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2005年1月2日 礼拝説教 【来て、見なさい】南 吉衛
ヨハネによる福音書1章43~51節
 

 今日の聖書箇所はイエス・キリストに従った最初の弟子たちのこと。福音書の中で大事なテーマの一つであり、今日のキリスト者の問題でもある。「キリストに従う」は古くて新しいテーマであり、そこで起こったことは「召命」と呼ばれる。最初の弟子たちは、仕事も家族も放棄して、たとえ死ぬ ことがあってもと言って、イエスに従って行った。
 いったいどうして「召し」が起こるか。イエスはどうして弟子が必要だったのか。それはイエスが「働き手」を必要としているからである。マルコによる福音書によれば、弟子たちの召命は明白な課題を与えられての宣教であった(3章13節以下)。しかし、今日の聖書ヨハネによる福音書は、これらのことに殆ど触れていない。その弟子集団は(その後分かることだが)自分たちの中で誰が一番偉いか、そういう論争をしていた。一番弟子のペトロでさえもそうであった(しかも彼は、イエスを知らないと三回も言った)。キリストに従うと言いながら、考えていることは、非常に世俗的なことであったと言って良いだろう。
 ヨハネ福音書が語るイエスに従った最初の「弟子」たちはアンデレ、ペトロ、フィリポ、ナタナエルである。今日の聖書箇所は、使われている動詞(言葉)に注目すると編集者の意図が強く出ている。見つめる、見る、聞く、従う、出会う。これらの言葉が「命令形」で繰り返し出て来る。語る者の意思が強く出ているのである。 アンデレ、ペトロが最初の弟子になった翌日、イエスはフィリポに出会って、「私に従いなさい」と言われた。
 その後、フィリポがナタナエルに出会って言った言葉が今日の聖書箇所で重要である。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。旧約の約束が成就したのである。しかし言い方は的確ではなかった。イエスのことをナザレ人と言い、ヨセフの子であると非常に人間的な側面 を言っただけである。旧約に忠実に言えば、ベツレヘムに生まれることが預言されている(ミカ書五章一節)。だから、それに対してナタナエルが批判的に「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言ったのも不思議ではない。イエス誕生の地は歴史に登場したことがないような場所であった。

 ここで一つ不思議なことが起こっている。それはイエスは、弟子(ナタナエル)に会ったことがないのに、その名前を知っていたことである。イエスはナタナエルが自分の方に来るのを「見た」。そして彼に「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言い、ナタナエルは、「どうして、この人は会ったこともない自分のことを知っているのか」と言う。普通 は、ユダヤ人は、ユダヤ人と呼ばれる。ここの場合のように「まことのイスラエル人だ」とは、神の働きに普通 以上に「参与」する場合に使う表現である。神がこの人に普通以上に力を与えてくれる場合に使う。
 そのイエスの言葉に対してナタナエルの(信仰)告白「ラビ、あなたは神の子です」。ここに彼のイエスに対する信仰が表されている。このようにしてナタナエルもイエスの歴史に参与する一人になるのである。彼らはすべて「見なさい」へと招かれているのである。

 さて、イエスが弟子を召すことの意味は何だったのだろうか。それはイエスが誰(称号)であるかと切り離せない。この人によって自分の人生が変る、その意味でイエスがわたしたち一人一人にとって重要な人物となる。そして、その変化は、その人のイエスに対する批判に関係なく、いやそれに反して起こるのである。これまでの仕事や、馴染んだものと別 れてイエスに従うことが起こるのである。それが信仰を与えられることであり、キリストと出会うことである。このことはわれわれ自身の問題である。われわれはこの喜びの線上にいるのである。「一人でも多くの人に教会の門戸が開かれていること、一人でも多くの人が聖書の言葉に接すること」、そのことが元旦祈祷会でも祈られた。
 イエスは聖書を通し、わたしたちを、「神の支配」へと「巻き込もう」としているのである。それは具体的には、フィリポがナタナエルに言ったように、「来て、見なさい」と、わたしたちが友人や家族の者に言うことを意味している。では何故、フィリポは「来て、見なさい」と言ったのだろうか。それはフィリポが感動したからであり、本当のものに出会って喜びに溢れたからであろう。何故なら、フィリポは、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」とナタナエルに伝えている。 これをもっとくだけた言い方にすれば、「あの、聖書に預言されている救い主を、今僕はこの目で見た。君も来て、見てごらん」「そんなところから大事な人がでるはずがない」「まあ良いから一度来てごらん。見て会えば、自分の目で確かめれば、分かるから」と言い表せるだろう。
 この辺の二人のやり取りは、湖で夜通し働いて、魚が一匹も取れなかったペトロのことを思い出させる(ルカによる福音書5章1節以下)。専門家の漁師が一晩中働いても取れなかったのだ。常識的に言えば、今さら魚が取れるはずがない。しかし、ここから実は信仰が働くのである。人間的な常識が打ち破られ、あるはずがない、起こるはずがないと思われていたことが起こるのである。素晴らしいものを見つけて、大事な人にそれを知らせ、喜びを共にしたいのである。

 これまでの常識「ナザレから何か良いものが出るだろうか」を捨てなければならない。われわれ自身もこの方、キリスト--イエスをどう呼ぼうが--に従おうとしている! その時には、これまで「自明であったこと」、「常識的なこと」を捨てて行く。何時の場合にも、自分で自分のことをどう思っているかではなく、神が聖書を通 して、わたしたちのことをどう呼んでいてくれるかが重要なのである。
 イエスはナタナエルのことを「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と言っている。彼の「本質」が言い表されているのである。まるでレントゲン写 真で撮ったようだ。しかし、このことが実は聖書全体からわれわれが知ることである。神はわたしたちのことを、われわれが自分について知っている以上に知っているのである。わたしたちのことをわたしたち以上に知っている方に「脱帽する」かどうかである。
 フィリポがナタナエルを呼ぶこと、彼を神の支配へと巻き込もうとするのは、彼がまずイエスを救い主と認めたからであり、ナタナエルがイエスに従うことになるのは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」という告白が出来たからである。このことは今日のわたしたちにとってどういう形を取るのだろうか。
 それは説教、聖書の御言葉を通してであり、あるいは友人の言葉などによる。2000年前のイエスとナタナエルのやり取りは、今日説教を通 して、あなたに、皆さん一人一人に語られる言葉である。勿論そのものではなく、絶対的でもなく、「奇跡的なこと」もわれわれ説教者の側にはない。しかし、説教を通 して語られていることが、(今日)イエスとナタナエルとのやり取りに一番近いと言わねばならない。
 ナタナエルの召命は、仕事も家族も直ぐに捨てたシモンやアンデレの場合(マルコによる福音書1章16~20節)とは異なるが、キリストを通 して、(今)聖書の言葉を通して呼びかけられているという点では、同じ召命なのである。

 今日の聖書箇所は決して長くはないが、そこに、イエスとナタナエルの「出会い」が描かれていた。疑っているナタナエル、圧倒されている彼、信仰を告白する彼、そして、この後、このイエスと歩みを共にした彼である。わたしたちは、その後の彼の「信仰生活」のことは知らない。聖書には記されていないからである。彼はここ以外に、ヨハネ21章2節に登場するだけである。しかし、約束されているように、彼の人生は「もっと偉大なことを見る」、見ることが許されている人生であっただろう。そして最後には、51節にあるように「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、見た」ことであろう。われわれはそのことを信じることが許されている。
 
旧約聖書にも「召命」は描かれている。イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、それぞれ召された時の様子は異なる。新約聖書でも今日見た通 りである。ナタナエルは特に「模範的」な弟子というわけではない。しかし聖書は、淡々と彼がイエスとどう出会ったかを記していた。ナタナエルがまるで自分のようだ、という人もいるだろう。ナタナエルを「来て、見なさい」とイエスのもとに連れていったフィリポの役割も忘れてはならない。
 このように見てみると、聖書では一人一人が神に、イエスに召されて、何らかの役割を与えられている。神の歴史支配に巻き込まれているのである。神はわれわれの人生に「関わり」を持とうとされているのである。この神の招きに答えること、それが召命への第一歩である。

 イエスは実に不思議な人物である。イエスは出会う一人一人を、出会う前と同じ状態のままにしておかないのである。イエスは、その人がイエスに対して心を開けば開くほど、その人を「変革」される。その人を「変革して」もとの場所に戻すことが、イエスのわたしたちに対する大きな働きであり、イエスは、そういうことが出来るのである。このイエスと、わたしたちは、今日も、今年も聖書を通 して出会うのである。それは一言で言えば、聖書の言葉によって我々が変るという約束である。51節の言葉は、これからのわれわれへの約束である。「来て、見る」。思いを一つにし、心を合わせてこのことを行いたい 。

(2005年1月2日 礼拝)

 
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