担うことによって、その弟子を赦し、罪の結果である死から解放し、復活の命に生きることが出来るようにしたイエス。この死を超えて生きる復活のイエスの命に呼び掛けられ、「わたしについて来なさい」と、復活の命に生かされて生きることが出来るようにされていることこそ、まさに神の愛の奇跡ではないでしょうか。この神の愛の奇跡に生きつつ、神の愛の奇跡を宣べ伝えることが神の国の宣教になるのではないでしょうか。ガリラヤからエルサレムに向かって十字架の受難の道を歩んで行かれる地上のイエスの生に、復活の命であるイエスの生が重なり一つとなって、いつも永遠に、今、私たちを愛し、赦し、生かし、イエスの後について行く者として招いているという、この現実より大きな愛の奇跡はないでしょう。
                                  (2009年1月11日礼拝説教)


 
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