使徒言行録2章は、聖霊が引き起こした一つの出来事・事件を私たちに伝えています。
その出来事の発端は、次のようなことでした。イエスの弟子たち、またイエスに従う若干の者たちすなわちイエスの弟子集団は、不安と恐れをもって彼らの多くの者の故郷であるガリラヤからイスラエルの都エルサレムに戻ってきました。
彼らは既に、復活の主との出会いという決定的な体験をしていました。さらにイエスの生前の言葉やイエスの十字架の死の意味、それらを新たに思い起こすことによって力を奮い立たせていたのでしょう。しかし復活の主が約束されたことはまだ起こってはいない。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」
(使徒言行録1章8節)という約束からだいぶ時がたっている。恐れと不安のうちに一つ家に閉じこもっている弟子たち。これが事件の発端です。 しかし全く突然扉が開かれました。彼らは何の恐れも憚りもなく諸国民の間に歩み出したのです。言葉の壁によって分裂されていた人々が、弟子たちの語る言葉を理解したのです。彼らの語る言葉によって分裂していた人々が一つになるという経験をしたのです。彼らの語る言葉には力がありました。彼らは「神の大きな働き」を大胆に証しする、まさに主イエスの証人としての足跡の第一歩を記したのです。このように変えられた弟子たち。 これが事件の結末です。
事件の発端と結末 ―― どのようにしてこのような転換が可能となったのか、そして人間をこのように変えることができる力とは何か? 使徒言行録を記しているルカは、その何かを、自然界の出来事や比喩的な言葉の助けを借りて私たちに伝えようとしています。
さて、この出来事の主役は誰か? 著者ルカは、それを七節の「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」という言葉で明確にしています。五旬祭の主役が単にイエスの弟子たちだというのではなく、当時エルサレムの人々が蔑んで已まなかった、いわば「民衆」の代名詞のようなガリラヤの人々であったという事実を明らかにしておくことは重要だと思います。つまり、ペンテコステの事件は、イエスの弟子たちであるガリラヤの人々、民衆が主役となった事件であると言い換えてもよいということです。そして事実上、この時が起点となって、イエスを処刑したエルサレムで、ガリラヤの民衆がイエスの名による一つの共同体を創って定着するようになったのです。イエスの名による共同体、すなわち教会の始まりです。
次に、イエスの弟子たち、ガリラヤの民衆をこのように変えた力とは何か?
弟子たちを捉えたのは第一に「激しい風」でした。それは運動を創り出すもの、全く動かなかったものを運動へと促す力です。人間が捉えたり創り出すことができない力、それは天から下に向かってという運動です。旧約聖書における「霊」ということの本来の意味は、呼吸する息であり風であり、また力です。霊とは具体的な力の実現を意味します。霊は天からであって、人間の魂の深みから来るのではありません。
弟子たちを捉えたのは、第二に「炎のようであった」とあります。炎すなわち火は何よりも暖かいことによって特徴付けられます。硬直と冷たさが支配するところに、火は暖かさをもたらします。聖霊があるところ、教会は硬直を解きます。私たちの心の冷たさは氷解します。教会の礼拝は、そこに真に聖霊があるなら、私たちをキリスト・イエスの福音において、芯から温め、硬直から私たちを解放します。 しかし火は暖めるだけでなく、燃えて焼き尽くす力でもあります。ですから霊は終末性というものを強力に内にもつところの力です。終末性とは、既存の価値のいかなるものも前提とせず、全てのものは必ず終わらねばならないという信念であり確信です。既存の価値を相対化する力です。私たちが、「これだ」と確信していることを相対化して見るよう促す力です。ヨハネの黙示録にある「先の天と地は消え去り、新しい天と地とを見た」。このような事態を引き起こすのが「霊」です。 第三は、聖霊を受けた弟子たちの様子は「酔っているようであった」とあります。実際弟子たちを見た一部の人たちは、彼らはぶどう酒に酔って、たわごとを言っているに過ぎない、と思い込んだのです。「酔ったように」とは、聖霊は、私たちの理性を共鳴させるだけでなく、私たちの存在全体を、その心も体も魂も打ち振るわせ、共鳴させる力として私たちを突き動かすということではないでしょうか。
当然ながら、「風」「炎」「酔う」この三つの特徴づけで、具体的な神に力の実現としての聖霊を語り尽くすことはできないでしょう。聖霊はまさに神がご自身を顕される、単に顕されるだけでなく、ご自身の自由な意志を具体的な力として示される出来事、一つの事件です。神さまの自由な意志に基づく出来事ですから、聖霊は、私たちが考える特定の場所とか時には縛られません。神殿や教会といった特定の場所、あるいは特定の人、一つの時に限定されない、限界に縛られるものではない、と言うこともできます。
しかし事柄には必ず中心があります。聖霊は、集中的にイエスという方の上に、イエスの生涯という特定の時の内に、その具体的な力を露わにしたのです。聖霊とイエスとの一致 ―― 私たちが聖霊について語る際、一切の前提としなければならないのはこのことです。イエスの出来事は、そのまま聖霊の出来事、聖霊事件である。歴史の中で連続して起こる出来事・事件が聖霊事件であるか否かは、この「聖霊とイエスとの一致」という基準をもとに判断されねばならないでしょう。 使徒言行録の著者と同じルカによって記されたルカによる福音書四章には、イエスの出来事を端的に聖霊事件とした上で、その出来事の真相を明らかにした注目すべき言葉が記されています。すなわち、イエスは「自分の上に主の霊が降った」と前提した上で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」そのことが正に私において成就した、と語っています。 翻って、このペンテコステの事件はどうであったのでしょうか。力もなく蔑みの対象でしかなかったガリラヤの民衆、弟子たち、その彼らの中に働くイエスの霊が、彼らを生かし勇気を与えたのです。形骸化した律法の下に隷属していかねばならないと考えていた人々に解放の希望を与えたのです。その本来の意味を失い、支配者のイデオロギーに変質した安息日を公然と廃止し、安息日の翌日を主イエス復活の記念の日として聖別する礼拝を始めた小さな共同体、この小さな共同体の聖霊運動が、後にユダヤ教の垣根を越えて、ついには世界の大帝国ローマを崩壊させるにまで展開したのです。
今日私たちが、ペンテコステを記念する意味は、あの二千年前の出来事を、単に「教会の誕生日」として過去の出来事として思い起こすにとどまるものではありません。それは、聖霊を私たちの主観的な要求にマッチさせる、聖霊降臨をあの時あの所に限定してしまう危険を孕んでいます。今の歴史の中で、聖霊はたしかに働いています。この礼拝の中に、キリストの霊はたしかに働いているのです。教会以外の所でも聖霊はたしかに働いているのです。そして教会は、歴史の中で起こる霊の働きを、聖霊運動として、正しく認識し、霊の活動を告白していかねばなりません。 それでは、何が真の聖霊運動であって、なにが真の聖霊運動ではないのか。一切はイエスの出来事を基準として判断されねばならないでしょう。 第一は真の解放に繋がるのかどうか、ということです。貧しい者、囚われている者、抑圧されている者が真に解き放たれ、神の似像として創造された人間に相応しく、本来創られたままなる人間性の回復へと繋がるのか否か、ということです。 第二は、的を射た表現ではないかもしれませんが、それが「自己超越」、「自分というものを乗り越える」という契機をもっているか否か、ということだと思います。「自分の利益、自分の能力ということを超えてある」ということ。福音書の中に「自分のいのちを捨てる、自分のいのちを憎む」という言葉があります。自分というものに固執しない、ということ ―― 私にはそんな力は、あるいは自分はこういう立場だから、と言って自己を留保するのではない生き方 ―― そういう生き方への可能性を、私たちは主イエスによって開かれているのではないでしょうか。この自己超越ということは、先ほどの「終末性」ということに繋がります。全てのものには必ず終わりがある。その中には自らの運命といのちまでも含まれます。しかし「終末性」をしっかり保つゆえに、いかなる既存のものに対しても、私たちはこれを相対化し、自由にこれを乗り越えていくことができる、そのような約束を私たちはイエスにある神によって与えられているのではないでしょうか。
私たちの教会は、今日このような聖霊運動へと召されています。
「あなたは聖霊を持っていますか?」 私たちは今朝、この問いに対し、恐れつつしかし喜ばしく「私たちはキリストの霊を持っています」と告白しようではありませんか。そしてキリストの霊を注がれた者に相応しく、生きて働く聖霊の業に、いよいよ私たちを参与させてください、そのように祈り求めたいのです。
(2008年5月11日礼拝説教)
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