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2005年5月22日 礼拝説教 【究極の人生】小宮山 剛 (富山二番町教会牧師)
旧約:ダニエル書4章31節~34節 新約:ヨハネの黙示録7章9~17節
 

 教会ではなぜ「礼拝」をしているのでしょうか。たいせつな日曜日の朝、わざわざ教会の礼拝に出かけるのは、いったいなぜなのでしょうか。  
  それは、神さまが私たちに教会の礼拝に来るように招いておられるからです。実は神さまが、私たちひとりひとりに「礼拝するように」と、導いておられるのです。天地の造り主である神さまが、私たちをこの礼拝に招かれているから礼拝するのです。  
そしてさらに申し上げたいことは、天国で は何がなされているのか、ということです。きょうの聖書のヨハネの黙示録7章9~17節に書かれていることは、いったい何のことでしょうか? 実はこれは、礼拝の光景なのです。しかも天国での礼拝の光景です。しかも「あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数え切れないほどの大群衆」が、天使たちと共に、神と小羊なるイエス・キリストに向かって、礼拝しているという、圧倒されるような光景なのです。
 聖書によれば、天国というところは、何もすることがなくて永遠にヒマな世界ではありません。そんな退屈で、人間をダメにしてしまう世界ではないのです。天国では、直接父なる神さまと御子イエスさまを前にして、礼拝がなされているのです。もはやそこには国や民族の違いなどない。キリストの十字架によって救われた無数の民と共に、賛美を歌い、そして主から無限に新鮮なメッセージが語られる。そうして主と共に永遠に成長していくという世界です。  
  受験生はいっしょうけんめい勉強します。それはなぜですか? 希望する学校に入りたいという目標があるからですね。結婚したいと願う若者は、いっしょうけんめいおしゃれをします。相手に気に入られたいと思うからです。家を持ちたいと思うサラリーマンは、いっしょうけんめい働きます。私のいる富山の中心部でも、早朝や夜になると、スポーツウェアを着、運動靴を履いてサッサと歩いている人々の姿を見ます。ウォーキングをしているのです。健康な老後を過ごしたいという目標があるからでしょう。  
  そのように、人の今現在の行動は、その人の目標が何であるかによって決まるのです。目標があるから、今何をなすべきか、ということが分かるのです。  健康な老後を過ごしたいというのは多くの人の願いです。では、その老後のあとはどうでしょうか。多くの人は、不吉に感じ、なるべく考えないようにしているのでしょう。わからないのです。でもそれでは、人生の本当の目標は定まりません。その結果 、今本当になすべきことが分からず、力のない、希望のない人生になってしまうのです。  
  聖書によれば、私たちすべての人が神さまから与えられている目標は、天国での礼拝です。だから私たちは、今、教会に集まって主を礼拝しているのです。天国で、主を顔と顔を合わせて礼拝をする。私たちはそれを目標にして、この地上においては共に主を礼拝しながら人生を歩んでいくのです。それが究極の人生です。

 旧約聖書のダニエルの時代に、ネブカドネツァルという王さまがいました。この王は、ユダの国を滅ぼし、エルサレムの都を破壊し、多くのイスラエル人を殺し、また本国のバビロンに連れ去った、歴史上名高い「バビロン捕囚」をした王でした。ですからイスラエル人から見たら、この王は憎い敵でした。  
  バビロン捕囚にされた民の中に、ダニエルをはじめとした、心から主を信じる若者たちがいました。そしてネブカドネツァル王は、彼らを通 して真の神さま・主のおられることを知りました。  
  ところがやがてこの王は失脚し、逃げていって隠れさまよう生活をしなければならない羽目になりました。華麗な宮殿のぜいたくな生活から一変して、野にさまよい、牛のように草を食べる日々を過ごさなければならなくなりました。その時、ネブカドネツァル王は、ユダヤ人の部下ダニエルがあがめていた真の神さま・主を思い出しました。そして彼は、主をほめたたえるに至ったのです。それまで自分は世界で一番偉いと思っていた考えを悔い改め、主なる神こそ真の王であると認めるに至ったのです。  
  すると、不思議なことに、かつての側近たちがネブカドネツァルを迎えに来て、彼はまた王の地位 に復帰することができたのです。そして彼は主を礼拝する者へと変えられたのです。
   このように、主は、ごう慢なネブカドネツァル王をも、主を礼拝する者へと変えられました。主はネブカドネツァルさえも見捨てないで、主のもとに導かれたのです。主はすべての人を、主を礼拝することへと招いておられるのです。ネブカドネツァルは、苦しい試練に会いました。しかしその結果 、彼は真の神さまにすがり、礼拝することへと導かれたのです。時に神さまは、そのような荒療治をして、人をご自分のところに招かれるのです。

 私はクリスチャンの両親に育てられ、高校生の時まで教会の礼拝に通 っていましたが、大学生の時に行った教会でつまずいて、教会を離れてしまいました。そしてさらに、「神などいない」と言うようになりました。そして放蕩生活が始まりました。  やがて大学を卒業して就職した私は、営業マンとして東京で働くようになりました。ところが、そこでぜんそくの発作が起きるようになりました。苦しみ、薬を飲みながら仕事をしなければならなくなりました。それで私はやけになって、さらに毎晩遅くまで遊び歩くようになりました。すると病気がもっと悪化して、ついには薬が全く効かなくなり、救急車で病院に運び込まれました。救命治療が施されましたが、意識は消えていきました。私は、「ああ、こうして死んでいくんだな」と思いました。しかし一方では、「こんなところで死にたくない」という思いがわき上がってきました。しかしどうすることもできません。その時私は、むかし礼拝した神さまを思い出したのです。そして「神さま、助けてください!」と、心の中で絶叫していました。そして意識を失いました。  
  結局助かったのですが、会社を辞めざるをえなくなりました。郷里に戻った私は、絶望のどん底にありました。挫折を経験したのです。  
  ところが、そこから不思議な出会いが次々と起こっていったのです。ある日、昔の幼なじみと街角でばったり再会し、その彼はキリストを信じる者になっていた。彼は私の事情を知って、私のために祈ってくれたのです。「神さま、どうか小宮山君を導いて下さい」と。それから毎晩のように彼の家に行き、彼からキリストの話を聞くようになりました。五年ぶりに教会に戻れば、その小さな教会に時を同じくして青年が集まってきて青年会の仲間ができました。それまで青年会がなかったのに、急に青年が集まってできたのです。仕事はと言えば、教会の人が、事業を興すから手伝ってくれと声をかけてくれました。それで熱心なキリスト信徒であるその人と二人で仕事をするようになりました。仕事を終えて家に帰れば、私が教会に戻ったのがうれしくて、両親が聖書の話や教会の話をしてきます。  
  そのように、数ヶ月前までは、神を忘れ、キリストを捨てていたはずの私が、いつの間にか、日曜日から土曜日まで、クリスチャンに囲まれた毎日を過ごすようになっていたのです。でも正直を言えば、その時はそれがちょっと息苦しい感じがしました。  そして極めつけの出来事がありました。それは、クリスチャンから逃げる時間を作ろうと、喫茶店に通 うようになった時のことでした。ある日そこのママさんと話をしていると、実は彼女もまたクリスチャンであることが分かりました。絶句しました。‥‥どこに行ってもクリスチャンと当たる。田舎の町で、そんなにクリスチャンがいるはずがないのに!いったいこれはどういうことだ!  私はそこで初めて目が開かれたのです。こんな私を捕まえるために、神さまがいろいろな人を送って私を逃がさないように包囲網を作られたのだ、と。しかしそこに実に暖かい、神の愛を感じました。そして私も、真の神さま・主を礼拝する者になったのです。


  先ほどのヨハネの黙示録の個所を読むと、天国で礼拝している人々は、皆「白い衣」を着ていると書かれています。なぜ白い衣なのかと言えば、「その衣を小羊の血で洗って白くした」(7章14節)と言われています。
 私たちは、本来、罪で汚れた衣を着ているのです。一度神を知りながら、神を捨てた私などは、衣が真っ黒になっていたのです。ですから、清い天国に入れていただく資格がないはずでした。しかし、その汚れた衣は「小羊の血」、すなわち十字架にかかられたイエス・キリストが流してくださった血によって白くしていただいたということです。イエスさまがこの私の罪を、私の代わりに十字架にかかってくださって、ゆるしてくださった。そうして天国に入れるようにしてくださったのです。
 暴虐の王ネブカドネツァルを神のもとに導かれ、糸が切れた凧のように神を離れていった私を再び導かれた主は生きておられます。きょう初めてこの礼拝にお出でになった方は、偶然ここに来たと思わないでください。主の導き、招きがあったのです。どうぞ私たちと共に真の神さまを礼拝する者となっていただきたいと思います 。

(2005年5月22日春の特別伝道礼拝)

 
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