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2006年5月7日礼拝説教 【信仰の良き戦い 】南 吉衛
ローマの信徒への手紙 7章6~25節
 

 聖書は、わたしたちの生き方を問題にしている書物である。わたしたちはどう生きるべきか、生きたいと思っているか、そしてそれが本当に可能なのか。
 人間が生きるために、古くから様々な指針、道しるべがあった。聖書においてはそれは旧約以来「律法」である。律法の中には神の意思が書かれており、それが人間の生きる道であった。律法はさまざまな教え・規定から成り立っており、ユダヤ人たちは日々の生活の中でそれに従っていたし、子供の頃から学んでいた。申命記には、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」とある(6章6~7節)。更に新約聖書でも、「律法の規定どおりに」(イエスの両親は、イエスが生まれた時、神殿に捧げものをした。ルカによる福音書2章27節)とかの表現も多く、「律法には何と書いてあるか」とイエスも律法学者に質問している(同10章26節)。
 旧約聖書には、この律法、そこから生まれて来た種々の教え、戒めに従うことが聖書の神を信じる人間にとってどんなに幸せなことかが書かれている(詩編第一編など)。このように律法は生きるための道しるべであり、それを守ることによって祝福が得られたのである。ユダヤの民と律法との関係はそれほど密接であった。それは、少し単純化して言えば、律法を守り、守っていることを自負していた新約の律法学者やファリサイ派の人はもちろん、守れなくて、神殿から遠く離れうなだれていた徴税人にとっても、律法から容易に離れられないということでは一緒だった(ルカによる福音書18章9節以下)。
 このように、律法の意味は非常に大きく、それは一方で今日まで変わっていない。今日の聖書箇所には「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」とある(7章12節)。律法が形式化する問題も忘れてはならないし、イエスも批判しているが、それは律法を与えた神ではなく、それを守る人間の問題である。

 次に考えねばならない大切なことは、律法、その個々の戒めがわたしの中に眠っていた罪を呼び覚ますことである。7~8節「たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです」。「むさぼるな」との戒めは十戒の第10番目にある。これによってパウロは律法を代表させている。あらゆる種類の欲はむさぼりの一種である。創世記3章「エデンの園」の物語にあるように、それまで眠っていた罪が、蛇によってそそのかされて活動し始めたのである。たとえて言えば、律法は暗い部屋を照らし出す日光のような働きをするのである。暗い部屋では埃が舞っていても分からないが、日光が差し込むことによって埃があることが分かり、あたかも差し込んだ日光によって埃が一杯舞い上がって、動いているように見える。人間の中にあるさまざまな欲が律法によって動き出したようにみえるのである。 
 旧約の預言者エゼキエルは、神から「巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」との命令を受け(巻物とは神の言葉・律法)「わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」と言う(3章3節)。勿論そういうことがあったことは理解できる。しかし、律法は眠っていた罪を刺激し、その罪が、肉の人間を死に追いやってしまう。
 それはパウロも言っているように律法が悪いのではない。律法は霊的なものである(14節)。それは神から与えられたものであり、神的性格を持っているが、対象とする相手は人間であり、人間は肉的なものなのである。生まれながらに弱く、もろく、この世的にしか生きられず、神から遠く離れている。良い意味でも悪い意味でも、自分で働き・目標を決め、自分で生きて行くより他はない。しかしそれだからこそ、罪が働くのである。

 改めて「人間とは何か」と問わざるを得ない。15節がそれに対する一つの回答である。「わたしは、自分のしていることが分かりません。 自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」。
 つまり人間とは、その一部ではなく全体において、その中心において分裂しているのである。人間の心と体は分裂している。人間の特色は「生きたいと望むことである」と言った人があるが、その通 りには行かない。生きることを望み、それに値することを実行したいのであるが、思いと行動が一致しないのである。ここに人間の悲惨がある。そしてこの悲惨さを知っていることが人間の特色でもあり、他の被造物が持っていない偉大さでもある。偉大さが悲惨さと結びついていること、それが人間であることの特色でもある。
 15節は「長いキリスト教の歴史の中で、いかに多くの人の心を打ち、共鳴を与え、 悔い改めを迫り、また同時に慰めを与えて来たことであろうか。このような悩みや思いを抱かない人はないと言っても良い」と言われる言葉だ。わたしも、ロマ書全体の神学的思想がまだ十分理解できなかった青年時代から、この言葉に釘付けにされて来た。「どうしてあの時、ああいうことをしてしまったのだろうか。今だに理解できない」、そういう経験がわたしにも沢山ある。それは取り返しのつかないこととして生涯残っている。これは他の動物にはない人間だけが持っている苦悩である。そしてわれわれは、この問題・苦悩を単に理想と現実の違い、本音と建前の違い、あるいは人間の良心の問題と言って片付けられないのである。パウロと同じように(19節)「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」と告白しないではいられないのである。更に(20節)「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」と言わざるを得ないのである。
 つまり、わたしの中に、他者である罪が住んでいる。わたしは罪の住いであり、それが支配するところとなっている。勿論わたしの存在それ自身が罪である、と聖書は言っていない。その意味で「生まれて来て済みません」と言う必要はない。しかしわたしとわたしの肉の行為は完全に罪に支配されている、わたしは罪の支配に敗北していると告白せざるを得ない。人間は弱い存在であるとか、自分は意思が弱いといったことではなく、罪の奴隷となっている人間の現実。強い人・弱い人、信仰深い人・不信仰な人も同じである。

 だから最終的には、自分で自分をコントロールできないわたしは、(24節)「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と絶望的な叫びを挙げざるを得ないのである。パウロはこの叫びを、過去の自らの経験と結び付けて一回限りの叫びとしているのではない。自分一人の問題としてではなく、すべての人が認識すべき人間の現実の姿として理解しているのである。
 パウロは決してこのような叫びを挙げて、誰かの同情を買っているのではない。彼はこのような悲惨な叫びを挙げつつ、即座に「わたしたちの主イエス・キリストにあって神に感謝します」と言う。つまり、善を行いつつ生きて行きたいという思いはあるのだが、実際はその反対の生き方をしています。しかし、そのことを知らされたこと、そのことの悲惨さを知ったことは即、神の恵みを知ったことなのである。この悲惨さの認識は、神の恵みの大きさを知るために必要であったのである。
 律法、本来人間に命を与えることが出来るものが、その目的を達成することができない。そうなると、わたしは一体どこにわたしの救い、人生の目的を置けば良いか。それに対してパウロは、それは、イエス・キリストを通 して現された神の恵みを信じる以外にないのだと告白しているのである。
 イエス・キリストがわれわれのこの罪を背負って十字架にかかって下さり復活されて、この罪に、そしてそれがもたらす死に勝利して下さったことを信じること、それを生涯信じ通 すことが信仰の戦いである。
 24節と25節は不思議な糸で結ばれていると言える。人間的な絶望の叫びと神への感謝の間には、人間の方から登って行ける道はないのである。ただ恵みとして、そのような道が神の側から備えられるのである。奈落の底で、神の一方的な恵みが力強く働くのである。われわれはそれを感謝を持って受け入れる以外にない。そこでは人間は何も出来ないし、また何もしなくても良い。言葉を替えて言えば、すべてを神に委ねるのである。イエス・キリストにおいて示されたこの圧倒的な恵みに感謝する、それを生涯続けること、それがわれわれの信仰の戦いである。
 最後にもう一言。われわれは、今日の聖書箇所で、罪に苦しんでいるパウロを見なければならない。パウロの生涯は、「罪と戦い血を流す戦い」(ヘブライ人への手紙12章4節)の連続であったと言える。それはゲツセマネの園でイエスが苦しみもだえ祈っている時、「汗が血の滴るように地面 に落ちた」(ルカによる福音書22章44節)とある。あのような戦いをパウロも、生涯何度もしたに違いない。ゲツセマネの園の場面 の言葉を使えば、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(マルコによる福音書14章38節)のである。信仰者の戦いは、このことを知っている者の戦いである。今日のパウロの最後の言葉は、われわれを神への感謝に導くと同時に、感謝するからこそ、このような祈り、キリスト者の信仰生活の戦いの祈りに導くのである。
 神の前にどう生きるかが、信仰生活であるとすれば、今日学んだことは、まさに信仰の本質に関係することである。

(2006年5月7日)

 
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