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2006年1月1日礼拝説教 【見放しも、見捨てもしない神】南 吉衛
ヨシュア記1章1~9節
 

 新しい年を迎え、わたしたちの目は、過去ではなく、将来に向けられている。与えられた聖書箇所も、ヨシュアが将来に向かって歩もうとしている場面 である。彼は、約束の地に入ることが出来なかったモーセの死後、その後継者に選ばれた人物である。ヨシュアとは「ヤーウエは救いである、主は救い」の意味のヘブライ語で、ギリシャ語のイエスに相当する。彼は主から「ヨルダン川を渡れ」(2節)という命令を受けている。それは、そこを渡って「わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地」に入る約束と切り離すことができない。ヨシュアは神から命令と約束を受けたのである。しかし、その命令に従い、約束の地に入るのは簡単ではない。
 今日のヨシュア記、続く士師記、サムエル記などは、いわゆる申命記記者の執筆であると言われる。基本的には、ヨシュアへの命令は、紀元前六世紀、イスラエルの民すべてに命じられた「律法のすべてを忠実に守るように」との枠組みの中で語られている。イスラエルは当時、神の戒め・律法を守らなかったが故に、民族的な悲劇、バビロニア捕囚を経験せざるを得なかった。今こそ、律法を守り、「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさむ」(8節)ことが求められている。ヨシュアに与えられた命令は、民族の存続に関わることであったが、基本的には、神の戒めを忠実に守ることであった。申命記の精神である。
 「わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する」(7節)と語られているが、これは「商売に成功する」とかの失敗・成功のことではなく、むしろ「祝福される」意味で、詩編一編の「繁栄する」、祝福を受けることである。
 具体的にヨシュアに与えられた使命・命令の遂行のための土地は、確かに「神が与える」土地であるが、そこには先住民が住んでおり、彼らとの血なまぐさい「戦い」が前提となる。ヨシュアは、戦争の前線に立つことになる。神はヨシュアに向かって、「わたしは、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない」と語っている。当時のイスラエルにとっては神の救いは具体的な形を取った。それは賜物であって、約束の土地を、戦いを通 して与えられた。
 「神に見放される、見捨てられる」ことは、民族としても個人としても大きな問題であった(詩編二二編、イエスの十字架上の祈り「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか…」。詩編38編22節、27編10節、ヨブ記19章14節参照)。
 今日の聖書箇所に「強く、雄々しく」が、三回も出てくる。これは、「行く手」には、「立ちはだかる者」(5節、史実の理想化)が多く、「うろたえ、おののく」(9節)理由は沢山あったに違いないからである。
 しかしここで注意すべきは、「見放すことも、見捨てることもない」と約束している神が、「強く、雄々しくあれ」と命じ勧告していることである。ヨシュアは、この神の真実に、彼の側の信実を示さねばならなかった。具体的には、神が示して下さった道(律法に書かれていること)を右にも左にもそれることなく、忠実に守ることであった。
 元々強い人にもっと強くなれと言っているのではない。性格的に弱い人、人の前で話したりすることの苦手な人に、そんなことではだめだ、もっとしっかりしなさい、と命じているのでもない。「男らしく」でもない。われわれが生まれながらにもっているものを奮い立たせようとしているのではない。そうではなく、神の真実に対する人間の服従が求められている。一歩前に出る「行動」が求められている。
 ヨシュア記六章にはエリコを攻める話があるが、そこでは戦争に優れた指導力が求められているのではなく、神の命令に従うかどうかである。エリコを攻略し、得た土地を分配することが「神の御意思」であることを、堅く信じることが求められていた。詩編記者が語っている通 りである(27編1節)。
 そもそもわれわれが神の委託に答え、教会の使命を果たすことは、人間に与えられた力を超えている、更に人間の考えを高く超えている。本来、教会への委託は人間の思い・考えを超えている。「神の道と神の思いは、人間の道と思いを高く超えている」のである(イザヤ書55章9節)。従って、ヨシュアにしろ、われわれにしろ神の委託に応ずることができるのは、ただ神の呼び掛けがある場合、それに聴き従う時だけである。
 今朝2006年の最初の日、わたしたちは以上の聖書の言葉を聞いた。ヨシュアは未知の土地に、神の命令に従い約束を信じて歩み出している。神が彼を「見放すことも、見捨てることもしない」ことを信じつつ彼は一歩を踏み出そうとしている。われわれにとって、この命令と約束は具体的にどういう形を取るのであろうか。われわれにとってヨルダン川の向こうは、どこだろうか。「強く、雄々しく」あらねばならない場所はどこだろうか。
 その場合、これから進むべき道は、過去の出来事とまったく関係ないとは言えまい。われわれは会堂を与えられ、パイプオルガンも設置された。受洗者が与えられた。われわれの「怠慢」にも関わらずである。しかし、そこに留まっていて良いことではない。大切なことは、信仰によって、かつてアブラハムもそうであったように、そして、今ヨシュアがそうであるように、われわれも未知の地に向かって第一歩を踏み出すことである。
 しかしそうだからと言って、営業マンが未知の市場を開拓するように、二人又は三人の組になって教会を出て行きなさい、と言われているのでもない。その意味であれば、われわれは、新しい年の朝、既に個人的にも重い問題を抱えており、将来に対する不安も大きい。ある方は、愛する人を亡くした悲しみ・喪失感からまだ立ち上がっていない。年を重ねたことにより、精神的にも、肉体的にも衰えていることが自分の今の一番の悩み、課題であるという人もあろう。これらのことは事実そうである。
 総じて言えることは、新しい年2006年は、われわれ一人一人にとっても、教会にとっても何か「抽象的な」年ではなく、具体的な問題・課題を既に抱えた年である。確かに、既に触れたように、ヨシュアに託された委託、すべてがそうでなかったにしろ、血なまぐさい戦争と、先住民を追い出して、自分たちが、その土地を得ることが神の救いの具体的な業であることは理解しがたい。その通 りである。しかし、聖書は、それだから、神の戒めを、精神化し、心の問題として内に秘めておけば良いとも言っていない。
 旧約聖書、モーセの律法を通して語られたことは、イエス・キリストにあって、神の国における出来事として、神の国における約束として、今日語られているのである。ヨシュアがヨルダン川を渡ったことは、どこか遠い国で起こったことのように聞こえるかもしれないが、今も、神が生きて働いている所、キリストが働いている所では起こっているのである。ルカによる福音書で、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われている通 りである(17章21節)。それはどこか遠い国にあるのではない。あなたが今「立っている場所」「抱えている問題」、そこが神の国の出発点、いわば「門」である。あなたはそこから出発する。それ以外にないのである。
 同時に、その直前のイエスのことば「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」(ルカによる福音書17章20節以下)を忘れてはならない。つまり、神の国は、神が支配しておられることの具体的な姿であるが、人々が考え想像しているような形、われわれの目に見える形は取らない。或は、現在はまだ「完全な姿」を取っていないのである。その完成は、将来に待たねばならないが、そのことは、既に「始まっている」のである。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」と言われている通 りである(ヘブライ人への手紙11章1節)。
 救い主イエスが、豪華な宮殿や立派なホテルではなく、みすぼらしい家畜小屋に誕生し飼葉桶に寝かされたように、今日的な、イエス・キリストにおける神の救いの業はそのような形を取るのである。
 従って、「神は、あなたを見放すことも、見捨てることもしない」という今日の聖書の言葉を、文字通 り、神の言葉として聴くことが許されるのである。事実、神は、状況が不確かであればあるだけ、何時もどこに行っても共にいて下さる、一歩一歩共に歩んで下さるのである。その意味でヨシュアは、彼を強め彼を慰めて、そして将来に対して開かれている神の言葉を聞き続けたのである。それはヨシュアだけではなく、イスラエルの全ての人々も同じであった。だから、今日の新約聖書箇所(マタイによる福音書1章23節)にあるイエス・キリストの誕生の時の、インマヌエル(「神はわれわれと共におられる」)の言葉が重要になってくるのである。
 旧約の民、具体的には、申命記の記者にとって、未来、ヨシュアがこれから入って行こうとする約束の地は選択を迫られる場でもあった。唯一の真実な神と偶像の神、従順と不従順、祝福された生活と滅びに至る生活との間の選択であった(24章14~15節)。
 2006年。確かに今始まったばかりで不安で一杯の面はある。しかし今日の聖書が語っていたことは、「神が共にいます(インマヌエル)」から心配は要らないことであった。われわれへの約束は、「ヨルダン川の向こうの土地」が具体的な救いのしるしとして与えられることではない。そうではなく、すべての人が敵・味方に関係なく、「神の国」に招かれていることである。更に言えば、明日のことを思い煩うことなく、「何よりもまず、神の国と神の義を求めること」、そういう生活へと招かれているのである。しるしとして既に始まっている「神の国」に更に一歩を歩み出すことである。「神の国」、「神の支配」を――この世は、今わたしが立っているこの場所は、暗黒や悪魔が支配しているのではなく、神が支配していること――を「証し」することである。その年としてイエスの生誕から2006年目の新しい年は始まったのである。

(2006年1月1日 礼拝)

 
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