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2005年7月10日 礼拝説教 【命のパン】南 吉衛
ヨハネによる福音書 6章30~35節
 

 ヨハネによる福音書は他の三つ(共観福音書)と違っていて、イエスの人物像を描く場合特色を持っている。今日の6章22節以下の「イエスは命のパン」は、この福音書だけに記されていて、特色がよくでている箇所である。比較的長く、イエスと群衆、弟子、ユダヤ人の論争が中心をなしている。決して分かりやすい箇所ではない。
 分かりやすい点は、イエスが大工ヨセフの息子であって、人々の中には、彼の両親を知っている者もいたことであろう。しかしイエス自身が「わたしは天から降って来た」と言っている(42節)ので、この人は一体どういう人なのか、という疑問が人々の中に湧いて来たのである。すなわちイエスは、わたしたちと同じ単なる歴史上の一人物ではない。イエスは普通 の人物以上の人である。それを福音書は「イエスは、キリストである、生ける神の子である」と弟子ペトロの口を通 して告白させている(マタイによる福音書16章16節)。ヨハネの言葉を用いれば「あなたこそ神の聖者」となる(6章69節)。

 イエスのことを「大工ヨセフの息子であって、彼の両親を知っている」と言うことは誰にでもできる。しかしそこからは何の「力」も生まれてこない。これだけでは、ただ立派な行いをした人とか、すぐれた考えの人とか、ヒューマニストの一人で終わってしまう。聖書が今日わたしたちに語ろうとしていることは、イエスという歴史上の人物が、単にそれに留まらず、わたしたち一人一人にとって「かけがえのない」人物となるということである。肉体(身体)の保持の為にパンが必要であるのと同じように、イエスがわたしたちにとって「命のパン」であること、そのことを他ならぬ イエス自身が証ししているのである。
 しかしそのイエスの証しは、イエスが生きていた時でさえ、十分理解された訳ではなかった。むしろ誤解されたと言って良い。「この人、頭がおかしくなったのではないか」とさえ言われた。当時イエスが群衆や弟子たちと行った論争は、決して誰からも喜んで「受け入れられる」ものではなかった。今日の長い論争の終わりの部分(6章66節)で、「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と記されている通 りである。

 イエスがわたし(の人生)にとって「命のパン」であることは決して自明のことではない。それはイエスと生前接して、僅かのパンと魚で五千人もの人を養った奇跡を見た弟子たちの場合も変らなかった。そういう奇跡を経験したことも役に立たなかった。すなわちイエスがわたしにとって「命のパン」となるかどうかは、その人に直接「会ったかどうか」は関係ないのである。会ってなくても、「命のパン」となり得る。それは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」という言葉を、復活したキリストの言葉として、あたかも今、キリストが自分の目の前に立って、自分に語りかけている言葉として聞く時である。二千年前に死んだ人が語りかけているというのは、不思議な経験である。神秘的な経験である。しかし「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのが聖書の、復活のキリスト・主の約束である(マタイによる福音書28章20節)。同じようなイエスの約束は聖書の他の箇所にもある。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3章20節)。

 復活したキリストが何時もわたしたちと共にいてくれる、それがキリストが「命のパン」であることのしるしである。キリストがわたしたちと食事を今もしてくれること、それがキリストが命のパンであることのしるしである。そうなると確かに生前のイエスに直接会っているかどうかは、第一の問題でないことが分かる。それでは何が大切なことなのだろうか。それは「信じる」ということである。それも「見ないで信じる」ことである。この点からもイエスを直接知っていたかどうかは、第一の問題にならない。イエス自身がトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言っている通 りである(20章29節)。
 「信じる」ということは難しいことである。だからイエスの弟子たちも(30節で)「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか」と問うている。彼らは既にイエスが五千人にパンを与えたことを経験していたにも関わらず、それだけでは足りずに「しるし」を求めたのである。しるしを求めるとは、この事態を人間的な可能性の中で理解することである。だが聖書に記されていることは、初めから人間的な理解を越えたところでの出来事、人間の思いを遥かに越えた、ただ「信じる」ことしか残されていない事柄である。そしてその試金石として今日の6章35節が語られているのである。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」。

 ここで二つの大切なことが語られている。「イエスのところに来る(行く)こと」と「イエスを信じること」である。そして同じように大事なことは、この二つのことは、イエスの力によるのであって「人間的な力」によるのではないことと、わたしたち人間の力によって始まることではないことである。イエスの一番弟子ペトロは「あなたこそキリストです、生ける神の子です」と弟子たちを代表して告白したが、その告白は長くは続かなかった。「あなたを信じています」と力強く告白したが、それは直ぐに崩れてしまった。なぜなら「信じる」力が自分の中にあると思ったからである。「わたしのもとに来る」場合も同じである。たしかにペトロは網を捨ててイエスに「従って」行った。しかし、イエスが十字架にかかる時には、そこから逃げてしまっていた。なぜなら「イエスのもとに行くこと」を自分の力で行おうとし、出来ると思ったからである。
 イエスが、信じる者にとって「命のパン」になるのは特別のことである。それはイエスご自身がわたしたちに与えてくださる「賜物」なのである。そして問題は「わたしが命のパンである」とのイエスの言葉、聖書の言葉を、如何にわたしたちが「自分自身に」語られた言葉として聞くかである。この言葉が特別 な権威と、力を持ってわたしたちに語りかけてくるのである。
 それは丁度イエスが十字架にかかって死んで下さったことが信仰告白の言葉の上だけでなく、「本当にそうだと、涙が出てきた」と思う時がある、あの経験に似ていると言っても良いだろう。「イエスが命のパンである」ことが、本当にぴったりの言葉として響いてくるのである。日ごとの生活の中で、何かを決断する時に、何かに向かって努力している時に、苦しんでいる時に、悲しんでいる時に、不安で一杯の時に、「わたしが命のパンである」というイエスの言葉が、権威を持って響いて来てわたしたちを圧倒し、力を与える結果 、新たな思いがわき上がり、感謝で満たされるのである。
 それは悲しみの時だけではない。喜びの時も、成功した時も、幸せで一杯の時もこのイエスの言葉がわたしたちを導き、いつもわたしたちと一緒にいてくれるのである。「わたしはいつもあなたがたと共にいる」との言葉が、本当に真実味を帯びて響いて来るのである。そしてその時ほど、生きていることに喜びと意味を見いだし、神さまに対する深い信頼に満たされる時はないのである。そしてその時、イエスを信じる、神を信じるとは、信仰を持って生きて行くとは、こういうことであることを知り、イエスの所に行くとは、結局、心からイエスを通 して、神に「祈る」ことであることを知るのである。

 最後に「わたしが命のパンである」との言葉をもう一つの面 から考えて見たい。それは、「わたしが」との主語の中には、「他の人ではなく、ましてや他の物ではなく、このわたしこそが」との思いがこめられていることである。それはイエスの言葉であると同時に神の言葉である。イエスを通 して神が語っているのである。旧約的な表現を使えば「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われた主なる神、イスラエルをエジプトから導かれた神」である(出エジプト記20章2、3節)。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」(同34章6節)、ご自分の独り子を捧げるほど、この世を愛された神である。実にこの神、そしてこの神と一体であったイエスが「わたしが命のパン」であると、そのすべてをわたしたちに差し出しておられるのである。それを聖書は「愛」と言っているのである。それは、わたしたちから出て来るあらゆるものとまったく異なっている。わたしたちから出るものと言えば、すべてが自分中心であって、すべてのことを自分に都合良く理解し、すべてのことが自分を中心に回っていると考え、そして何時も自分の願うことの実現の為に汗を流しているのである。「朽ちる食べ物のために働いているのである」。その結果 、わたしたちを待っている最終的なものは「孤独」である。自分中心に生きて来たものは、最後にはそこに行き着くのである。
 そういうわたしたち、最後は孤独の寂しさが待っているわたしたちに、神は、イエスを通 して「命のパン」を与えようとされているのである。それは聖書が永遠の命と呼んでいるものであって、信じる者に与えられるまことの、意味のある、満たされた人生・命である。そういう永遠の命は、わたしたちが「神の国」に迎え入れられる時に完全に与えられるものであるが、今すでに、キリストを信じることを通 して、その片鱗を与えられており、その事が既にわたしたちにとって喜びであり、感謝である。

(2005年7月10日礼拝)

 
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