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<説教> |
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エフェソの信徒への手紙が扱っ ているのは、原始キリスト教の時代に、各地の教会で問題とされていたある一つの特殊な問題をめぐってです。それはユダヤ人であるキリスト者と、異邦人であ るキリスト者との対立、宗教的な慣習や出身の違いからくる対立の問題です。彼らが一つの教会の中で平和的に共存することは果たしてできるのか、そしてもし できるとするなら、それはどのような質の一致なのかという問題です。 ** さて異邦人とユダヤ人との違いを問題にする際、エフェソの信徒への手紙は「隔ての壁」という言葉を使っています(14節)。 かつての東西冷戦時代の象徴とも言うべきベルリンの壁のように、ユダヤ人と異邦人との間にうねうねと聳え立つ隔ての壁。壁のこちら側にはユダヤ人が、あち ら側には異邦人がいる。こちら側のユダヤ人は、神の民としてのいろいろな特権を与えられている。とりわけ神の契約の民として、契約の証拠としての旧約聖書 を与えられ、また契約に属するものとしてのしるし、バッチのようなものでしょうが、しるしとして割礼を受け、確かな勝利への希望を与えられている。しかる に壁のあちら側にいる異邦人はどうかと言えば、イスラエルの国籍もなく、約束されたいろいろな特権に縁がなく、この世での希望もなく、あげくの果ては「神 を知らずに生きていた」と記されています。そうであればこそ「遠く離れた者」と「近い者」、すなわち「神なき者」と「神に近く生きる者」という対立も出て くるのです。 私たちの周りには実にたくさん の壁が立っています。しかもそこにははなはだ重大な生死に関わるような壁がたくさんあります。経済のグローバル化の中で、貧富の差、富んだ民と貧しい民と の対立が今の世界を覆っている大きな対立です。さらに人種の対立、肌の色の対立、こうした人種的・経済的対立に加えて、社会的な対立が重なり合っていま す。このようなあからさまな壁だけではなく、私たちの周りにはいわば沈黙の壁がたくさん聳え立っています。親と子、夫と妻が理解し合えない、食卓を共にし ていても、テレビを前に互いに沈黙して向かい合っている。壁に仕切られてあたかも牢獄にいるかのように、一人ひとりの人間が壁の中の囚人のようにして座っ ている孤立した姿を私たちは「壁」という言葉から想像します。 それでは一体、こうした壁はど こから出てきたのでしょうか。私たちは独房の囚人のようには生きたくない、壁を取り払って、もっとフランクに他者と関わり、もっと人間らしい豊かな感動を 共にしたいと切に願っている。にもかかわらず、どうしてそのような壁ができたのでしょうか。 一言で言えば、それは私たちが 抱える生きることへの不安がそうさせている。それがこの壁の原因ではないでしょうか。生きることへの不安に脅かされるがゆえに、私たちはなにがしかの保護 を求めざるを得ない。だから壁をつくり、その壁によって不安から身を守りたい。いったん築かれた壁は、次第次第に厚く高くなって、やがてはびくともしない 要塞のようになってしまいます。けれども壁がより厚くより高くなるということは、実は私たちの不安がそれだけ深刻であり、またそれだけ私たちがお互い同士 の交わりから互いに遮断し合い、深刻な断絶関係に陥っていることを意味するのではないでしょうか。 ** さて、エフェソの信徒への手紙が「壁」と言うとき、二重の壁を思い描いているようです。一つは、ユダヤ人と異邦人との間にある壁、人間相互の間にある壁です。しかしそこにはもう一つの壁がある。それは神と人間を隔てる壁です。 19節 に「外国人」「寄留者」という言葉があります。「寄留者」とは自分の故国、故郷ではないところに一時的に滞在・居住している人という意味です。つまり人間 はこの世界にあっては「寄留者」いわばよそ者であり、故郷を喪失した者である、という考え方です。人間は壁によって故郷を喪失した者となっている。魂のふ るさとである神から分離され、遠く隔てられ、シャットアウトされて生きている。生命の根源から疎外されて生きている自己疎外的な存在である、というわけで す。人間は本来そうあるべき存在とはなっていない、このような自己疎外的な存在であるがゆえに、忍び寄る深い生の不安を自覚せざるを得ない。だから壁を設 け壕を掘って自分の不安を守ろうとするのです。人間がそうであれば世界もまたそうでしかあり得ない。世界は、そして人間は、その源である神から疎外されて 生きている。このように神と人間との間に疎外関係が生じていることが、人間相互の疎外、隔て合いの原因であると言われています。 ** このような私たちの状況の只中へ聖書は切り込んできます。しかし「今や」と語ります(13節)。「ところが今や」事態に急変が生じた、というのです。何によってか。「キリストの血によって」である、と。 16節 にキリストは「十字架によって敵意を滅ぼした」とあります。キリストは神と人間の疎外関係という条件の下に全身をさらし、十字架にかかり給うた。十字架に ついたということは、人間の神に対する敵意のもっとも極まった姿です。人間の罪の最も凝縮した姿です。しかし十字架についたということは、同時に、神が自 分の子を十字架につけた、それがまさに神の救いの意思の実現であったということです。つまり人間と神の両方の側から、キリストを十字架につける必然性が あった。十字架にはこの二つの必然性が凝縮されているのです。 このように、神と人間の敵意を 滅ぼし、罪の存在、疎外されている者である人間に救いをもたらすのがキリストの十字架であるとすれば、それまでユダヤ人の間だけに有効であった戒めの律法 は廃棄されねばならない。救いに与るための数々の規定は全く無用、無価値のものとなった。そうであるなら、律法の有無、とりわけ律法を最も端的に象徴する 割礼の有無によってユダヤ人と異邦人とを分離していた「隔ての壁」も、キリストの十字架によって打ち壊されたことになるでしょう。律法というユダヤ人のい わば絶対要求は、十字架の前に相対的な要求に過ぎないものとして打ち砕かれたのです。壁は突破されたのです。もっと一般的な言い方をするなら、キリストの 十字架は、人間がお互い相手に突きつけている絶対的な真理要求を打ち破るものである。一切の絶対要求は十字架の前では成り立ち得ない。私たちにとっては絶 対と思われるこの世のさまざまな習慣の違い、伝統の違い、人種の違い、人間を分かつ限りない対立があります。けれどもそれらは、決して聳え立つ壁となるよ うな絶対性を持ち得ない。それらはあくまでも暫定的であり相対的である、主キリストの十字架の前には! 今や、十字架による一切のものの相対化をとおして、はじめて平和が可能になる。キリストによって「私たち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです」(18節)。今や、神の御許に至る新しい道が拓かれた。それはイエス・キリストという道であり十字架という道である。「キリストは私たちの平和」これがエフェソの信徒への手紙の告げる中心的なメッセージです。 エフェソにおいて、教会の一致 を成り立たせる「キリストは私たちの平和」という原則は、この世界の平和の根底を形づくる出来事を指し示しています。まさにキリストの十字架こそは、世界 の一切の紛争に、何らかの形で、否むしろ根底的に関わりを持っている。であるなら、私たちはここで、キリストの平和から、キリストの平和によって生きる姿 勢を学ばなければなりません。一七節にあるように、「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告 げ知らせられました」。 このようなキリストを模範として、私たちもキリストの平和のために、日々、遠くの者、また近くの者に向かって平和を宣べ伝え、また平和を造り出す課題と使命とに召されているのです。 ** 最後に、キリストの平和のために、平和を造り出すべく召されている私たちの今日的課題について短く触れてみたいと思います。 第一には、まず私たちの周りに ある、否、私たち自身が立てている壁が、そもそも本当に必要なものであるかどうかを原理的に問い直すということです。ごく身近なところにある差別の問題等 々、私たちはすでに厚く高く築かれてしまった壁を乗り越えることが非常に難しいことを日々経験しています。けれども壁のあちこちに突破口をあけ、その穴を できるだけ拡げていく努力をしていかねばならないでしょう。 第二には、あの三〇年戦争の戦 後責任を担っていくということ、私たち教会が、キリストの平和を身に帯びた教会が担っていくという課題です。もし戦前・戦中の植民地支配、侵略戦争につい ての責任が今日に至るまで果たされることなくきたとしたなら、あるいはその責任を否定するような動きを黙認してきたとしたなら、今度は私たち自身がその責 任を負わなければならない、これが戦後責任ということでしょう。 戦争責任を告白した教会は、まさにキリストの平和を身に帯びた「見張り」としての使命をもっと積極的に担っていかねばならないと思います。 私たちが約束として与えられて いる神の平和、キリストの平和への希望は、この地上の問題に対して私たちが不忠実であったり、エネルギーを費やさなくともよい、ということを意味しませ ん。否、むしろ神の平和、キリストの平和を望めば望むほど、キリストの平和は、私たちの責任と課題とを鮮明なものとし、社会的な責任を自覚させるものだと 思います。 「キリストは私たちの平和」、この御言葉をいただきつつ、地上における寄留者・旅人として、地上での駆せ場に、平和を造り出す者として遣わされて参りたいと願うものです。
(2008年8月10日 礼拝説教) |
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