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2006年3月12日礼拝説教 【神との平和 】南 吉衛
ローマの信徒への手紙 5章1~11節
 

 度々聴いて来たように、ローマの信徒への手紙の重要なテーマは、「神の義」であった。パウロは神の義は、「律法の行い」によるのではなく「信仰」によると述べていた。
 「信仰による神の義」、それは信仰によって「神の家族の一員」として頂くことであった。「律法」によって代表される自分の義、自分の功績・努力・力ではなく、一方的な神の恵みによってわれわれは神の家に招かれているのである。
 そのことは、当然喜ばしい結果を生んでいる。それは、われわれが「神との間に平和を得ている」(1節)ことである。今日の聖書箇所の後半の言葉を用いれば「神と和解させていただいている」のである。「神との平和、神との和解」そして六節以降の後半には、「神の愛」について語られている。これらのことが今日の説教のテーマである。
 平和は、平安とも訳されるが、関係概念である。われわれは複雑な人間関係の中で生きている。他人との関係がうまく行っている人は、それだけでも幸せであると言えよう。国と国との関係がうまくいかない場合も多々ある。一つの表れとして、世界に戦争の絶えることはない。
 神と人間との関係については、原初の状態では、創世記にあるように神と人間は調和の取れた関係の中にあったが、人間が神に背を向け、罪を犯すことによってそれは敵対関係になってしまった。しかし、イエス・キリストによる一方的な恵みによって神との関係が回復した。
 今日の聖書箇所は、神との平和、神との和解を得たキリスト者の生活について述べている。それは「希望」と深く結びついているという。5章1~2節「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」は、彼の現在置かれている立場を良く表している。「今の恵み」という言い方には、パウロの心の深い所から出ている「感動」さえ感じられる。何故なら、パウロが「今の」とか「今は」と言うとき、「以前は」そうでなかったという深い感謝の思いが表されているからである。神との関係について今は、平和と和解の関係にある。

 元々パウロは、かつてユダヤ教徒であった時から、「生きる」ことにおいて情熱的で、何事にも熱心であった。しかしそれは、今から思えば、「自分の義」の追求であった。努力し、力を発揮し、功績を積んで行く。その延長線上で、神に良しとされる、つまり神の恵みを得るという考えであった。そういう生き方の根底には、自分は「出来る」のだ、自分は「強い」という考えがあったに違いない。パウロは、そういう自分の努力、力、功績を「誇っていた」のである。しかし今は違う。そういう誇りが徹底的に叩きのめされたのである。パウロの言葉を使えば「取り除かれた」のである(ローマの信徒への手紙3章21節)。神の家に招かれた条件は、決して自分の行いが立派であったからではない。そうではなく、神の一方的な恵みによったのである。それは、自分のような罪ある人間を、その罪人のままで受け入れて下さった神の恵み・愛と言っても良い。そして今パウロは、この神の恵みに信仰によって導き入れられたのである。
 しかし、世界の現実は、イエス・キリストの十字架の死によって与えられた平和とは大きくかけ離れている。われわれはこの神との平和と世界の現実の緊張関係の中に置かれているのである。そこには苦悩が横たわっている。神が、以前は神の敵であったわれわれをイエス・キリストの十字架の贖いによって和解させて下さったのであるが、それはしかし、世界の現実が見える形で良くなったとか、ましてやキリスト者は、困難を避けて通 ることができるようになったことではない。そうではなく、われわれキリスト者が本当に「誇り」にすることが出来るものを見いだしたことである。それを今日の聖書は、「神の栄光にあずかる希望」と言い、そのような誇ることが出来るものを与えられたことが、神との間に平和を得たキリスト者の具体的な生き方に繋がって行くと言う。
 ここで、小さいことだが指摘しておきたいことがある。新約聖書の場合「誇る」は、「喜ぶ」と同義であることだ。つまり、「希望を誇る」は希望を喜ぶであり、苦難を誇るは、苦難を喜ぶことである。そして今日の聖書箇所で如何にこの「誇る・喜ぶ」が重要な言葉となっているかは、2節、3節、11節にこの言葉が出ていることからも理解出来る。
 信仰によって神との平和の状態に置かれたキリスト者は、誇るべきもの・喜ぶべきものを見いだしたということである。しかしそれは自分をではなく、神を誇ることである。わたしのような者が神の家族の一員であることを誇る。神がなされるすばらしい働きに、その業に自分も家族の一員としてあずかれることを誇る、喜ぶのである。それが「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」(2節)の意味である。神を誇るとは、神の栄光に、自分のような人間があずかれることを喜ぶことである。

  ここで、更に考えておかねばならないことは、神の栄光とそれにあずかる希望についてである。第一のことは、神の栄光は、将来の事柄に属することであり、今ではなく、将来キリスト者は、神の栄光にあずかる。神は、ご自身の栄光をこの世に対して今はまだ「隠して」おられるのである。それゆえ神の栄光にあずかること、それを誇ることができるのは、完全な形としては将来のことに属するのである。第二に、大切なことは、しかし将来に希望を持っていることが現在を豊かにすることである。その点では、「夢」にも同じような要素がある。夢は、確かに失望に終わることもあるが、現在を豊かにする面 がある。
 神との間に平和を得たわれわれが誇ることができるものが他にもある。それは苦難である。信仰を持って生きることは、希望の中に生きること、そして同時に、苦難を喜ぶ生き方ができることである。その理由は一言で言えば、どのような苦難であれ、その道を神が共に歩んでくれるからである。神が一緒に歩んでくれるから、その途上で持っている希望は決して失望に終わることはないのである。

 、われわれの人生の道が困難であることには変わりがない。しかし、そこでもう一つ約束されていることがあると聖書は言う。それは「聖霊によって神の愛がわれわれの心に注がれる」ことである。違った言い方をすれば、平坦な道であれば、神の愛が注がれているのが、われわれにはわからないであろうということである。ほかでもなく、苦難の道であるからこそ、神が聖霊によって、ご自分の愛を注いで下さることが、われわれ人間にわかるのである。神との間に平和を得ていることは、パウロの時代も、今の時代も、世界が平和に遠い状態にあるからこそ、われわれが苦難を与えられていることに意味がある。神は、こういう時代であるからこそ、愛をわれわれの心に注ぎ、この世のさまざまな苦難や誘惑に打ち勝つ生き方を望んでいるのである。
 神の愛はどういう方法でわれわれに示されたか、六節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」。「まだ弱かった」は、「今は十分強くなったが、かつては弱かった」という意味ではないだろう。人間が弱いということは、昔も今も変わらない。  
  8節「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。これら6節も8節も、神の愛がわれわれ弱い人間、罪ある人間に対してどんなに深く、広いものであったかを述べているのである。

 聖霊によってわれわれの心に注がれている愛は、このような内容の愛であるからこそ、われわれは、神の栄光にあずかる希望を持ち続けることができるのである。そして、日常生活で起こって来る数々の苦難を乗り越えて行くことも出来る。すべて、神の愛がわれわれに注がれているからである。神はイエス・キリストを十字架に送ることによって、本来罪の故に死に値するわれわれを受け入れ、赦して下さったのである。かつて敵であったわたしたちと神は和解して下さり、ご自分の家族の一員として下さったのである。そのこと、その感謝と喜びが、今のわれわれの生活に影響を与えない筈がないのである。
 今日の聖書のテーマ、それは結局「キリスト者の生き方」であった。新共同訳聖書の小見出しは「信仰によって義とされて」であるが、そこからわれわれはどうするかである。自分はどう生きて行くのかである。キリスト者を特色づける言葉があるとすれば、それは一言で言えば、どういう言葉か。それは「誇る、喜ぶ」という言葉である。誇るもの、喜ぶものを知った、見いだしたことである。それは神である。神の栄光である。自分のことではない。そして、その神は「平和の神」である。
 しかし、現実は、神の平和に遠い。その緊張関係、矛盾の中にわれわれは生きている。従って、平和にほど遠い、現代という時代が抱えている苦悩に係わることがわれわれの生き方となる。苦難を誇る、喜ぶこと、それは確かに矛盾したことであるが、われわれキリスト者の生き方の特色である。
 苦悩は誰もが避けたいものである。しかし、この苦悩の中にこそ、神の栄光が表される。神の愛がわたしたちの心に注がれる時である。それにあずかることが、具体的なわれわれの喜びとなる。そこに希望がある。希望とは、神の愛によって、われわれのうちに善き業を始められた神がこれを全うして下さることへの期待である。わたしのような人間が神の栄光にあずかることができるという希望を最後までもつことができるということである。その期待・希望は、裏切られることがない。 今、受難節の最中、苦難の中に生きたキリストを仰ぎたい。

(2006年3月12日 礼拝)

 
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