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2006年7月2日礼拝説教 【うめきつつ待つ望み】南 吉衛
ローマの信徒への手紙 8章18~30節
 

 これまでわれわれは、ローマの信徒への手紙という山を登って来たが、今日は、その頂きに到達したのである。その頂きの名は「栄光」である。栄光とは、主の祈りで「国と力と栄とは」と言っているあの「栄」のことである。神のみに帰せられるべき「栄光」が、今日の聖書では「将来わたしたちに現されるはず」と言う(18節)。これは驚くべき事柄である。
 しかし聖書では、他のところでもそのことが証しされている。例えばヨハネによる福音書1章14節には、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理に満ちていた」とあり、17章では、神の独り子イエスに与えられたこの栄光は、イエスを通 してわれわれにも与えられている、と語っている。
 われわれのような者が栄光を受けるに値するのだろうか。この問への答えが、今日パウロがこの聖書箇所で語っていることである。
 神は、このような、人間に栄光を与えるという計画を隠しておられた。しかし時至って、神は、この地上の人間を一人ひとり、名前で呼び出して下さったのである。今日の礼拝の招きの言葉、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43章)と言われている通 りである。「名が呼ばれる」とは、「一人ひとりが神によって召し出されている」との意味である。召し出されて、われわれは神の栄光を仰ぐのである。そして、神の栄光を仰ぐ時、罪を懺悔し、ひたすら神を賛美する者となる。
 われわれ人間は、アダムによって代表されるように、神の栄光を受けるに相応しい者ではなくなっている。何故なら、アダムは罪を犯して、神の似姿に創造された人間、自分自身を神から遠い存在にしてしまった。一度神から離れ今も離れている人間を、一人ひとり呼び出し召して下さり、アッバ、父よ!」と呼ぶことを許して下さり(8章15節)、そして信仰によって「義」として下さったこと(30節)、それらすべてが「われわれに栄光が与えられる」ことである。
 今やローマの信徒への手紙のテーマである「信仰によって義とされた者」、われわれには、畏れをもって告白しなければならないようなことが起こっている。それは詩編八篇でも言われている。「人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣る者として人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」。
 神がわたしたち、神から遠く離れた人間に、尚も栄光と威光を冠としていだかせるのは、ひとえにイエス・キリストの故である。キリストが、その栄光に「固執」しないで、僕の姿を取ってこの地上に降りて来られたこと、その一点に、われわれが神の栄光を受けられる根拠がある。

 ここで今日の聖書箇所の初めに目を留める。18節:「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」。(全体を集約した神学的命題)。つまり、神の栄光に与り召され信仰によって義とされた者は、同時に「苦しみ」の為に召されたという事実である。これは17節から既に始まっていたテーマである。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです」。
 パウロは、十字架によって贖なわれた者は苦しみを免れることが出来る、とは言わない。むしろ、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と言う(フィリピの信徒への手紙1章29節)。パウロは伝道者としての多くの肉体の苦しみ・病気を経験した。同時に「イエスを主と告白する」ことから来る苦しみも味わった。しかし、ここでいう「苦しみ」はそのような個人的な経験のことではない。苦しみと栄光は、本来はかりにかけて比べられるものではない。苦しみは水滴で栄光は海のようなもの。苦しみは、栄光から見れば「取るに足りない」のである。むしろここで大切なことは、5章冒頭ですでに「苦難を誇りとしています」「神の栄光にあずかる希望を誇りとしています」と言って、苦難と栄光を「希望」と結びつけていることである。そして、その希望こそ、今日の聖書箇所のキーワードである。

 さていよいよ本論に入りたい。今日の聖書箇所には三通 りの「うめき」があるが、すべて希望と結びついているので、三通りの「希望」と言っても良い。「被造物のうめき・希望」、「キリスト者のうめき・希望」、「御霊のうめき・希望」である。
 一つ目の、われわれには馴染みの薄い「被造物のうめき」があるのは、人間を単独ではなく、神によって造られた他の被造物との関係の中で見ているからである。その観点から見れば、人間も確かに「虚無に服している」と言えるが、同じように、被造物、野の山、動物・鳥、草木に至るまで呻いている。しかし、それは、犬の遠吠えや、海の恐ろしいうなりのことではない。パウロは特別 な目と耳で、すべての被造物のうめきを問題にしている。「神を知らない人間の罪が、被造物全体に深い嘆きを与えているのである」。
 われわれ、原初の人アダムのように神に背いている人間が、何時か「神の子として現れる」のを被造物が待っている。そして、その時、被造物も人間と一緒に、神の栄光、神の喜びに与る。その時を希望を持って待っている。何故なら、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」と21節で言っている。勿論被造物自身がこのことを明白に知っていることはないかもしれない。しかし、神の子供たち、つまりキリスト者に、栄光が現された時には、被造物もその喜びにあずかれるのである。
 二つ目のうめき・希望は、神の子自身のもの、わたしたちキリスト者のうめきである。そこでも「待ち望む」ことが大きな特色である(23節)。そこには「アッバ、父よ!」と呼ぶことのできる喜びがあり、キリストと共に神の相続人となる、との喜びもすでに確かであるが(8章15、16節)、同時に、途方に暮れるほども暗闇が世界を覆っていることから来る深い憂いがキリスト者にもある。しかし、最終的には、この二つ目のうめきの場合も、「栄光」が「苦しみ」より、遥かに重いのである。
 この二つ目の人間の場合のうめき・希望は、イエス・キリストに繋がっていることから来る悩み・嘆きであり、しかし、即それが希望となる。最近のニュースを聞く度に、日本人にいかにこの嘆きが欠けているかを思う。神を畏れない実業家、銀行マン、科学者、政治家にはみな、この悩みがないのである。しかしキリスト者には、そういう悩み・嘆きを持つことが期待されている。そして、その悩み・嘆きにこそ「望み」がある。この嘆きこそが新しい世界を生み出して行く「産みの苦しみ」である。キリスト者は、この時代を神との関わり、神の戒めとの関わりの中で見る。隣人を神の恵みに与らせようとする。そこに嘆きがある。
 24~25節にもキリスト教信仰の核心に触れる言葉が語られている。信仰とは、見えないものを信じることである。4章ではアブラハムのことを「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ」た、と記している。われわれの救いは一途にこの希望にかかっている。言葉を替えて言えば、パウロにあって希望とは、神との関係に一途に立つこと、イエス・キリストに一途に立つことである。神の約束にひたむきに生きること、そこにしか希望はない。
 そして三番目のうめき・希望。驚くべき、もっとも神秘的なうめきである。つまり、被造物、キリスト者だけでなく、「聖霊」もまた呻いている。一体誰がこのことを信じることができるだろうか。しかし、キリストは天に挙げられるとき、弟子たちに「聖霊」を送ると約束された(ヨハネによる福音書14章15節以下)。従って、キリストに代わって、聖霊がわたしたちのために執りなしてくれることは、キリストご自身が約束されたことである。つまり、聖霊もまた呻くのである。祈ることばが出てこないわたしたちのために執りなしてくれるのである。

  最後に取り上げたい28節の言葉は、聖書の中でも特別 に慰めに満ちたものである。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。
 すべて神の家族の一員とされた者、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る者、神によって選ばれ召された者には、最初はマイナスと思われたこともプラスになるという約束である。注意したいことは、「益となる」という言葉である。これは、人間にとって利益となる、自分に都合が良くなることではない。「益」とは、「善」(アガソス)である。神の善、神の目から見てという意味である。神の側に目的があって召された者の意味であり、一人ひとりのキリスト者には、むしろ、現在の生き方が、つまり、御意思を尋ねつつ生きているかどうかが問われている言葉である。
 「信仰によって義とされた」われわれには、特別な「使命」が与えられているのである。その場合、一人ひとりが何をするか、「われら何をすべきか」も大切であるが、更に大切なことは、われわれは何であるか、という「自己認識」である。われわれは、「世の光・地の塩」である。わたしたちに本来相応しくない「栄光」を与えられた者として、わたしたちは今週どのような日を送るか、一人一人がそのことを明白にして、教会を去って行きたい。 

(2006年7月2日礼拝)

 
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