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ヨハネによる福音書 6章30~35節 | ||||
ヨハネによる福音書は他の三つ(共観福音書)と違っていて、イエスの人物像を描く場合特色を持っている。今日の6章22節以下の「イエスは命のパン」は、この福音書だけに記されていて、特色がよくでている箇所である。比較的長く、イエスと群衆、弟子、ユダヤ人の論争が中心をなしている。決して分かりやすい箇所ではない。 イエスのことを「大工ヨセフの息子であって、彼の両親を知っている」と言うことは誰にでもできる。しかしそこからは何の「力」も生まれてこない。これだけでは、ただ立派な行いをした人とか、すぐれた考えの人とか、ヒューマニストの一人で終わってしまう。聖書が今日わたしたちに語ろうとしていることは、イエスという歴史上の人物が、単にそれに留まらず、わたしたち一人一人にとって「かけがえのない」人物となるということである。肉体(身体)の保持の為にパンが必要であるのと同じように、イエスがわたしたちにとって「命のパン」であること、そのことを他ならぬ
イエス自身が証ししているのである。 イエスがわたし(の人生)にとって「命のパン」であることは決して自明のことではない。それはイエスと生前接して、僅かのパンと魚で五千人もの人を養った奇跡を見た弟子たちの場合も変らなかった。そういう奇跡を経験したことも役に立たなかった。すなわちイエスがわたしにとって「命のパン」となるかどうかは、その人に直接「会ったかどうか」は関係ないのである。会ってなくても、「命のパン」となり得る。それは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」という言葉を、復活したキリストの言葉として、あたかも今、キリストが自分の目の前に立って、自分に語りかけている言葉として聞く時である。二千年前に死んだ人が語りかけているというのは、不思議な経験である。神秘的な経験である。しかし「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というのが聖書の、復活のキリスト・主の約束である(マタイによる福音書28章20節)。同じようなイエスの約束は聖書の他の箇所にもある。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3章20節)。 復活したキリストが何時もわたしたちと共にいてくれる、それがキリストが「命のパン」であることのしるしである。キリストがわたしたちと食事を今もしてくれること、それがキリストが命のパンであることのしるしである。そうなると確かに生前のイエスに直接会っているかどうかは、第一の問題でないことが分かる。それでは何が大切なことなのだろうか。それは「信じる」ということである。それも「見ないで信じる」ことである。この点からもイエスを直接知っていたかどうかは、第一の問題にならない。イエス自身がトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言っている通
りである(20章29節)。 ここで二つの大切なことが語られている。「イエスのところに来る(行く)こと」と「イエスを信じること」である。そして同じように大事なことは、この二つのことは、イエスの力によるのであって「人間的な力」によるのではないことと、わたしたち人間の力によって始まることではないことである。イエスの一番弟子ペトロは「あなたこそキリストです、生ける神の子です」と弟子たちを代表して告白したが、その告白は長くは続かなかった。「あなたを信じています」と力強く告白したが、それは直ぐに崩れてしまった。なぜなら「信じる」力が自分の中にあると思ったからである。「わたしのもとに来る」場合も同じである。たしかにペトロは網を捨ててイエスに「従って」行った。しかし、イエスが十字架にかかる時には、そこから逃げてしまっていた。なぜなら「イエスのもとに行くこと」を自分の力で行おうとし、出来ると思ったからである。 最後に「わたしが命のパンである」との言葉をもう一つの面
から考えて見たい。それは、「わたしが」との主語の中には、「他の人ではなく、ましてや他の物ではなく、このわたしこそが」との思いがこめられていることである。それはイエスの言葉であると同時に神の言葉である。イエスを通
して神が語っているのである。旧約的な表現を使えば「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われた主なる神、イスラエルをエジプトから導かれた神」である(出エジプト記20章2、3節)。「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち」(同34章6節)、ご自分の独り子を捧げるほど、この世を愛された神である。実にこの神、そしてこの神と一体であったイエスが「わたしが命のパン」であると、そのすべてをわたしたちに差し出しておられるのである。それを聖書は「愛」と言っているのである。それは、わたしたちから出て来るあらゆるものとまったく異なっている。わたしたちから出るものと言えば、すべてが自分中心であって、すべてのことを自分に都合良く理解し、すべてのことが自分を中心に回っていると考え、そして何時も自分の願うことの実現の為に汗を流しているのである。「朽ちる食べ物のために働いているのである」。その結果
、わたしたちを待っている最終的なものは「孤独」である。自分中心に生きて来たものは、最後にはそこに行き着くのである。 |
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