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2005年9月4日 礼拝説教 【狭き門への招待】西堀 俊和
ルカによる福音書 13章22~30節
 

 「教会の敷居が高い」とよく言われます。「教会の敷居が高い。何か入り辛い雰囲気だ」。そう言われると、教会の人たちは心を痛めて、誰もが気軽に教会へ集まるようになるためにはどうしたらいいだろうかと考え、アットホームな雰囲気を造り出し、教会の敷居を低くしようと努める。
 また説教も説教で、学者の世界でしか通じないような用語はなるべく避けて、世の中の人たちとの共通 の言葉を用いるべきだ、とも言われます。誰もわざと難しい言葉を選んでいるわけではなく、伝えたくないわけでもない。だからなるべく用語を世の中の人々の使っている言葉に置き換えて話してみようと努力してみるわけです。
 しかしそれでも、どうがんばってみても、取り除けない「敷居の高さ」、また「門の狭さ」があります。もし取り除いてしまったら、本質を見損なってしまう。どうしてもこれだけは他に置き換えることが出来ない言葉がある。その最たるモノが主イエス・キリストの十字架と復活の秘密ではないでしょうか。
 まさに「狭き門から入りなさい」。教会員は勿論のこと、初めて来られた方、求道中の方々でも、ここだけは聞いたまま受け入れていただく他はないものです。確かに難しいし、受け容れようにも理解しがたい言葉です。しかし取り除くわけにはいかない敷居の高さ、狭き門そのものである主イエス・キリストの十字架と復活の真理をすすんで受け入れてください、とお勧めする他ないのです。神の国に通 じる門はここにしかないからです。
 「狭い戸口から入るように努めなさい」。この「努めなさい」とは「戦いなさい」という強い意味を含んでいます。狭き門に入る努力をし続けなさい。それは戦いである。それほどに厳しいことなんだ。避けないで、嫌がらないで、この狭い門から入るように戦い続けてください、と言いたいわけです。

 今日の聖書、冒頭には「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた」とあります。イエスの旅がエルサレムを目指すものであることはルカによる福音書、特に9章51節以降で明確に出されています。エルサレムは十字架、そして復活の場所です。それが果 たされなければならない。主イエスはその決意を抱き、旅を続けていた。今日のお話もその旅の途中にあった出来事として伝えられている。
 そもそもの発端は、立ち寄ったある村で、ある人が「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と質問したことから始まっています。彼は何故こんなことを聞いたのでしょうか。聖書注解書の類には、彼は救いに入れられた神の民の一人として質問したのだ。彼には選民意識があり、未だに救いに入っていない異邦人に対しては優越感を抱いている。救われる者が少なければ少ないほど自分の受けている救いが尊いものに感じられるから、こんな事を言ったなどとありました。
 しかしもしわたしが「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねるとしたら、自分が救われていることに確信が持てないからではないかと思います。イエス様の発言、特に救いにまつわる話には一見、(一見です)難しいことを要求する言い方が多い。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(9章24節)「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。それから、わたしに従いなさい」(18章22節)などと言った言葉に触れると、主よ、あなたにはとてもついていけません。一体、あなたの要求に応えることなど誰が出来るでしょうか。「それでは、だれが救われるのだろうか」(18章26節)「救われる者は少ないのでしょうか」と聞きたくもなるわけです。

 逆にわたしが質問される立場なら、「いやそんなことはありません。神さまはみんなを愛しておられ、あなたもきっと救われます」などと答えるに違いないが、当の主イエスの答えは「狭い戸口から入るように努めなさい」であり、また「言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」というものでした。
 「入ろうとしても入れない人が多いのだ」とは「入ろうとしても、入れなくなる人が多いのだ」と読んでもいい。問題は今、門の内に入っているかどうかより、やがて終わりの日に入れるかどうかである。狭き門とは入るのにとても狭く、しかも時間的余裕もあまりない、そういうものなんです。
 「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。それが傲慢な選民意識から出たにせよ、救いの確信が持てないで、弱気になって言ったにせよ、答えは「狭い戸口から入るように努めなさい」なんです。ある者は既に救いの門に入ったつもりでいる。しかし実は入っておらず、これから入るために努力しなければならないことに気付かされるのであり、門のあまりの狭さに弱気になって立ちつくしている者にも、切迫した状況を知らせ、入るための戦いへと励まし、促すのです。
 そこでイエスはいつものように、たとえを語り始めました。今は開かれた門もその時が来たなら閉じられ、もはや開かれることがないという。この家の主人とは主イエスご自身です。そしてたとえの中の門から閉め出された人々が「あなたがた」とされています。このたとえはあなたがたのことなんだ、そうはっきり言われている。
 門から閉め出され、もはや開けてもらえず、従って滅びが決定してしまった「あなたがた」とはどんな人々でしょうか。以前は主人であるイエスとつきあいがあったのでしょう。以前は御言葉を聞いたことがあり、共に食卓に着いたことさえあるのです。イエスと関わりを持ち、神に知られていたはずだったのです。しかしまだ門の外にいて、時がきて門は閉まる。その時彼らは交わりから外される。神に知られていたはずの者が、神に「お前たちがどこの者か知らない」と言われる。しかもその日が来たら、そういう人が多く出るだろうというのです。
 閉め出された者たちは言う。「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」。まるで「あなたの御言葉を聞いたこともありますし、聖晩餐の席についたこともあります」と言っているようで、恐くなります。
 彼らは不義を行う者でもあった。主イエスとの交わりを持っていたが、その教えは半分しか聞かないで、不義との関わりを捨てなかった。罪の中に立ち止まり続けた。そういう者であるかも知れません。
 彼らは「わたしたちの広場でお教えを受けたのです」という。自分たちの広場にやってきた時には迎え入れるが、自ら主の前に進み出ようとはしなかった。中途半端な関わりしか持とうとしなかった、と言うことかも知れません。
 彼らは聖書の知識がある。その時、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちの名を知っており、彼らが神の国に入り、宴会につく姿を見届ける。しかし自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。預言者を迫害した者と同様に、真剣に耳を傾けず、従わなかった者たちも神の国から放りだされるだろう、ということかも知れません。
 「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。更には惨めなことに自分たちが軽蔑してやまなかった異邦人たちが、まさかあの者が救われるはずがないだろうと思っていた者たちが、国や文化の違いを超えて、神の国に入るのを見る。
 神の国に通じる門は狭い。だから救われる人間も限定されるだろう、しかしそれが自分たちの仲間だと思ったら大間違い。救いの狭き門への招きは人間の思いを遙かに超えて、東から西から、また南から北から世界中の人々を広く招いている。そして世界中の人々が招きに答えてやってくるのです。狭き門は思いもよらない程、広く人々を招いている。
 「救われる者は少ないのでしょうか」と聞かれて、そうだ少ない。「入ろうとしても入れない人が多いのだ」と答えるあたりに、イエスの「キリストらしさ」があるような気がします。いい加減な妥協、安易な理解、自分勝手、生ぬ るさを一切許さないイエスのキリストらしい厳しさ、逆説的ですが神の愛の激しさを感じます。イエスのキリストらしさは「神の愛の激しさ」です。

 神の国に通じる門はたった一つで、しかも狭い。おまけに空いている時間も限られている。だから急げ、ぐずぐずするな、万難を排してでも行け、適当なところでやめるな、これには救いがかかっているのだ。時は切迫しているのです。キリストに出会う機会はそうないのです。遅すぎると言うことがあるんです。今、キリストに出会っていただきたいのです。
  この後、聖晩餐が執り行われます。わたしたちはそこで束の間、開かれた狭き門を見るでしょう。この束の間に見えるキリストという狭き門に進み出るべきです。
 信仰生活は「守る」と言うだけじゃ充分ではない。主の前に「進み出る」のです。洗礼を受けていない人は洗礼を受けるのです。洗礼を受けた人は聖晩餐を受けるためにこの場所に進み出るのです。開かれた狭き門、十字架と復活のキリストの前に進みでて、キリスト自身に与るのです。
 ここは狭き門、悔い改めないと入れません。こんなわたしにそんな資格があるだろうか、というなら、資格などないかも知れません。しかしもうすぐ閉じられる門に、今、招かれているのです。罪を悔い改めて、御前に進み出るべきです。
 「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネによる福音書10章9節) 


(2005年9月4日礼拝)

 
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