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2007年4月1日 礼拝説教 【十字架のもとに立つ教会】 池田 伯
エレミヤ書 4章16-19節 / ガラテヤの信徒への手紙  6章14-16節
 

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 神は、どのようなこと、どのような時、またどのような人をも、無駄とされない。むしろそれら一つひとつ、一人ひとりを用いてみ心をなさる-これは神に対する私たちの動かない信頼です。
いま私たちの教会が迎えている主任教師の代務体制は、教会の常の姿とはいえない。それが直ちに見えてくるということではなくても、一種の危機状態だといえましょう。私たちは教会の今の時・この体制をもまた、神へのあの信頼において受止めたい。そのようにして、感謝と希望のうちに、主の教会をたてるために共に励みたいのです。
今日の説教は、受難週を覚え、教会の新年度当初の礼拝であることを覚え、また代務者としての私の最初の説教であることを覚えつつ、申し上げます。
今年度の教会基本方針に、ご承知のように、次の一文がある。「2007年度は、やむをえず「代務体制」となるが、私たちは、むしろこの時を神より与えられた特別の恵みと積極的に受け止め」云々。これは信仰の言葉です。十字架の信仰に立つ言葉です。敗北が勝利となる主イエスの十字架からいえる言葉、十字架によるならばそう言わざるを得ない言葉です。実際殺された、しかも十字架で殺されるという極限の敗北である主の十字架は、そのままで決定的な勝利の事実となった、救いの出来事、人を新しく生かす力となった。十字架のキリストにあっては、使徒パウロが言うように、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からである。
もちろん聖書においてそうであるように、この十字架は復活の主キリストとの出会いによって新しく見えてきた、その出会いを経験した者に力をもって迫り来る十字架です。
私たちの教会はその初めから、特別にこの十字架によって立ってきました。
この教会の創設に中心的にかかわった初代牧師・高倉徳太郎の信仰、それを彼自身の言葉で一言でいえばこうです。「十字架が(主の十字架が)究極の実在」。この教会は高倉のこの信仰から出発し、時々の状況の中で、表現やかたちは変わり、広がりはあったとしても、基本的にこの信仰によって歩んできた。
たとえば高倉の突然の死の年、福田正俊牧師を迎えた教会のその年の夏季修養会の主題は、「十字架の下なる教会」でした。教会は繰返しくりかえし、神の十字架の審きのもとに立つ、いなそれ以上に十字架の恵の赦しによって徹頭徹尾神との蹟罪関係に立つ。そのようにして積極的・現実的に、そして責任的に新生を生きる者とされるーこの教会が歩み、戦い、乗り越え、経てきた基本の道筋です。
この教会はある時期から、聖書が告知する「神の国」に目をとめ、その福音の豊かさに教えられてきた。教会の一つの前進でした。しかし私たちが注意しなければならないのは、その神の国は十字架をとおして見えてくるということ、私たちが神との蹟罪関係に立つ中からこそ見えてくるのだ、ということです。実際「告白する教会」も「世のための教会」も、十字架のもとに立つ、この基本と別にあったのではなく、むしろその徹底であり、時代状況のなかでその展開を願っての模索にほかなりません。-「十字架のもとに立つ教会」、それが私たちの教会の原初・基本の姿だということです。
今日の説教でご一緒に、改めて、聖書に聴きたいのは、その十字架とは何であり、どのような十字架なのか、ということです。

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 ところでパウロがそれこそが誇りだという「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」(14節)、それは一体何であり、どのような十字架なのか。-ここでパウロのいう意味をも含め新約聖書全般に目をむけて、その意味・広がり・いのちを、ごく要点とならざるを得ませんが、聴き取りたい。
 そもそもイエスはなぜ十字架にかけられ殺されたのか。聖書、とくに福音書からその大筋を聴くことができる。いくつかの要因があったことは確かです。しかし決定的な原因、それは、イエスが神の一方的な、無条件で徹底した赦しを語ったことにある。「時は満ち、神の国は近づいた」はまさにその告知の集約であり、その事実に目を開くことが悔い改めということにほかならない。たとえば放蕩息子のたとえのように、イエスは、神の一方的な、無条件で徹底した赦しを語った。ここに福音の原点がある。
 イエスのその教え・行動は、神の戒めを守ることを赦し・救いの条件と考えていた当時のユダヤ教・神殿宗教にとって、まさに神を冒涜するもの、宗教、社会の骨格を破壊することであった。それがイエスが十字架で殺された主たる原因です。
 次に、弟子たち・初代教会の理解した十字架です。復活のイエスに出会った弟子たちは、十字架で殺されたあのイエスがキリストだったと知り、信じ、告白した。そこに教会が生まれた。
 初代教会が告知した福音、その定式化された言葉を、パウロが自分も受けたことだとして伝えています(コリントⅠ15章3~5)。この中心は、キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして復活したことです。その死はここでもちろん十字架のイエスの死を指している。
 「わたしたちの罪」、この罪という語は複数です。「わたしたち」だから複数だ、「わたし」なら当然単数だ、そう言いたい。しかし必ずしもそうではない。多くの聖書学者が語っているが、初代教会が語り・伝えた「キリストの十字架によって瞭われた罪」、それは複数の罪であった。つまり律法違反としての罪、神のみ心に背くあれこれの罪、いわば倫理・道徳的な罪であったという。私もそれは聖書に近い理解だと思う。これは旧約聖書のいう「罪・とが」と重なる使い方です。聖書の人びとにとってと同じように私たちも、この意味での、神に対する・人に対する罪・とがからの赦し、そこからの再出発を、夕毎・朝毎に必要としています。主の十字架はそのような答、破れ、罪を、贖い赦し、新しく立たせてくださる。

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 次にパウロの十字架理解です。パウロもまた主の十字架の死が、われわれの罪の贖いであった、と語る。彼は、罪の贖いによって義とされる、このことが無償で、恵みとして、すなわち無条件で、ということをもまた強調してやまない。
彼は、伝えられた言葉としてでなく自分の言葉で「罪」をいうとき、それはいつも単数です。パウロが言う罪、それはあれこれの複数で数えあげることの罪をこえて、もっと根源的な罪、さまざまな病状を引き起こす病巣としての罪、実存の根っこに絡み付いて人間存在全体に力を及ぼす罪、自分の存在と離しがたく共にある罪。彼はそういう罪に苦しみ戦っていた、ということです。「義人なし、一人だになし」、彼がローマ書で叫んでいるとおりです。彼にとってこの罪からの贖い・赦し・解放なしに、十字架による罪の蹟いはない。本当にそうです。彼はこの贖いを真底知り・信じ、歓喜した。「しかし今や」十字架の主によってその罪の赦しをうけその罪の奴隷から解放され、祝福存在とされたパウロ。その喜び、感謝-私たちにも、わがこととしてよく分かるのです。(私たちの教会が十字架というとき、主にこのパウロ的意味で語ってきたと思う。)
 パウロがこのようにいうことでしかし、私たちが注意しなければならないことがある。彼のいう罪、それは主の十字架による赦し・贖いを受けて初めてそれとして自覚できた罪だということ、彼は繰り返し十字架のもとに立つほかなかった、ということです。
 パウロが主の十字架ということで語っているもう一つのことがある。それは弱さとしての十字架、弱さの象徴としての十字架です。
 その十字架の主のゆえに彼は「弱さを誇る」。「わたしたちの主イエス・キリストの十字架」、このことで聖書からどうしても聴いておきたいもう一つのことがある。聖書箇所でいえばたとえば「コロサイの信徒への手紙」その1章20節。ここには信じる者・信じない者をこえ、すべての人、すべての被造物に、神との和解によるシャローム、平和をもたらす主の十字架が語られています。十字架の主イエスはまさにすべての人、すべての世界と歴史、全被造物の主にして救い主。十字架はそのような広がりをもついのちの力、シャローム・平安・平和の力です。このキリストが教会のかしらです。教会の目と使命は、その主のゆえに広がりをもたざるをえない。これは特に今日的な課題だといわなければなりません。
 十字架のもとに立つ教会-その十字架は、申してきたような十字架なのであります。

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 それにしても、主の十字架が立った根本原因はなにか。それは神の愛、神のわれわれに対する深い愛・憐れみです。エレミヤ書が朗読されました。ここには神の、それこそ叫びがある。神の民ユダが、外からの脅威もさることながら、自らの知恵、自らの失策によって窮状に陥る。その姿に深く心を痛め、神は叫ぶ。
 「わがはらわたよ、わがはらわたよ、わたしはもだえる、苦しみ悶える。わたしは黙っていられない」-このはらわた痛むまでの神の私たちに対する愛、それがまさに主の十字架です。福音書が、主イエスが飼う者のない羊のような群衆を見、その一人ひとりに目を止め、「深く憐れまれた」と語っている。これも「はらわたが痛む」という言葉です。主のこの深い憐れみはそのまま十字架となる。
 主の十字架の根本原因、それは神のわたしたち・この世界に対する、はらわた痛むまでの愛にほかなりません。
 「十字架のもとに立つ教会」-教会は主の十字架のもとにしか在りえない、立ちえない。そのようにして立たされるとき、教会は、私たち一人ひとりは、神との贖罪関係に立ち、新生を生きる者とされる。

 主の十字架の贖いを心深く感謝し、十字架の主のご支配を喜ぶ。その主に信頼し、その主に仕え、その主に委ねつつ、それぞれに励む。積極的・現実的に生き、責任的に生きる。晴れやかに堂々と歩む。そのようにして、喜んで生き、喜んで死ぬ1十字架のもとに立つとは、そういうことに違いない。

(信濃町教会月報2007年5月号)

 
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