「五千人の食事」に集う人々の姿は、教会の姿としてふさわしいものであると思います。真ん中にはイエスがいます。老若男女さまざまな人々が集っています。その人々というのは、「イエスが病人たちになさったしるしを見」て後を追ってきた、イエスに救いを求めて集まってきた人々に違いありません。また彼らは、決して豊かではなかったと思われます。食べるものも持ち合わせていなかったのですから。ところが、彼らがもてるごくわずかなもの、あの少年のパンと魚を分け合ったときに、イエスはこれを豊かに用いてくださった。・・・それは、そのまま今日、教会に集っている私たちの姿です。私たちもまた、イエスによって、この喜びの食卓に招かれているのです。
ただ、この喜びの出来事は、突然幕切れとなりました。人々はイエスの行ったしるしを見て「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは人々が来て、自分を王とするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりで山に退かれたのです。人々は、イエスが、ほんの少しの食べ物を用いて豊かに養ってくれたので感激し、この人を王とすれば、パンでもなんでも自分たちの欲しいものは望み通
りちゃんと与えてくれる、そう思ったのです。しかし、それは決してイエスの望むところではありませんでした。
確かにイエスはパンと魚で大勢の人々を養いました。その業を通して人々が悟らなければならなかったことは、イエスは一体誰であるかということです。今日の箇所の少し先、6章35節には「わたしは命のパンである」というイエスの言葉が記されています。私たちの体にパンをはじめとする食べ物が必要であるように、私たちの魂に、また命そのものに必要であるもの、それがイエスなのです。イエスはそのようにして、私たちを養ってくださる方であるからこそ、人々を深く憐れんで、肉の糧をも与えてくださったのです。ところが人々はパンが増えたということに目を奪われて、今自分たちの目の前にいる方が一体何者であるかを見抜くことができなかったのです。
確かにイエスは彼らが考えているような王ではありませんでした。彼らが考えている王というのは、結局のところ自分たちが必要と考える要求を満たすために働いてくれる召使に過ぎません。そのような思い違いをするときに、イエスは身をスルリとかわして出て行かれるのです。
イエスは人々の誤解の中を立ち去っていきました。そこから弟子たちが舟に乗って湖をわたる出来事がはじまります。私はこの出来事は一続きの出来事の第二幕であると考えます。
イエスと別れた弟子たちは夕方になったので、湖畔まで降りて行って舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとしました。そこで「イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった」と言われています。まさに、彼らはイエスが共にいない暗闇の中を船出しなければならなかったのです。
舟がガリラヤの湖のほぼ真ん中に来たころ、強い風が吹いて湖は荒れはじめました。もはや、行くことも退くこともできない、進退きわまったそのとき、イエスが近づいてきました。イエスはただ一言「わたしだ。恐れることはない。」と言いました。「わたしだ」というのは「わたしはある」という意味の言葉です。かつて、燃える柴の間からモーセに語りかけた神が用いた「わたしはある。わたしはあるという者だ」という自己紹介の言葉を連想させます。つまり、イエスは真の神にほかならないと言ったのです。
死の恐怖に凍りついているものにとって、これほど心に響く言葉はありません。暗闇の中、神などいないはずの場所で、それでも神は共にいる、イエスにおいて主なる神は共にいるという言葉を聞いたのです。それは、あらゆる奇跡にまさる救いの体験でした。ここでの問題は、風が静まるということではありません。湖の上を歩くということでもありません。暗闇の中でイエスと出会い、そこに真の神の姿を見たことこそ、まさに救いの体験として語らずにはおれなかったことなのです。
マタイによる福音書やマルコによる福音書は、この出来事の最初で、イエスは「弟子たちを強いて舟に乗せ」て出発させたと伝えています。弟子たちは五千人の食事の奇跡の場所に居続けてはならなかったのではないでしょうか。それでは、物質にだけ目を奪われて、結局はイエスを都合よく利用できる王くらいにしか捉えられない、そういうところにとどまってしまうからです。パンの出来事以上の恵みの体験をさせるために、すなわちイエスが誰であるかもっとはっきりと知らせるために、イエスは弟子たちをあえて彼らだけで船出させたのではないでしょうか。
ところで、湖とはいったいどのような場所でしょうか。聖書ではしばしば山は神との出会いの場所、そういう意味で特別
な場所として語られます。それなら、山から降りたところ、闇の覆う湖は、世俗の世界、日常の世界と見ることができるのではないでしょうか。私たちは、この礼拝が終わりますとそれぞれの日常の場に帰っていきます。明日からは日常の家庭生活、労働生活、学びの生活が、再び始まります。そこでは喜ばしいことも、楽しいこともありますが、いつも順風満帆とはいかない、逆風が吹き荒れることもあるのではないでしょうか。そこは確かに、神の姿をはっきりと認めることは困難であり、恐れと不安を感じる場所であります。しかし、そこでこそ、永遠の命そのものであるイエスと出会うことができるのです。イエスもまた、十字架へ続く、苦難の道を歩まれたのですから。
つまり、教会でイエスに養われ、イエスとの交わりに生きる者は、この世へと、日常へと押し出されていくのです。そして、神なきかに見えるその場所でこそ、イエスが誰であるのかいっそう深く、真実に知らされるのではないでしょうか。そこには確かに苦難があるけれども、私どもが勝手に思い描くものとは異なる、真の王としてのイエスの姿に触れさせていただくことができるのです。
これは一人一人の信仰者だけのことではありません。実は、ここに登場する舟は、しばしば教会を表すものとして語られてきました。教会は確かに、イエスによって永遠の命に養われつつ、世の闇の中に押し出されていく群れなのではないでしょうか。教会そのものが、この世の只中で働かなければならないのではないでしょうか。
私たちの周りには、確かに闇のような世界が広がっています。私たちの国と時代に固有の闇をいくつか挙げるなら、たとえば、厳しい経済状況の中で、勝ち組と負け組がはっきりと分化していることが挙げられるでしょう。このような経済的な理由や、あるいは孤独から、年間三万人を超える人々が自ら命を絶っています。
2001年9月11日以来、やられたらやりかえすことが当然のようになされてきました。そのような中でイラク戦争がはじまり、これまで民間人が三万人、米軍兵士も二千人以上が死んでいます。ここでも多くの命が損なわれています。そして、そのような場所に日本も自衛隊の派遣を続け、命を損なう動きに荷担しているのです。私たちは明らかに戦時下を生きているといわざるをえません。
実に世の闇は深い、ますます深まり行くようにさえ感じます。イエスは弟子たちをあの五千人の食事のいわば華々しい奇跡の場所から、暗闇の支配する湖へと送り出されました。そのように教会という舟に乗り合わせた私たちをも嵐に翻弄される場所へと送り出されるのではないでしょうか。そこにこそ、十字架の苦難の道を歩まれた主イエスに従う道が備えられているのではないでしょうか。そう考えると、私たちが闇の中で、嵐に翻弄されるように世の人々と一緒に悩み苦しむことは、決して不信仰なことではありません。教会は最初から何か正しい処方箋を持っているわけではありません。だから、正義を行おうとするならば、右往左往することにもなるでしょう。しかしそれはむしろ信仰的なことなのです。そして、時に世の多数派の人々から疎まれるのも必然なのではないでしょうか。
今年6月6日、旭川で行われた政教分離を守る北海道集会に出席しました。旭川では護国神社の例大祭の時期に合わせて、政教分離を守る集会が毎年行われています。今年の講師は哲学者の高橋哲哉さんでした。この高橋さんが、講演の最初に引用したのは、内村鑑三の文章でした。1891年、教育勅語に最敬礼しなかったというので、当時勤務していた第一高等中学校を追われることになった、いわゆる不敬事件から半年ほど後、友人あてに書いた手紙です。「僕ハ理解セザルベカラズ、政治的自由ト信教ノ自由トハ如何ナル国ニ於テモソノ献身セル子等ノ間ニ何カカゝル試練ナクシテハ購ハレザリシコトヲ、」・・・・
高橋さんは、信教の自由を獲得することの本質をはっきりと語った日本ではじめての文章としてこれを高く評価しました。しかし、実は私がこの文章以上に深く感動せざるを得なかったのは、この文章に続く一文でした。「而シテ僕ハ神ガ僕ヲカゝル重荷ヲ担フタメニ選ビ給ヒシコトヲ感謝スベキナラズヤ!」
つまり、この重荷を担うことは、神から自分に与えられた使命だというのです。私は、内村鑑三は、苦悩の中で神と出会い、神の召しの声を聞いたのだと理解します。
私たちが、今、主の体によって養われつつ、この闇が支配するような時代の只中で、宣教に励むこと。主の平和を作り出すために働き、神の国のしるしをたてること。これは神が私たちに与えられた使命ではないでしょうか。イエスは強いて私たちをそのような場所に押し出されるのです。その中でこそ、主イエスは「わたしである。恐れるな」と声をかけてくださいます。そこで出会って下さいます。真の王としての姿をはっきりと見せてくれます。それだけでない。私たちに伴ってくださいます。自らの身を裂いて、私たちを養われる主は、私たちを導いて下さいます。
今日の聖書箇所は「すると間もなく、舟は目指す地に着いた」という言葉で締めくくられています。暗闇の中、どんなに困難と苦しみにあえいでいたとしても、主イエスは目的の地に導いてくださる。そのときは間もなく、いや、すぐに来る。私たちはそのような確実な希望によって歩むことができるのです。
(にしおかひろよし。出身教職。 2005年11月20日特別
伝道礼拝)
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