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2006年9月3日礼拝説教 【神の愛への讃歌】南 吉衛
ローマの信徒への手紙 8章31~39節
 

  これまでローマの信徒への手紙を読みながら、山の頂きを越えて来たが、今日の箇所は、三つの頂きの一番高い所だと言える。あるいは、三幕からなる芝居の第一幕の終わりであって、会衆が、そのフィナーレに大きな拍手を送っている場面 を想像することが出来る。つまり、ローマの信徒への手紙を三部に分けた場合(1~8章、9~11章、12~16章)の第一部の終わりであり、賛美の響きが全体を覆っている。神の愛、キリストの愛に対する賛美である。第一には、パウロの信仰の表明であり、さまざまな人生経験、伝道者としての苦難の経験をしたパウロの神の愛への賛美である。これまでの部分、5章12節から8章11節までで、われわれに敵対する三つの力についてパウロは述べて来た。それは、死、罪、律法であった。そして今日のテキストの直前、8章12節からは、「現在の苦しみ」、いわゆる「三つのうめき」についてパウロは、語ったのである。
 そしていよいよ今日の箇所に入る。これらの「時代の苦しみ」、うめきを生み出すさまざまな事柄について、キリスト者として何と言ったら良いのだろうか、とパウロは問う。その場合、パウロは、伝道者としての自分の経験を思い起こしている。これまで30年の伝道者としての人生で、どんなに多くの「苦労」を味わって来たか、コリントの信徒への手紙・、11章で語っている通 りである。今日の箇所でも、「艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」と危難の数々を挙げている。
 この時点で一つ言っておきたいことは、この箇所を包んでいる全体のトーンは「賛美」であるが、それはパウロ自身の信仰の賛美ではないことである。不思議なことに、この「賛美」の中には「信仰」という言葉が一度も出て来ないのである。全体を包んでいる「勝利」、「確信」は、彼の持っている立派な信仰によって得られたとは言っていない。イエス・キリストを通 して為された(啓示された)神ご自身の業、「神がわたしたちの味方」であること、このことが計り知れない力を持っていて、そのことが保証されていれば、「誰も」、「何ものも」わたしたちに敵対できないというのである。語られていることは、キリスト者の勝利ではなく、神の愛の勝利、神の勝利である。
 ただし、福音書を読むと、「あなたの信仰があなたを救った」などの表現がある。イエス以外に自分を助けてくれる人がいないことを知って、なり振り構わずイエスのところにやって来た女性の信仰が賞賛されている。あるいは、「このような信仰は、イスラエルに見たことがない」とイエスに誉められた人もいた。このような福音書的な信仰(「あなたの信仰があなたを救った」)にくらべると、パウロが救われたのは、よりにもよってキリスト者を迫害していた時であったから、この時のパウロの行動は、「不信仰」極まりないものであったと言える。この経験からパウロにとっては「恵みによって救われた」こと、それがすべてであった(エフェソの信徒への手紙2章5節)。つまりパウロは、直接イエスに会っていない。しかし復活のキリストに会っている。その光に打たれて回心したのだった。パウロの言うイエス・キリストの真実(十字架)によって生まれる信仰がある、と考えることも可能であるが、パウロは信仰という言葉を使わずに賛美の形で自分の信仰をあらわしていると考えられる。

 では「神がわたしたちの味方である」ことをわれわれはどのように知るのか。それが32節で述べられている。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。
 我が子を捧げる話はアブラハムの例がある(創世記22章)。パウロはそれをもちろん知っていた。しかし神が「その御子をさえ惜しまず死に渡された」ことは、アブラハムを質的にはるかに上回っている。確かにアブラハムはイスラエルの歴史で、「信仰の父」と呼ばれているが、彼は一人の信仰者であって神ではない。しかしイエス・キリストの場合は、神ご自身が自らを人間のために犠牲にしているのである。しかも「立派な人間」のためではない。罪と汚れに満ちた人間のためである。パウロは、このことを他の箇所でもっとはっきりと表現している。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(コリントの信徒への手紙・、5章21節)。
 われわれは、元々、神の義を得るに相応しい者ではない。神の家に招かれる資格はない。なぜなら、神の戒めを守らず神に背を向け、自分勝手な道を歩んでいるからである。「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえってむなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」のである(ローマの信徒への手紙1章21節)。それはユダヤ人の場合もギリシャ人の場合も変わらない。

 今日の聖書箇所で見逃してはならないことは、いずれの場合も神が「主語」であること。神が独り子を、わたしたち不信心な者のために惜しまず、捧げて下さり、「神がわたしたちを選んで」下さり、「神がイエス・キリストにあって、わたしたちのために執りなして下さっている」のである。すべてが、神の恵みに満ちた行為である。自分のことを棚に挙げて、世の中が悪いなどと言うことなど到底できないのである。

 わたしたちもキリストに従うことを大切にし教会の交わりを大切にしてはいるが、良く考えて見れば、多くの場合、失敗が伴い、「主にある交わり」と言っても結局はこの世の人と変わらないで、好きな人、気の合う人と付き合っているに過ぎない場合が少なくないのではないか。確固たる意思を持って、「わたしは、わたしと考えの違う人との交わりを求め、この世で誰からも相手にされない人との交わりを何時も求めています」と言える人は、ほとんどいないと言って良いだろう。
 それに対して神がわれわれを選ばれたのは、われわれの側に誉むべきことがあったり、優れたことがあったからではない。そうではなく、一方的な、神の自由な選びであった。このように考えれば考えるほど、われわれは、神の愛に値しないもの、神の家に招かれるに相応しくない者である。しかし神は、そのわれわれを、ご自分の自由意志で選ばれたのである。今日の聖書箇所で扱われているすべての問題の主語は、神、或は神の計り知れない愛、その義なのである。

 その点でもう一つ言っておかねばならないことは、38節の「わたしは確信する」という表現についてである。この場合も、確信の根拠は、決してわれわれの側にあるのではない。「今度の事業・計画・実験は必ず成功すると、わたしは確信している」の場合の確信とは違うのである。この箇所、原文では「受け身」で書かれている。すなわち主語はやはり神なのである。神によって、この場合は、「神の愛によってわたしは確信にまで至らされた」とパウロは言っているのである。確信の根拠は、パウロの側にはないのである。
 神の自由意志による選びは、旧約のイスラエルについてもあてはまる。申命記に次のように書かれている。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに…あなたたちを導き出し…奴隷の家から救い出されたのである」(7章7~8節)。この場合も主語は、やはり神である。このように、何と言ってもイエス・キリストにおける神の愛である。その神の愛、キリストの愛に触れたが故に、パウロは、35節で「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょうか」と言うことができたのである。

 先週の日曜日、わたしは61歳で亡くなった牧師・宣教師の葬儀に出席した。彼は会社員として25年程働いてから献身して牧師になった人で、わたしたちがドイツに遣わされていた頃、彼は夫人とブラジルに派遣されていた。しかし7年目に病いを得、慶応病院で見てもらったところ、「筋萎縮性側索(そくさく)硬化症」という難病であることが分かった。この4月に亡くなった秋山絵美子さんと同じ病いである。初め、腕の脱力感があり、だんだんと進行して、はしを持つ力さえなくなった。発病して3年間、病いと戦い、しかし、もう一度ブラジルに行き、最後は夫人と3人の息子に見守られて安らかに天に召されたという。「10年にわたるブラジルでの、孤独で厳しい、しかし、闇に輝く星のような、キリストの証人としての彼の生活」を語る葬儀説教を聞いて、わたしは自分のこれまでと、これからの生活を考えさせられた。
 今日の聖書箇所は、確かに、そう簡単に自分たちの信仰生活と重ならないところがある。われわれは、パウロの伝道者としての厳しい生活を頭では知っているが、自分自身は、身の安全な所に立ち、自分を可愛がる生活を続け、便利な生活に浸っている。しかし、われわれの周りにも、「神がわたしたちの味方である」ことを確信し、死、艱難、迫害さえも克服している人があることを知るのである。

 聖書は、わたしたちも、パウロと同じように、神の愛への賛美へと招いている。パウロではないから、彼のように、感動的な言葉を尽くして、賛美出来ないかも知れない。しかし、程度は違い、時代は違っているが、一人ひとりが神によって愛されていること、神がわたしたちの味方であることを知った者として、わたしたちもまた「何も怖くない」と言えるだろう。わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛からわたしたちを引き離すものは何なのか。さまざまな困難か、肉体的・精神的苦しみなのか、危険か、経済的な問題か…。一人ひとりが自分の苦しみと向き合い、それらのどれによっても、「キリストの愛から、わたしたちを引き離すことはできない!」と声高らかに賛美する者となりたい。

(2006年9月3日礼拝)

 
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