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2005年3月6日 礼拝説教 【ペトロの告白】西堀 俊和
ルカによる福音書 22章 31~34節、54~62節
 

 キリストのご受難に直面して、弟子のペトロがなさざるを得なかった三つの告白があります。 ペトロの第一の告白は、彼にとっては信仰告白でした。それは主イエスと弟子たちとの最後の晩餐でのこと。主はペトロに話し始められました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたがたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」  彼らはこれから試みに遭う。主は人々の手に引き渡され、彼らはイエスの弟子であるという理由で、迫害を受けようとしています。サタンが神にそのように願い出ているのです。  
  しかしシモンよ、と主は言われます。あなたはこれから試練、誘惑に遭う。躓き、挫折してしまうだろう。私はあなたの信仰がなくならないように祈った。だからあなたには必ず立ち直る日が来る。信仰があなたを再び、立ち上がらせるだろう。その日が来たら、今度はあなたが兄弟姉妹を励ましなさい。 それに対し彼は「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と応えました。これはただの強がりでしょうか。ペトロは思い上がっていたのでしょうか。そうかも知れません。しかしこの言葉には彼なりに主イエスを精一杯愛する気持ちが表れているのではないでしょうか。  

 そもそもペトロは、どんな人だったのか。もともと彼はそんなに立派な人間とは思えない。浅はかな面 も確かにある。しかし純粋で、一本気で、どこまでもお人好し、そんなイメージがあります。誰よりイエスを愛し、真っ正面 からぶつかっていった人ではないでしょうか。彼は常に他の弟子たちに先んじて何かをする。しかしそれは率先して失敗すると言うことでもありました。もし彼の失敗がなかったら、私たちは数多くの主の教えを聞けなかったかもしれません。
「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております。」
  これがペトロの第一の告白です。人間としての誠実さ、人生の全てを賭けてイエスに従ってきた者としての志、信念、彼の内から沸き上がる熱心な忠誠心の言い表し。勇敢な決意であり、純粋で尊いものです。果 たして彼の他に誰が、イエスにこれほどの気持ちを持っていたかと言うほどに美しいものです。  
  しかし主は、「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた。この時ペトロには判らなかったでしょう。これほどまでにこの方を愛し従ってきた私が、まさかそんなことを言うわけがない、と思っていたに違いありません。  
  しかしその思いが打ち砕かれ、彼は第二の告白に至る。ペトロの二つ目の告白、それは罪の告白です。  ユダの裏切りによって主は引き渡されていきました。ペトロもその後に従っていきます。しかし彼には恐れが芽生え始めていました。  
  大祭司の家で、彼は他の人々と共に、主イエスを見守った。ペトロは自ら弟子としてあろうとするのではなく、群衆の一人としてその場所にいようとします。
  ところが不意に周りに正体がバレるのです。「この人も一緒にいました。」「お前もあの連中の仲間だ。」「確かにこの人も一緒だった。」その途端、彼の内にほんのわずか残っていた勇気も、信念も、志も、愛も一挙に吹き飛んでしまった。イエスの弟子であることへの恐れと恥が心を支配し、「私はあの人を知らない」「いや、そうではない」「あなたの言うことは分からない」と、彼は三度も主イエスを否定してしまう。彼自身言い表した立派な信仰告白をも否定してしまう。その時鶏の声が聞こえ、彼は「…あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」との主の言葉を思い出し、外に出て、激しく泣いた。
  彼の中に何が起こったのだろうか。彼はサタンの支配に屈したのです。サタンの嘲りが聞こえる。お前は何といい加減な人間か。ペトロの人間としての誠実は敗北したのです。信念に固められた自己が崩壊していく。  
  彼は人々の前で三度も、主を知らない、自分はキリストの仲間ではないと言いきった。
「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる」(ルカによる福音書12章9節)。 彼がやがてあなたのことなど知らないと、キリストに言われてしまう日が来る。神の前に見捨てられる自分の姿を知った。  
  その時、主イエスは振り向いてペトロを見つめられました。彼はその目を見てしまった。その目は何を語っていたでしょうか。主イエスを前にして、弟子ではない、あの人を知らないと言ってしまった。主イエスの眼差しの中に、そんな自分がいるのを知ったのです。  
  ペトロの第二の告白は罪の告白でした。自らがいい加減な人間であることを言い表し、主から拒絶される者であることを主の前で言い表してしまった。「私はあの人を知らない」と。彼は激しく泣き出してしまう。ペトロはこうして挫折してしまいました。
  しかしそんなペトロに主はもう一度出会って下さったのです。主は十字架の死から復活されたのです。主は彼のことを「私はあなたなど知らない」などと言わず、彼の名前を呼ぶ。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネによる福音書21章16節)。彼をもう一度弟子として、兄弟姉妹を信仰によって励ます務めに立ち上がらせるためです。 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。…」(ヨハネによる福音書21 章15―17節)。  
  ペトロの三回の否定に呼応するように、復活の主は「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と三度問われます。三度目になると、ペトロは悲しくなって「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と応えるのが精一杯です。純粋だけど自信たっぷりな「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と違って、もう自分を誇らないのです。私が主を愛している、それが全てなのではない。それ以上に、主は私のことを見捨てず、愛していて下さる。それこそが全てなのだ。  
  ペトロの信念や愛はサタンの試みに、あまりにいい加減なもの、もろいものでした。しかしペトロは立ち直るのです。主イエスの眼差しの中で立ち直る。その主イエスに応える。そして「私の小羊を飼いなさい」という主のご委託へ新たに応えていくのです。  
  それがペトロの第三の告白、信仰告白です。それは誰に対してなすものか。信仰がなくならないように祈ってくださる主イエスに、立ち直らせて下さる復活のキリストに、愛と感謝をもって応えるものではないか。  私たちの内なる志が、愛が、熱心が私たちを立たせるのではない。それはサタンのふるいに耐えられない。キリストの愛が、呼びかけが、もう一度出会って下さる復活の主の熱心が、私たちを再び立ち上がらせる。だから私たちは灰の中からでも立ち上がることが出来る。十字架による赦しと、復活のキリストによって再び立ちあがることを通 して、感謝の応答として真実の信仰告白が生まれる。  
  ペトロはこの時、主との最初の出会いを深く思い起こしたのではないでしょうか。「主よ、わたしから離れてください。私は罪深い者なのです」。主イエスと出会った時、ペトロはやはり罪の告白をせざるを得なかった。しかし主は「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(ルカによる福音書5章1― 11節)。自分が人間をとる漁師になる。その務めに召された時に立ち返る。あの頃と変わらず、主の眼差しは私の上にあるからだ。
  「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイによる福音書16章18節)。ペトロのような者が岩になるのです。教会とはそういう岩の上に建つ。教会はもともと岩なんかになれない弱い人間の集まりです。しかしサタンに勝利する岩になる。イエスの執り成しの祈りがあってのことです。私たちのいったい何がサタンの試みに耐えられるだろうか。サタンは私たちを試みに遭わせることを神に願い出たけれども、しかしイエスは十字架の上でも執り成し祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカによる福音書23章34節)。キリストの復活は今やサタンに勝利し、サタンは天から転げ落ちたのだ(ルカによる福音書10章18節)。
  「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」(マタイによる福音書6章13節)。主の祈りの一つを思い出します。主の祈りとは、主が教えて下さった祈りであると共に、主ご自身が祈っておられた祈りではなかったかと最近思います。ゲツセマネの祈りでも、誘惑からお救い下さい、御心をなしてください、と祈られました。あの祈りは自分のためばかりではなく、弟子たちのため、私たちのためでもあったのではないでしょうか。  
  導かれた時、務めに召された時、傲慢になった時、打ち砕かれた時、立ち直る時、いつも私たちは主の眼差しの中にいる。イエスの執り成しの祈りによって、再び生かされる感謝をもって、信仰を告白するのです。
 
(2005年3月6日 受難節第4主日礼拝)

 
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