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2008年10月5日 礼拝説教 【良い地に落ちた御言葉】  笠原 義久

マタイによる福音書 13章 1~9節
 

 イエスの譬え話は、必ずと言ってよいくらい動きを持っています。運動のない、時間のない一般的・普遍的な真理内容を、理解しやすい表現によって物語化し、伝えようとしているのではありません。譬えにおいては、神が今まさに働き、運動しておられる、そこでは生命の成長が、労働、生活、人間と人間との交渉が行われます。ヨハネ福音書に「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」とありますが、種蒔きの譬えは、種をいっぱい手にした農夫が大きくその手を後に振り上げているように、神が今に至るまで働いておられるという事態の現実化だと言えるように思います。

 さて3節の「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」という表現は、私たちの在りようや思惑を離れて、神ご自身の方から歩み出し、私たちのもとに来たり給うという消息を伝えています。しかし、種蒔く人について語られているのはこの三節だけで、四節以降は専ら、蒔かれた種がどうなったか、種の運命についてだけ語られています。種が話の担い手となっています。

 種とは何でしょうか。このテキストに続く18節以下で、主イエスは、この譬え話の意味するところをご自身で解き明かしています。その中で、種とは「御言葉」であると説明されています。言葉はそれを語る者の意志そのものです。聖書の語る「言葉」とは、端的に神の意志のことです。しかし聖書では、旧約聖書以来、「言葉」にはもう一つ大事な意味があります。それは事柄、あるいは事件、出来事ということです。この「意志」と「出来事」ということを一緒にすると、神の意志が現実に出来事となる ―― 具体的・歴史的に出来事となるということでしょう。私たちはヨハネ福音書の冒頭を想起します。「初めに言があった。 ・・・・ 」。ここでの言とは、肉体となり私たちの間に宿ったキリストそのお方です。そして同時にキリストの出来事・事件が言です。ですから、この譬え話の語り手であるイエスご自身が、4節以降の話の担い手である種すなわち御言葉それ自身であると言ってもいいでしょう。

 ところで、4節以降には種蒔き人である神がもはや登場しないという事実は重大です。神のご意志はもっぱら御言葉であるキリストによって担われるのです。神のご意志を私たちは、もはや直接にはどのようなものか知り得ない。神はその全権をキリストに委ねられた。したがって、私たちにとって神と直接交渉する余地はもはや残されてはいない、ということです。もっと積極的な言い方をするなら、神がどのような方であり、何を意志して私たちに臨んでおられるのか ―― それはキリストを見れば分る。肉体となり私たちの間に宿ったキリストを見上げなさい。そのキリストの内にこそ、キリストの生きざまと出来事、端的には十字架と復活の出来事の内にこそ、神の意志は全き形で示されているのだ。神のキリストにおけるプレーローマ(充満)です。

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 以上のことを踏まえて、4節以下、種、すなわち御言葉がどのような運命をたどったのか見ていきたいと思います。道端に落ちた種、石だらけで土の少ない所に落ちた種、茨の地に落ちた種、そして最後に良い土地に落ちた種 ―― ここでは種の落ちた四つの地・場所が語られています。

 多くの種がどうして空しく失われてしまうような蒔き方をするのか、という疑問に対して、パレスチナの当時の農耕事情に通じている人は次のように説明しています。第一の「道端」について。ここで種蒔く人は、刈り入れが済んで間もない未だ新しく耕されていない畑に出て行く。人々が刈り入れの後から踏みつけてつくった道に、それと承知で種を蒔くのであって、その道はすぐにでも耕されて畑になるはずのものである。また第二の「石だらけで土の少ない所」というのは、薄いけれども肥沃な土に被われている石灰岩のことであり、耕すときになってみなければ、畑とほとんど見分けのつかない地面のことである。この石灰岩もやがては鋤の刃で粉々に砕けて良い畑になるはずのものだ、と説明されています。また第三の「茨」についても、これは休閑地に茂った茨であって、時を経ずしてこの土地も茨と一緒に耕されるはずのもので、それを知ってわざわざ茨の中に種を蒔くのだ、と言われています。

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 以上の説明は、この譬え話に新しい光を当ててくれます。私たちは、道端、石だらけの土地、茨の茂った土地ということで、18節からの主イエスの解き明かしの中にあるように、御言葉を受ける私たちの在りよう・姿勢を、類型化して、自分はこういうタイプだ、こういう信仰の在りようをしている者だ ―― そのように考えがちです。実際、そのような受けとめ方が間違っているわけではありません。道端、石地、茨は、まさに私たちの信仰の在りようを実に的確に指摘していると言ってよいでしょう。「道端」とは、踏まれ踏まれしてできた道のような私たちの頑迷さ、あくまでも自分の論理で、自己完結的に生きようとするあり方。自らがつくりあげた安っぽい人生論・人生哲学に固執し譲ることがない。他者に対して頑迷に心を閉ざし、人間であることの豊かさと開かれた可能性を喪失させていく、そのようなあり方でしょう。

 第二の「石だらけで土の少ない所」とは、薄い肥沃な土地が、太陽熱を吸収してすぐに植物の芽を発芽させると同じように、御言葉を聴くと喜んですぐに受け入れるけれども、日常茶飯の生活の様々な問題状況の中で、忍耐強く、福音の根を育て形成していくことをしない。自分の興味と関心がある限りにおいて、興味や関心を覚える範囲においてしばらく続くだけで、「自分のために」という前提がひっくり返らないことには、福音は所詮はその人を飾るアクセサリーにしか過ぎない。早晩必ずや躓きがくる、そのようなあり方でしょう。

 第三の「茨」とは、主イエスが解き明かしているように、世の心遣いと富への執着に典型的に示される、この世の論理への服従ということでしょう。しかし主イエスは語ります。「先ず神の国と神の義を求めなさい」。私たちのところに自ら歩み出し、御言葉そのものであるイエス・キリストにおいて、私たちという存在をあるがままに受け入れ愛してくださる神の呼びかけに先ず応答しなさい。御言葉たるキリストを、先ず受け入れなさい。そのことが一切に先行しなければならない。この「先ず」ということの中に生き抜くこと、御言葉そのものであるキリストに服従すること、こうした生き方へと転換させられることは、多くの場合、この世の論理との間に多くの矛盾、衝突、軋轢を伴うでしょう。私たちはそこで、両者を妥協・調和させ、ホドホドにやっていくという姿勢もとり得るでしょう。あるいは、「教会の中では御言葉への服従の論理」「教会の外ではこの世の論理」といった使い分けをすることもできるでしょう。しかしこうした姿勢も、結局は「茨の論理」であることを、聖書は私たちに語っているのではないでしょうか。

 道端、石地、茨 ―― これらは実に私たちの在りようそのものです。そして実際主イエスが、このような私たちに警鐘を鳴らし、悔い改めを促しておられることを、私たちは真摯に受けとめるべきでしょう。

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 けれどもこの譬え話は、神のもっと大きな憐れみの約束を伝えているのではないでしょうか。それは良い土地に蒔かれた種への約束です。道端、石地、茨がこの譬え話の第一幕であるとすれば、良い土地は、第二幕、しかも第一幕をはるかに凌ぐ重さを持って語られています。種が蒔かれるところでは、それは確実に実りをもたらす。しかもそれは、30倍、60倍、100倍という推し量ることのできない収穫量です。私たちの目には、多くの働きも空しく、外観は失敗につぐ失敗の連続かもしれないけれど、それら一切を越えて驚異的な祝福の収穫がもたらされる ―― そのことは確実なことなのだ、と言われているのではないでしょうか。ここでは、「果して私たちの心は良き土地なのであろうか」とか、あるいは「良き土地とは誰のことを言っているのだろうか」といった問いは、もはや無用なものとされます。種の大半は実際良い土地にすでに蒔かれたのです。さらに、あの道端や石地、茨に蒔かれた種も、それらの土地が時を経ずして耕し直されることによって、芽を出し、根付き、実を結ぶのです。種蒔く人である神は、私たちの在りようを時を置かずして耕し直し、必ずや何らかの実を、私たちからさえも刈り取ってくださる、そのように約束されているのではないでしょうか。

 到底実を結ぶこと、喜びの収穫を期待することが不可能に思われる、私たちの譲ることのできない自己論理の中に生きる頑なさ、自分の都合や関心の範囲内でしか御言葉を受け入れない浅はかさ、この世の論理の中で行われる日々の営み ―― このような道端や石地や茨の地でさえ、種蒔く人、農夫である神は、これを耕し直し必ずや何らかの実を刈り取ってくださるであろうと約束されています。

 「耳のある者は聞きなさい」。旧約聖書以来、神の救いの宣言が発せられるとき用いられてきた「聞け」という言葉でこの譬え話は閉じられています。「聞く」ということは、信じ、従うことです。「信仰とは聞くことから来る」という使徒パウロの言葉がありますが、聞くことは、実に信じ、具体的な行為を伴って従うことです。御言葉である主キリストを信じ、このキリストにひたすら従っていきなさい ―― これが「聞きなさい」ということの内実ではないでしょうか。

 今朝、私たちは、この「聞く」ことへと招かれています。神は今も働いておられる ―― 御言葉たるキリストによって。この御言葉に先ず従い行きなさい。私たちの生きることの一切、その意味も価値もここにある。譬えに明らかにされたこの神の憐れみのご意志に応えていく者とされたいと切に願うものです。


(2008年10月5日礼拝説教)

 


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