誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。』イエスはお答になった。『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
「人はパンだけで生きるものではない」。この主イエスの言葉を聞いたとき、私たちはどのようなことを、思い浮かべるのでしょうか。
最近、藤沢周平をはじめ、下級武士や市井の貧しい庶民を題材にした時代小説が、広く読まれています。その背景には、富をあくことなく追い求めてきたバブル時代の生き方に対する疑問や悔いがあるのではないかと思います。私も愛読者ですが、「ひとは富だけを追い求めて生きてはならない」という思いが、愛読し続ける大きな要因となっているといっても過言ではないでしょう。
また、教会学校生徒の時代に、この言葉から「人間は、食べて、金を稼ぎ、寝る、というような即物的な生き方ではなく、精神的な充実を求め、理想を掲げ、それに向かって歩むことが、人を人とたらしめることであり、信仰を持つことでもあるのだろう」と考えたものでした。
「人はパンだけで生きるものではない」との言葉から、今述べたような教えを私たちが考え、感じ取っても、それはそれで良いのかもしれません。
実際、荒れ野の3つの誘惑、第一の誘惑の「石をパンにしたらどうか」が物質上の誘惑、第二の誘惑の「神殿の頂より飛び降りたらどうか」が信仰的誘惑、第三の誘惑の「全世界を与えるので、ひれ伏して拝んだらどうか」は政治権力への誘惑である、と分類することもできます。
しかし、主イエスがこの悪魔に対して答えられた内容は、単に道徳的な倫理や徳目的な生き方を示すだけにとどまるのではなく、もっと根源的なこと、神が聖書を通して私たちに示しておられる福音そのものが示されているのではないでしょうか。
このことを念頭にしつつ、「パンの誘惑」について、いくつかのことを考えてみたいと思うのです。
20年ほど前、フィリピンの首都マニラにある、ゴミ捨て場の横にあるスラムを訪ねたことがあります。大都会マニラから出る多量のゴミが山になっていて、人々はゴミの山から、まだ売れそうなものを探しだし、それを売ったごく僅かなお金で、生き延びていました。マニラで最も貧しく、最も不衛生な所だといえるでしょう。
このスラムのすぐ脇に、キリスト教新宗派の白い立派な教会がありました。周囲は3メートル位の鉄の柵で囲まれていましたが、その正面玄関には「人はパンだけで生きるものではない」という、大きな看板が掲げられていました。その教会を囲んでいる柵の下側に、スラムの誰かが書いたと思われる、小さな悪戯書きがありました。その悪戯書きには、こう書いてありました。「でも、パンがなくては、俺らは生きられない」。
「でも、パンがなくては、俺らは生きられない」。豊かな私たちが、「人はパンだけで生きるものではない」とは口が裂けても言えない、重く、根底的なことが問われている、と思わざるを得ませんでした。
主イエスは40日間断食をし、空腹でした。しかし、主イエスの空腹は、イエス個人の空腹だけを意味しているのではありません。
イエスは、ガリラヤで育ち、活動をなされました。当時のガリラヤ地方の一部は、農業に適した肥沃な大地があったともいわれていますし、一部の人々は裕福な暮らしをしていたとも思われます。しかし、ローマ帝国、そのもとにあるヘロデ王国、そして、エルサレムにあるユダヤ教の神殿という、三つの巨大な権力によって支配されていました。税金も三重に課せられていました。当時のガリラヤの80%の人々は貧しい人々で、生まれた子どものうち、3、4人に1人は死に、40歳以下で死ぬ人も多く、飢えと病気に苦しんでいた、といわれています。
主イエスは、この荒れ野の誘惑の後、ガリラヤでの活動を開始なされます。そのときイエスの周囲にいた人々は、小作人、日雇い労働者、奴隷、障害をもっている者、物乞いなど、貧しく、抑圧され、差別され、苦しみの毎日を過ごしている人々でした。あのマニラのスラムの人々と同じように、「しかし、パンなしでは、俺らは生きられない」という人々と、イエスは共におられたのです。
そして、その人々と一緒に、食卓を囲むことを、とても大切にされていたのです。毎日の食事もままならない人々と、食卓を一緒にすること、それは神が私たちに与えてくださっている愛と恵みとを、分かち合い、感謝することでした。
ですから、「パンが必要である」ということは、断食で空腹であった主イエス個人のことではなく、イエスに従っていく全ての人びとに関わることであり、イエスにとって、その生涯において、いつも大切なことであったのです。
しかし、主は言われました。「人はパンだけで生きるものではない」。
? 私の経験からのお話しを、もう1つさせていただくことを、お許しください。
フィリピンの中部にネグロス島という島があります。このネグロス島の多くの人々の生活は、今お話した二千年前のガリラヤの貧しい人々の生活状況と変わりありません。
150年以上にわたって、サトウキビ大農園の労働者として、地主から奴隷のような生活を強いられて来ました。農園に住みながら食料が購入できず、飢餓で子どもを亡くし、大人も子どもも栄養失調からくる様々な病気を抱えています。死ぬことをまぬがれた子どもたちも、小学校は低学年までしか通えず、老人は少しの風邪で肺炎を引き起して死んでしまうのです。そのような人々と、私は仲間たちと20年余り交流をして、彼らが、そのような状況から立ち上がるために、ささやかな協力をしてきました。
そして今ようやく、50家族ほどが、自分たちの農地を手に入れ、野菜を作り、どうにか自活していくことが出来るようになって来ました。
そのような、サトウキビ農園の労働者から自営農民になろうと、懸命に努力している村の一つに、エスペランサという名の村があります。数年前、このエスペランサ村の若い農民達のリーダー格のジョニーさんが、ようやく手に出来た自分たちの土地で、仲間と農作業をしていたところを、元の大地主に雇われている兵士、つまり私兵に殺されるという事件が起きました。いつも空腹でいる子どもたちの為に、自分たちの手で食料を作れるようになろうと、必死に働いているジョニーさんを、農地を取り戻したい元地主は撃ち殺したのです。
実はジョニーさんが殺される前夜、ジョニーさんと、その伯父さんのリトさん、リトさんはこのエスペランサ村全体のリーダーですが、この2人が元の地主の息のかかった者に呼び出されました。そして、畑を元の地主に戻して、地主の下で以前のように働くように村の人々を説得して欲しい。そうしてくれるなら、多額のお金をわたす、という誘いを受けたのです。
エスペランサ村の人々は、奴隷のように働いてきたので、十分な農業技術も持っていませんし、苗や種や農業器材を購入するお金もありません。私たちが協力はしていますが、十分ではありません。畑を耕し始めたといっても、収穫できるかどうか不安でした。毎日毎日、今日の食事をどうしようかと悩んでいる、妻や子どもたちのことを思えば、喉から手が出るほどお金は欲しいのです。リトさんの末っ子は、二つある心臓の心室が1つしかない先天性の心臓病で、マニラの病院で手術をしなくては命がない、といわれていて、リトさんは、どうしたらよいかと、本当に困っていたときでした。
そのお金をもらって、お腹を満たしてもいいのではないか。子どもに手術を受けさせてもいいのではないか。飢えている子ども、難病を抱えている子どものことを思えば、誰がそれを咎がめことが出来るでしょうか。
しかし、ジョニーさんとリトさんは、その誘惑を拒否しました。農地を手放さず、自分たちの力で食べるものを生産する。それが、子どもたちを飢えから解放し、子どもたちの未来を切り開くために、自分たちに与えられた使命なのだといって、拒否したのです。その結果、若いジョニーさんが、殺されたのでした。
このジョニーが殺されたこと、そして、その前夜のことが知らされたとき、私はとっさに「人はパンだけで生きるのではない」を思い浮かべました。
人々が飢え、そして時には殺されるということを、知り尽くしていた主イエスに対し、悪魔は「石をパンにしたらどうか」と誘うのです。「腹が減って苦しいだろう。だから、生き延びるために、石をパンにしたらどうか」と誘うのです。「パンなしでは生きられない」のだから、他人のことなどに関心を持たずに、自分が生き延びることだけに関心を持て。そのためには、何でもしたら良いではないか。石をパンにかえて、自分の腹を満たしたらどうか、と勧めているのです。
しかし、主は悪魔に言いました。「人はパンだけで生きるのではない」。
リトさんとジョニーさんは、絶大の権力を持っている元地主の誘惑を拒否すれば、命の危険があることは、十分分かっていたはずです。それまでも、私兵に銃で何度も脅されていたからです。ですから、リトさんたちがとった行動、決断、生き方は、単に倫理的な、道徳的な、徳目的な生き方をしようとしたという次元を超えて、命をかけても信念を貫き通すという覚悟、いや信仰があったからではないか、と思わざるを得ません。
この2人が、誘惑者に対して、「自分たちの子どもたちを、飢えから本当に解放し、子どもたちの未来を切り開くのが、自分たちに与えられた使命なのだ」と叫んだことは、次のようにいえるのではないでしょうか。
「人はパンだけで生きるのではない」ということは、同時に「本当のパンなしでは、私たち生きられない」ということを語っているのだと。
パンを必死に求めている人たちは、本当のパン、皆で分け隔てなく食卓を囲み、分け合って食べる本当のパンを求めているのだ。だから、魔法で石をパンに代えたようなまがい物で、自分の腹だけを満たしても、それはともに食卓を囲むことにはならないのだと。
さて、この荒れ野の誘惑全体は、何を私たちに告げているのでしょうか。
「パンの誘惑」に対する主イエスの答、「ひとはパンだけで生きるものではない。神の口から出る1つ1つのことばで生きる」は、先ほど朗読していただいたように、申命記8章3節の言葉です。
その直前に「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こ
うして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうか知ろうとなされた」とあります。
このことが、このイエスの荒れ野の誘惑の背景にあります。イスラエルの民が、モーセに率いられ、紅海を渡り、エジプトを脱出した後、荒れ野で経験したことは、40年間食べ物がないまま放浪するという試練でした。その時、飢えたイスラエルの民は神への信頼を貫くことができず、神が共におられる、ということを疑ったのです。「神が共におられる」という信仰を回復させてくださったのは、神が天からパンを降らせて、この不信仰な民を神が養ってくださったからでした。
空腹な主イエスは、しかし、石をパンに変えることができる神の力を利用するのではなく、神にのみ信頼する、すべてを神に委ねる、そのことで悪魔の試みを退けられたのです。
第二の誘惑、第3の誘惑に対するイエスの答、「あなたの神である主を試してはならない」「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、どちらも申命記6章の言葉ですが、この申命記6章は十戒の第一戒「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」に直接つながる箇所で、6章4~5節にはこうあります。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
私たちは、様々な苦しみにあい、誘惑に悩み、不安や恐怖に襲われます。信仰を持ったからといっても、それが無くなるわけではなく、また、神からそれらを免除されるわけでもありません。むしろ、信仰を持ったがために、この世において、試練や誘惑や戦いが押し寄せてくるとさえ、いえるかもしれません。
この荒れ野の誘惑の物語は、そのような試練・誘惑・戦いの中でこそ、この世の知恵や権威や権力ではなく、ただ神を信頼し、神に仕え、神に委ねること、それによってのみ打ち勝つことができるのだ、ということを、私たちに指し示しています。
しかし、私たちは、どのようにして、このことを確信できるのでしょうか。
「荒れ野の誘惑」の物語の最後、11節に「さて、悪魔は離れ去った」とあります。ルカによる福音書の「荒野の誘惑」物語の最後は、「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」です。悪魔は主イエスに敗れ去って、二度と主の前に現れることはなかった、とは記されていません。「時がくるまで」1時、離れたというのです。これはどういうことを意味しているのでしょうか。
悪魔の誘惑の言葉をもう1度、考えたいと思います。
第1はこうです。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうか」。第2はこうです。「神の子なら、飛び降りたらどうか」。
これは明らかに、主イエスは本当に「神の子」なのか、本当に「メシア=救い主」なのかを問題にしています。「神の子である」ということは、「奇蹟が行える能力があるかどうかにある」というのです。
第3の誘惑は「ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」とありますが、この世の支配権を与えるという誘惑であり、ローマ帝国とヘロデ王による圧制に苦しむ民衆が待ち望んでいた、この世の権力者としての「救い主」にならないのか、との誘いです。
ところで、この3つ誘惑は、主イエスの三つの大きな活動に対応しているといわれています。すなわち、「石をパンに変える奇蹟への誘惑」は、ガリラヤで貧しい人々を癒し、食べさせ、そして福音をもたらすという活動に対応し、第三の誘惑の「この世の権力者となればどうか」は、イエスが人々をともなってエルサレムへ登っていく旅の途上に対応し、そして、第2の「神殿での奇蹟への誘惑」は、エルサレムでの活動に対応しているといわれています。
つまり、この誘惑は、神から与えられた主イエス・キリストの使命、活動、そして生涯を、妨げ、台無しにし、封じ込めるための誘惑であったといえます。
ですから、『お前は本当に「神の子」なのか、「救い主メシヤ」なのか。もし本当ならば、その証拠を見せてみよ』と、悪魔は誘うのです。
しかし、イエスはこの誘惑、試みに対し、悪魔が望むようなことは1切なさらず、フィリピ書にあるように、「神の身分でありながら、神に等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられた」という、神への完全な信頼と服従に生きられたのです。
悪魔が妨げ、台無しにし、封じ込めようとしたイエスの地上での活動、その最後の場面は十字架です。十字架のイエスへの「あざけり」「侮辱」を思い出してください。マタイ福音書では、27章27節以下に記されています。
ポンテオ・ピラトの兵士たちのあざけりはこうです。「ユダヤ人の王、万歳」。十字架に一緒につけられた強盗は、こうあざけります。「神殿を打ち倒し、3日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」。
そして、祭司長・律法学者・長老たちは、こう侮辱します。「他人を救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐに十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐに救ってもらえ。『わたしは神の子』だといっていたのだから」。
「荒れ野の誘惑」での悪魔と同じ誘惑・試みの言葉です。「神の子なら奇蹟を起こしてみよ」。世を支配する「ユダヤ人の王」「イスラエルの王」になったらどうか。
荒れ野の誘惑の後、悪魔は時がくるまで一時離れましたが、その悪魔が再び誘惑しているのです。
しかし、イエスは、それに応えようとはなさりませんでした。「神の子」「救い主」に期待されている奇蹟や英雄的な行為、誰をも魅了する手段で、自分が「神の子」であることを示そうとはなされませんでした。聖書に記されているように、イエスは、多くの奇跡をなされました。真に神の子であるが故に、それが可能でした。しかし、それは、貧しく、抑圧され、差別され、苦しんでいる人々に、本当のパンをお与になる、主イエスの、そして神の愛の業なのです。奇蹟をおこす能力があることや、この世の権力をもつことによって、誇らしげに「神の子」「救い主」「キリスト」であることを示そうなどということは、まったくなさりませんでした。
何の罪もないイエスが、侮られ、侮辱され、ついには「十字架」上での死という、悲惨極まりない死。そのことにおいて、主イエスが神の子であり、私たちの救い主、キリストであることを示されたのです。
誘惑に対する主イエスの答『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』の最終的な、そして完全な答は、十字架である、といわなくてはなりません。それ故、百人隊長が十字架上で亡くなられたイエスをご覧になって、「本当にこの人は神の子であった」と初めて告白できたのです。
最後に、もう1度、エスペランサ村のその後のことをお話ししたいと思います。ジョニーさんが殺された後も、元地主からの嫌がらせ、脅迫は続きました。それでも、リトさんたちは、「もし、この大地が声を発することが出来るなら、私は貴方たちのものだ、といってくれるに違いない」と叫んで、屈服しませんでした。
ジョニーさんが殺されてから半年後、エスペランサ村は、ついに収穫祭を迎えることができました。村の人々が十分に食べていけるだけの収穫には程遠かったのですが、それでも収穫祭には、周辺の同じように貧しい生活をしている農民や、奴隷のような生活を強いられているサトウキビ農園労働者、そして私たちの仲間が招かれ、村の人々が精一杯作ってくれた料理で食卓を囲み、互いの絆をさらに強くしあったのです。
エスペランサ村。「エスペランサ」とは「希望」という意味です。名前とは裏腹に全く希望がない、過酷な生活を長いこと強いられてきたエスペランサ村。しかし、この世の苦難の只中にありながら、「石をパンに代えないか」という誘惑に、「人はパンだけで生きるものではない」と誘惑を退け、「本当のパンなしでは、生きられない」と、本当のパンを求めて歩んだエスペランサ村の人々。そして終に、「本当のパン」を与えられたのではないでしょうか。
主イエスが語った「貧しい人々は幸である。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は幸である。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は幸である。あなたがたは笑うようになる」という神が約束された希望が、このエスペランサ村、希望村に、文字通り「希望」が約束されたといえるのではないでしょうか。
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この希望はどこからあたえられたのでしょうか。私たちにも、エスペランサの人々と同じように、希望が約束されているのでしょうか。
神に従順であられた主イエスは、あなどられ、侮辱され、十字架につけられました。しかし、それで終わったわけではありませんでした。
主イエスは復活なされたのです。イエス・キリストは「へりくだって、死に至るまで、十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と、フィリピ書ある通りです。
あの十字架の主が復活なされた。そこに私たちに、真の希望が約束されているのです。
神に聞き従うことは苦難の道であるかもしれません。否、この世においては、神に従おうとするならば、多かれ少なかれ、誰もが苦難を避けることはできないでしょう。しかし、それでもなお、神に聞き従うことによってのみ、希望が私たちに与えられるのではないでしょうか。復活なされた主イエス・キリストは、今も尚、私たちに寄り添って歩んでいてくださるのです。
十字架の主イエス、復活の主イエスが、私たちに確かな希望の約束を示しておられるのです。
(2007年6月17日 夕礼拝説教)
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