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2006年3月19日礼拝説教 【讃美せよ 】西堀 俊和
詩編02編9~23節 ルカによる福音17章11~19節
 

 わたしたちは今、神を賛美するためにこの礼拝堂に集まっています。人間が神を賛美する姿は本当の喜びに満ちあふれています。
 主イエスはエルサレムに向かう途上で、サマリアとガリラヤの間のある村に入りました。そこで十人の重い皮膚病を患った人たちの出迎えを受けました。「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」(ルカによる福音書17章13節)。彼らは主から距離を保ったままで叫びます。人に近づくことが許されない彼らの辛い状況が表れています。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」(14節)。そんな彼らに主は答えられました。
 十人の叫びとイエスの答え。このやりとりには肝心な部分が抜けています。彼らはまだ癒やされていないのです。祭司の役割は、病が治ったかどうかを判定し、社会復帰を認めるか、追い返すかを命じるだけに過ぎません。しかしイエスの言葉によって十人は祭司のもとへ歩き出すのです。まだ自分たちに何が起きたのか判らないうちに、ただイエスの言葉だけを信じて駆け出す。この時点では十人全員に見るべきものがあると思います。
 彼らは、そこへ行く途中で清められました。その内一人だけが、大声で神を賛美しながら戻って来て、主の足もとにひれ伏し感謝しました。
 主イエスはそれを見て「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」(ルカによる福音書17章17~18節)と言いました。それはお礼を言ってこないのが不満だったのではありません。「神を賛美するために戻って来た者はいないのか」と言っているのです。
 彼がサマリア人だったことが、この時になって初めて判ります。それまでは傷が激しくて、何人なのか判らなかったのかもしれません。サマリア人はユダヤ人の敵です。この村にはそれまで常日頃、反目しているユダヤ人とサマリア人が共に暮らしていたというのは皮肉です。同じ病を負う悲しみが国の違いを超えて、彼らを一つに結びつけていたのです。しかしキリストの起こした出来事は結果 として彼らを二つに割りました。神を賛美する者としない者。ユダヤ人の敵、神の敵とまで言われていたサマリア人だけが、神の業を知り、神を賛美する者になりました。
 残りの九人について色々考えます。戻らなかった九人もまたイエスに感謝していたかもしれません。しかしその後、関係が切れてしまいました。イエスに癒され、社会復帰を果 たすことが出来、もう自分の力で生きられる、もう自分は一人でも大丈夫だと思ったのかもしれません。だからそれ以後、イエスとの関係を持とうとしなかった。礼拝する人にならなかったのです。神を礼拝する人、それは神との交わりに生き続ける人です。
 「後の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」(詩編102編19節)。
 主を賛美する。主を喜び、主との交わりに生きる。人間が創造された時、そのようなものでした。そして主を賛美することで、人もまた互いに愛し合い、平和に生きる者でありました。主を賛美する。そこに本当の人間の原点がある。完成された平和がある。聖書はそう断言して憚らないわけです。
 かつての十人は律法によって神の前に汚れた者とされ、人間社会にも見捨てられた者でした。それは悲惨の極みと言っていいでしょう。しかし父なる神は天から彼らの嘆きに目を注ぎ、彼らを救うために、イエスは彼らのもとにやってきた。こうしてただ嘆くことしか知らなかった人間が神を賛美するようになるためです。しかしその人間らしさを取り戻したのは、サマリア人一人だけで、九人はただ社会復帰を果 たしたに過ぎなかった。
 「シオンで主の御名を唱え エルサレムで主を賛美するために 諸国の民はひとつに集められ 主に仕えるために すべての王国は集められます」(詩編102編22、23節)。
 主イエスによって、サマリア人が礼拝する。主イエスによって世界中の人々が一つになって礼拝するようになる。これが終末の希望です。
 「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げて叫んでいた者が、大声で神を賛美しながら戻って来る。悲惨な嘆きは神を喜ぶ賛美に変わる。嘆きから賛美へ、死から命へ。神の業、救いの業とはこれです。神の国がそこに生きています。人が神の支配の内にある時、人は心の底から感謝して神を賛美するのです。かつて神の敵だった罪人も、国々も膝を屈め、諸国の民はひとつに集められ、主に仕えるために、すべての王国は集められます。
 「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(ルカによる福音書17章19節)。これは神を賛美する者に告げられる祝福と派遣です。
 サマリア人もまた他の九人と同じく社会へと戻って参ります。キリスト者であると否とに関わらず、人は自分の足で立ち上がり、社会生活へ歩みださなくてはなりません。しかしキリスト者は「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。この祝福と派遣によって遣わされるのです。主イエスが立たせてくださるから、キリスト者は立ち上がり、歩みだすことが出来ます。
 そしてまた神を賛美するために戻って来るのです。六日間の生活の後、礼拝の場へ、イエスのもとへ足を運んで来るのです。礼拝は神との生き生きとした交わりです。ここに集い、主の祝福と派遣によって社会に帰っていく、キリスト者の生活サイクルとはそのようなものです。
 「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか」。戻ってこなかった者たちへの主イエスの嘆きの言葉があります。神を賛美しようとしない者たち、それは癒やされたのに救いを拒否した人たちではないでしょうか。今日のお話は癒しと救いは違うことを物語っています。今どきの人は癒しを盛んに言うが、救いは言わない。神を賛美することを知らない。そこに人間らしさの失われた社会の病の原因があるのではないでしょうか。救いに与った人間は神を賛美し始めるのです。神賛美は造り主を覚えることであり、更にキリストによって神が父であると知り、喜び讃えるようになることです。そうして人は神に造られた者、更に大切にされた神の子としての「人間らしさ」を取り戻すのではないでしょうか。
 神を賛美すること、感謝を忘れているところに人間らしさが欠けていると思います。最も身近な話、日本人は感謝しないで食事をする人が大半です。食事とは犠牲になった命であり、感謝をもっていただくほかはない。しかし多くの人はこれを自分のお金で得た当然の権利だと思っている。だから感謝をしない。そこに際限のない贅沢を貪る罪があるのではないでしょうか。
 命は神によって造られ、キリストの犠牲によって贖われた、その恵みを知り感謝することなしに自分の命について知ることは出来ない。神賛美を知らないと、自分の命を捉え損なうのではないでしょうか。
 わたしも教職として立たされてもうすぐ十年目の歩みに入ります。その間にいろいろな人に出会って来ました。常々思い出すのは、以前はそうではなかったのに、神を賛美するようになった人々のことです。
 十年間の引きこもりの末、自分から教会に行きたいと言い出した青年がいました。彼は努力して教会にとけ込み、十年ぶりに友人を作り、洗礼を受けました。入学当初は聖書に何の興味も示さず、こちらの投げかけにも何ら聞く耳を持たなかったキリスト教学校の学生たちがクリスマスに、自分たちで聖歌隊を組んで、讃美歌を歌ったその声を今でも覚えています。精神的にトラブルを抱え、バランスを失っていたある女性は礼拝に繰り返し出席する度に自分を取り戻していきました。子育てに悩みを抱えた何人もの若い母親が説教にしがみつくように聞き入っていた姿を思い出します。子どもだって礼拝し、説教を聴きます。家に帰れば、ご両親に伝道します。地方で十人足らずの人数で礼拝し続けている群れがあります。その人たちの信仰に触れてわたしも立ち直った経験があります。日本伝道は困難だ、日本人でキリスト教を信じる人はいない、そう言う人に反論し続けてきました。神はこの日本でも礼拝する者を求めておられるではないか。
  その一方で、洗礼を受けたのに教会に戻ってこなくなった多くの人たちを思います。十人の内、一人しか戻ってこなかった。主イエスの嘆きは今日の日本の教会の嘆きに重なるような気がしています。
 しかし神は全ての民が「イエスは主」と告白し、父なる神をたたえる完成の日を既に決定しています。その「全ての民」の中に日本人はいると思います。
 私たちもまたこの礼拝から六日間の生活に旅立ちます。この間にまた苦しみを味わうかも知れません。しかし礼拝することが許されています。詩編の作者のように絶望の嘆きから神を賛美する信仰に立ち返る。キリスト者はこれの繰り返しを懲りることなく続けていいのです。
  「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(ルカによる福音書17章19節)。「あなたの信仰」とはあなたに働いた神様の恵みです。嘆きに満ちた状況の中に力を与えられて、また世の中へ自分の足で立ち上がり、歩みだしていきます。「神を賛美する」とは「神に栄光を帰す」ということです。自分自身や周りを見つめるなら、そこには愛がなく、絶望への嘆きしかないかも知れません。しかし栄光は主にある。あなたの信仰が、あなたに働いた神様の恵みがあなたを救った。主の栄光があなたを立ち上がらせる。だから立ち上がって生きなさい。この祝福と派遣に遣わされていく。ここでみな共に賛美いたしましょう。そして生活の中で神を賛美いたしましょう。

(2006年3月19日 夕礼拝)

 
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