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2005年12月24日クリスマスイブ礼拝 【ザアカイのクリスマス】西堀 俊和
ルカによる福音書 19章1~10節
 

 ザアカイは徴税人のかしら頭でした。イスラエルの都エルサレムにほど近いエリコの街に暮らしておりましたが、街の人々からは大変嫌われていました。金持ちでしたが、心許せる友だちなどいない、大変孤独な人でした。しかしそれは自分で選んだ道でもあったはずです。徴税人とは、誰かに強いられて就くような仕事ではありません。その資格は金を出して買うものでした。何と言っても高収入が見込まれるわけです。ザアカイはユダヤ人でありながら、徴税人という宗教的にはアウトローの立場をあえて選んだ。罪人と見なされるのは不本意ではなく、承知の上だったわけです。

 これは想像でしかないのですけれども、彼はエリコの街で幸せに育ってきたわけではなかったのです。彼は背が低かった。昔から人々に見下されて育ってきた。神の祝福を受けながら人を見下す「アブラハムの子ら」ユダヤ人の冷たさを身に染みて生きてきたのではないでしょうか。「アブラハムの子なんてろくなもんじゃない。俺は金の力にものを言わせて、あいつらを見下ろしてやるんだ」。
 そしてザアカイは徴税人の頭に上り詰め、金持ちになりました。自分の願望を達成したのですから、人生の成功者です。しかし人々には嫌われる孤独な毎日。エリコの人々は彼を愛さず、彼もまたエリコの人々を愛さなかった。彼はそれで良かったのです。

 そんなある日、エリコの町に、噂が流れました。何やら偉大な預言者が来るらしい。その人は神の子と言われ、病人を癒し、足の不自由な人を歩けるようにし、そして嫌われ者の徴税人とさえ共に食事をしたという噂もある。
 そして遂に噂の預言者がやってきた。彼の行く道を大勢の群衆が取り囲んでいました。ザアカイもその中にいましたが、背の低い彼はなかなか見ることができません。群衆はわざと背伸びをして嫌がらせをする。
 そこでザアカイは先回りをし、いちじく桑の木に登りました。いい年をした大人が木に登るのはみっともない姿ではあります。人々は彼をあざ笑ったでしょうが、彼はそんなこと気にしません。金だけが頼りと信じていたザアカイが、何故か異常な熱意をもって預言者、イエスを見たがったのです。
 ザアカイの待つ木の下を通ったイエスは上を見上げて声をかけました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。

 イエスとザアカイはもちろん初対面です。ザアカイはイエスを木に登るくらい熱心に見たいと思った。しかし友達になれるとは思っていませんでした。彼は神の祝福を拒絶し、人を愛さず、愛されもせず、金の力だけを信じて生きてきたのです。しかしイエスはザアカイの名前を知っていたのです。そして声をかけてきた。名前を覚えることは友だち関係の第一歩です。イエスはザアカイと関わりを求めてきたのです。
 この「ぜひあなたの家に泊まりたい」とはかなり強引な言い方です。「あなたの家に泊めてもらっていいですか」ではない、「わたしはあなたの家に泊まることになっている」という言い方です。イエスはザアカイの家に泊まる。これは神が既に決めたことだ。そういう言い方です。
 図々しいと言えば、図々しい。神の子は図々しく、皆から敬遠された者の家に泊まりたがる。皆さんはザアカイの家に強いて泊まりたいと思うでしょうか。わたしはいやです。彼の家に泊まって何か楽しいことがあるでしょうか。彼が知っているのは、金を儲ける方法、人を出しぬ く方法も知っているかも知れない。一晩中、聞かされるのはそんな話ばかりです。  しかしザアカイの世話になることを望んだイエスの強引さ、神の図々しさが、ザアカイに喜びを与えました。ザアカイの殺風景な家に、ザアカイの荒んだ心に、人を愛さず、愛されもしない人生に、イエスは図々しく、上がり込んでくる。ザアカイは急いで降りて来て、イエスを迎えた。

 人びとはびっくりしました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」。イエスともあろうお方が、こともあろうにザアカイの家に自ら泊まりたいと言った。人びとの驚き、躓き、そして「何故わたしの家には来てくれないんだ」というねたみがありました。
 神がアブラハムを選んだように、イエスがザアカイを選んだ。彼はこんな事を口走りました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します」。ザアカイの中に何かが起こりました。イエスを「主」と呼びました。ザアカイにとってイエスはもはや他人ではなく、主キリスト、従うべきお方でした。そして新しい生き方を主の前に誓いました。主よ、ご覧ください。わたしは誓います。「財産の半分を貧しい人々に施します」。それは彼が今までこだわってきた財産への執着を捨てること、そしてこれからの彼にとってお金との関わりは重大な課題であることをも表しています。そして今まで彼が見てこなかったこと、隣人に負わせてきた痛み、隣人を愛することの大切さが見えてきたのです。
 「また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」。彼はローマの法律に従って徴税人の仕事をし、税金の上乗せをしていたのであって、不正な取り立てをしたことはない、貧しい人がいくらそれで苦しんだとしても、間違ったことではないと思っていたかも知れません。しかし神の前にはだまし取る罪、隣人の家を貪る罪を犯してきたのかも知れない。主よ、わたしは誓います。もうそのような生き方を致しません。ザアカイの中に新しい心が活き始めたのです。それは神と人と自分自身がわかることでもありました。
 イエスの強引な訪問はザアカイの中に新しい心を造り出しました。イエスはザアカイに「徴税人の仕事を辞めろ。罪を犯すな」とは一言も言っていません。しかしザアカイに悔い改めが起こりました。悔い改め、神への立ち返り。それは神が、そしてイエスが罪人の家にどうしてもあなたの家に泊まりたい、泊まることになっている、と言い出したことから始まるのです。
 この悔い改めに、イエスの喜びがありました。ザアカイの喜び以上にイエスは喜ぶ。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。
 こうして救いが訪れた。彼は失われたアブラハムの子であったが、神の祝福を捨て、祝福から遠いところに行ってしまった。人を見失い、そして神を見失い、自分自身をも見失っていた。大変な重荷を背負って苦しんでいたのだ。しかし救いがこの家を訪れた。ザアカイは神に取り戻され、アブラハムの子に戻った。イエスの喜びがそこにありました。わたしはそのために来たのだ。失われた罪人を取り戻すために。わたしが来たのは無駄 ではなかった、と。

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。わたしたちもまたイエスのもとに降りるのです。神は天高く、いくら背伸びをしても届かない天にいます。しかし神の子は低い場所にお生まれになりました。ベツレヘムの馬小屋、その飼い葉桶の中に乳飲み子イエスは眠る。そして人間の最も低いところ、十字架の死に赴き、人々を罪の重荷から解き放たれました。イエスのもとに降りる。それは豪華で高い場所を見ることではなく、貧しい飼い葉桶に眠る神の御子を拝みひれ伏すことです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい」。わたしたちも急いで降りましょう。そして飼い葉桶に、十字架にひざまずくのです。そこにクリスマスの意味がある。
 クリスマスとは何でしょうか。クリスマスは「キリスト礼拝」という意味の言葉です。救い主がわたしたちの中にお生まれになった恵みを感謝する日です。
 「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」。この「今日」という日は間違いなくザアカイのクリスマスでした。イエスは彼の名を知っており、彼の淋しい家にどうしても泊まりたいと願い、ザアカイは迎え入れ、そこに救いという新しい出来事が起こりました。

 イエス・キリストは失われたものを捜して救うために来たのです。「失われたもの」とは神様から離れて罪にあるわたしたち全てのことです。イエスは復活し、今も生きておられます。神のもとから失われた者たちを今も熱意をもって捜しています。その人の名前を知っており、呼んでおり、救いにいれられることを望んでおられます。アブラハムの子、神の子として迎えられるためです。わたしたちに「神と人と自分自身を知る」新しい心が生まれるためです。その救いが訪れる日。それがクリスマスです。

 ザアカイのクリスマスは昔の話です。みなさんのクリスマスはいつでしょうか。それは今日ではないでしょうか。救い主があなたのもとに訪れ、どうしてもあなたの家に、心に住みたい、いや住むことになっている、だから心のドアを開けてくれ。そのように強引に迫っている。それは今日ではないでしょうか。主イエスをお迎えください。あなたのクリスマスをお祝いください。

(2005年12月24日 クリスマスイブ礼拝)

 
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