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2005年2月13日 礼拝説教 【主をたたえよ、わたしの岩を】南 吉衛
詩編144篇
 

 新会堂が完成してから六ヶ月たった。新会堂は礼拝の場であり、祈りの家である。ここで礼拝を捧げ、祈ることが何にもまして大切である。そして今日の午後は「礼拝について」全体の学習会を行うことになっている。

人間が生きてゆくために本当に必要なことは多くはない、いや「一つだけ」であることを先般 、マルタとマリヤの話を通して学んだ。それは、御言葉を聞くことだった。同じような意味で、キリスト者にとって最も大切な行為は「礼拝」であると言える。その中心は、「神をほめたたえる」ことである。人生の目標は(パスカルが言ったように)「神を知ること」であり、その線上で神をほめたたえることが起こってくる。

言うまでもなく、「神をほめたたえる、賛美する」とは神に対する人間の行為である。(「けさもわたしの小さい口よ、神の恵みをほめたたえよ」『こども賛美歌』4番)。しかし忘れてはならないことは、その前に、神がわたしたちにして下さったことがある、ということである。それへの応答としてわたしたちは神をほめたたえる、神を礼拝するのである。

創世記によれば、神がして下さったことは、主がアブラハム(厳密に言うと、この時はアブラムという名であったが)に現れたことであり、「あなたの子孫にこの土地を与える」と語られたことであった(12章7節)。「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」のである。この記事が、礼拝を考える聖書の最も古いものだろう。わたしたちの神賛美は、神の「先手」への応答である。ある礼拝学の専門家は「本当に大切な行為とは、神がおこされる出来事から生じてくるものである」と言う。

さて今日与えられたテキストも神への賛美(「主をたたえよ」)で始まっている。神の先手への応答である。「ダビデの詩」とあるが、これは後の時代の加筆であると言われ、一般 には「王の歌(祈り)」と呼ばれている。神はこの王に何をして下さったのだろうか。王は、何故神を賛美しているのか。

神は、わたしに戦いの方法を教えてくれ(1節)、敵からわたしを救ってくれる(2節)方である。王にとって、神は戦いを援助し後援してくれる言わばパトロンである。そこから彼にとって神は、「(わたしの)岩、支え、砦、砦の塔、逃れ場、盾、避けどころ」であるとの告白が生まれてきたのである。このような多種の隠喩が用いられているのは、この王のさまざまな人生経験が背後にあるからだろう。この王は、神を岩とする経験を幾重にもしたのだろう。また、神が盾となって守ってくれたとの経験は、この王にとって忘れられないのだろう。

この王が古代オリエントの他の国の王と違っていたのは、神の前に自分が如何にはかない存在であるかを知っていることである。他国の王であれば、自分の力を保持し、持てる権力が永遠に続くなどと妄想したかもしれない。少なくとも自分に与えられた権力が永遠に続くようにとの願望を抱いたことであろう。しかしこのイスラエルの王は違う。112節で確かに神を賛美したが、そういう賛美をする人間、神からそういう恵み、保護を受けるに相応しくない人間であること、恥ずかしくて神の前に出ることが出来ない面 を持っている人間であることを知っていた。しかし「油注がれ」、神の霊が宿る器として、神と民(国民)の間を執りなす(仲介する)重要な役割、神の前に民を代表する役割が与えられていることを知っていたのである。その思いが3―4節の言葉になって表れたのである。

同時にこの王は、そのような自己認識に立っているからこそ、自分の力に頼るのでなく、敵に囲まれて困難な状況にあるわたしを助けて欲しいと祈ることができたのである。その祈りが五―八節である。敵、異邦人からわたしたちを救って下さいとの思いが切々と語られている。五節「主よ、天を傾けて降り、山々に触れ、これに煙を上げさせてください」は神顕現(テオファニー)そのものの表現である。モーセの時代、シナイ山でご自身を現された神が想定されている。「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(イザヤ書63章19節)。人間を超越して「高きにいます神」に低いところに降りて来てくださいと祈っている。

旧約の『詩編』は様々に分類されるが、その一番大きなグループは「個人の嘆きの歌」で、この詩編もそうである。嘆きの原因は病気・死、他人から偽って非難されること、あるいは不当に捕らえられていること、そしてさまざまな種類の敵である。この王も「大水」「異邦人」(7節)が嘆きの原因になっている。「彼らの口はむなしいことを語り、彼らの右の手は欺きを行う右の手です」と言う。

人間にとって自分が「不当な」ありもしないこと、身に覚えの無いことで、訴えられ非難されるほど悲しいことはない。相手が強く力を持っており、自分(こちら)が弱い立場にある時はもっと悲しいと言わざるを得ない。しかしこのことも含めて、今日の詩編144 篇5_8節に語られていることは、この詩編が歌われて凡そ600年ほど経過してから、神が御独り子イエス・キリストをこの世に送られたことによって実現したのである。イエスこそ正に「高き神が低きに下り給うた方」であり、まったくご自分に身の覚えのないことの故に十字架に掛けられたのである。わたしたちを究極的に救って下さるのは、イエス・キリストである。神がイエス・キリストにあってわたしたちを「大水と異邦人の手」から救い出して下さるのである。その意味でこの詩編は、イエス・キリストを指し示しているのである。

さてこの詩編の更なる特色は、九節、丁度この詩の中程の箇所で、詩の前半と後半を繋げるような言葉が挿入されていることである。全体の構成が九節を含めて考えられていると言える。九節の意味(思い)は、神がなして下さる全てのことに対して改めて感謝の誓いが述べられていることである。「神よ、あなたに向かって新しい歌をうたい、十弦の琴をもってほめ歌をうたいます」。

この詩は、一つの纏まった統一の取れた詩とは言われていない。少なくとも二つの部分から成り立っていると言われる。1_11節(他の詩編8、18,33、39節からの引用)と12_15節(後期ヘブル語、旧約聖書時代の終わりの時期に書かれた)である。――更に言えば『70人訳聖書』では、「ゴリアテと戦った」という言葉が挿入されている――そして9節がその中でも光っているのである。特に「新しい歌をうたう」という言葉に注目して欲しい。詩人はこれまでも歌をうたって来た。神を賛美して来た。しかしここに来て改めて「あなたに向かって新しい歌をうたいます」と言っている。一種の「誓い」の言葉である。これは礼拝者としてのわたしたち自身の姿を指し示していないだろうか。

この九節の言葉が言おうとしていることは、類似した他の詩編の言葉を思い起こすと理解しやすいだろう。まず詩編33篇。「主に従う人よ、主によって喜び歌え。/主を賛美することは正しい人にふさわしい。/琴を奏でて主に感謝をささげ/十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。/新しい歌を主に向かってうたい/美しい調べと共に喜びの叫びをあげよ」。

新しい歌、それは、古代イスラエル人の信仰に基づいた古い歌とは無関係ではないだろう。しかし、賛美歌は30年に一度改訂されると言われるが、「現代の時代の変化にも適した歌」を歌おう、それも声高らかに歌おうと言われている。

続いて詩編九六篇。「新しい歌を主に向かって歌え。/全地よ、主に向かって歌え。/主に向かって歌い、御名をたたえよ。/日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ」。 

 さらに、イスラエルの民が紅海を無事渡った時の歌がある。「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。『主に向かってわたしは歌おう。/主は大いなる威光を現し/馬と乗り手を海に投げ込まれた』」(出エジプト記15章1節)。

今日の詩編の記者は思いを新たにして、このように賛美の歌をうたうことを「誓って」いるのである。それは、わたしたちが今日もここで主を賛美することと、何ら変わらない。

今日の詩編全体を、九節の視点で読めばこういうことである。「戦争の時であれ(1節以下)平和な時であれ(12―14節)、私たち人間の本当の幸せは何であるかが問われたのである。それは、私たちが、人間のはかなさを知ること、それだからますます、心を傾けて、自分の思いを神に訴えること(5―8節)、そして、思いを新しくして神を賛美して行くことである(9―11節)」。

12―14節について触れるならば、ここには物質的な恵みを与えてくれる神が賛美されているようにも理解できる。しかし全体の流れから言えばそうではない。確かに豊かさと平安、家畜、羊、穀物と酒が満ち、悲しみの声はどこからも聞こえないように描かれている。しかしただそれらのことだけが賞賛されているわけではない。むしろ神へのひたむきな信仰がこれらの言葉の背後にある。イスラエル、神の民、今日のキリスト者が、神と神の戒めに対して忠実であること、そしてその結果 として、不義を被り、不義を好む敵に取り囲まれることも覚悟しなければならないことが背後で言われている。それを読み取らねばならないだろう。  

そして最終的には、幸せな人間とは誰かが問われている。異邦の神々をではなく、偶像神をでもなく、主、ヤーウエを神とする者であることが歌われている。 詩編1篇の記者の言葉によれば、「いかに幸いなことか…主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人」となる。或は、イエスの山上の説教の言葉を使えば、「こころの貧しい人、悲しむ人、柔和な人…」となる。

ヤーウエ、それは同時にイエス・キリストの父なる神である。イスラエルの最後の王はイエス・キリストである。

わたしたちもまた、今日の詩人と同じように、イエス・キリストの父なる神、この神がわたしにとって誰であるのか、何であるのか、小さい口で、あるいは大きな声で、一人ではなく皆と共に賛美、告白したい。



(2005年2月13日 礼拝)

 
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