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2004年12月19日 クリスマス礼拝説教 【独り子を与える愛】南 吉衛
ヨハネによる福音書3章16~21節
 

「神も仏もない」と人は言う。もし神や仏が存在すれば、こんなにも多くのこの世の悲惨・悲しみに対して、何らかの手段をこうじ、助け、二度と起こらないようにしてくれるに違いない。しかし実際は、この世の悲惨は一向になくならない。むしろ、悲惨は増し、残酷さは激しくなるばかりである。
  神がこの世に存在しないばかりではない。それは同時に、この世に神の愛が存在しないことであると人は言うだろう。もし神が愛であるならば、この世の戦争や、迫害や、貧困はどうして起こるのか。神は、毎日世界的に何万と死んで行く乳幼児を愛していないのか。今日も起こっている多くの悲しみ、苦悩、非人間的なことは、神が愛であることとはおよそかけ離れているのではないか。このような問は、古くからキリスト教に、愛の宗教であるキリスト教に、神の愛に向けられていた。
 今日の聖書箇所一六節は(ルターは「小バイブル」と呼んだ)、この問に答えている。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 わたしたちは神の愛を自分の目で見たいので具体的なこの世の現実の中に見いだそうとする。それに対して聖書は、神の愛は多くの場合人間の目には隠されている、と言う。現実の目には隠されているが、信仰の目を持って見れば神の愛は見ることができる。神の愛の存在と、神の愛の働きは、信仰の事柄である。クリスマスはわたしたちをそういう信仰へと招く。
 そして聖書は、神の愛はこのキリストの中に輝いていると言う。確かにこの世の現実の悲惨は神の愛を感じさせない。しかし、神の愛はこの世から隠されて、キリストの中に輝いているのである。そしてそのキリスト(「救い主」)の誕生は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子が、その「しるし」となった。まさに隠れた出来事だった。
 そのことをわたしたちは、今日覚えて感謝し、祝うのである。神の愛は、初めから終わりまでイエス・キリストと深く関係している。そういう意味では、神の愛は、わたしたちの直接の願いごとを満たしてはくれない。しかし、それだけますます神の愛は、キリストを、キリストのみを指し示しているのである。それは、人間にとってこの世の悲惨が無くなることも大事であるが、それ以上に大事なことは、わたしたちがイエス・キリストをわたしたちの主、わたしたちの人生の慰め主、助け手、導き手として受け入れることだからである。言葉を替えて言えば、イエス・キリストがわたしたちの人生のすべてなのである、そのことを受け入れることである。
 次に聖書がわたしたちに告げていることは、この神の愛の広さ、深さ、豊かさである。そのことを「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と表現している。「ほどに」という言葉が神の愛の測りがたさを示している。それは独り子を、それもご自分から進んで与えるほどのものであった。
 わたしたちの知人・友人の中にも「一人息子・一人娘」を既に亡くされた方がある。その時の家族の悲しみはいかばかりであっただろうか。大事なものを失ったからである。しかし、聖書が言っていることは、それとは違う。神が進んでご自分の方から大事なもの、独り子を与えたのである。それも「この世」にである。
 「世」(コスモス)という語は、大半がヨハネによる福音書や手紙、黙示録(ヨハネ文書)に出て来る。その場合の世とは、明らかに神に敵対する世、神を信ぜず神に背を向けている世、堕落した世である。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」(ヨハネによる福音書1章10節)。世は神の愛を必要としていない。またそれに値しない。そのような、言って見れば、神を「侮っている」世に、神の独り子が与えられたのである。このような、神にとって何一つプラスにならない世に神は、その独り子を犠牲にして差し出したのである。この神の愛は測りがたい。
 次の16節後半では、神の愛がこの世に向けられたのは、一人も滅びないために、さらに永遠の命を得るためである、と語る。それも一人の例外もなく、すべての人がというのである。ドイツの元大統領ハイネマンは「キリストはマルキスト、コミュニストの為にも死なれた」と言い、ハインリッヒ・シュッツのモテットは、「すべての人が、すべての人が、すべての人が・・・(救われる為に)」と三回も繰り返している。
 「独り子を信じる」とは、イエスをキリスト(救い主)と告白すること。「生きている時も、死ぬ 時も、あなたの唯一の慰めは何ですか」の問に対し、「生きている時も、死ぬ 時も、身も魂も、私自身のものではなく、私の信頼する救い主イエス・キリストのものである」と答えることである(ハイデルベルク信仰問答)。神がイエス・キリストを通 して「何時もわたしたちとともにあろうとする」、そのことを受け入れ、喜ぶことである。真の光として来られたキリストを認め受け入れること、それが独り子を信じることである。
 聖書の神は、出エジプト記20章(十戒)でも証しされているように「熱情の神」である。神はわたしたちを熱心に愛そうとされる。それがインマヌエルの神、わたしたちと共にいて下さる神である。神はわたしたちの一部ではなく、すべてを愛して下さる。わたしたちの状態は、機械のこわれた部分を取り替える「部品の交換」では済まされない。わたしたちの不幸は、その不幸な部分だけを取り替えれば済むことではない。欠点があるのは一部ではなくすべてである。そしてイエス・キリストの神は、わたしたちの一部ではなくすべてを愛して下さるのである。自分では良いと思うことも悪い点も、罪も死もである。「独り子をお与えになったほどに」とは、そのことを示している。
 パウロは「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマの信徒への手紙8章32節)と言う。神は力を、白馬に乗って凱旋する強いイエスをわたしたちに与えたのではない。神はイエスを、弱いロバに乗せてエルサレムに入場させ、十字架に送ったのである。十字架は、神が人間の弱さと連帯して下さったことのしるしである。神は目に見える強さを放棄したのである。神はイエスを、この世的には弱い者として「低くされた者」(フィリピの信徒への手紙2章7、8節)としてこの世に派遣されたのである。そして、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というパウロの言葉を思い起こすのである。イエスが何時も弱い人の側に立っていて下さる。そして同時にわたしたちの弱さを担って下さる神をイエスの中に見いだすのである。 

 更に17節は、イエスの派遣によって世が救われるためであった、と言う。キリストの生誕百年後にヨハネが見たものは、人間が失われている状態、深い悲しみ、苦悩、痛みであった。そのことは今日も変らない。いやますますその度を増しているかもしれない。世は暗く依然として闇が世を支配している。はたしてこの世に救い、それも本当の救いが必要だろうか。現在のような状態が続けば、(二千年前も今のような状態が続いていた)、人は裁きや滅びしか期待できない。人間が自分自身と自己の業績、富、知恵、そして道徳、宗教でさえーーそれらに光を見いだしている限りは、この世は滅びしか期待できない。今こそイエスを受け入れ、イエスに目を留め、イエスと出会う必要がある。クリスマスはそのことへの招きの時である。
 キリストの到来の目的は世の救いであったが、結果的に世への裁きとなったのである。人々が光であるキリストを避けて、好んで闇の中に留まったことが即、裁きであった。人は闇の方を愛しそこに留まった。人間の目には、闇の方が明るく見え、キリストの光の方が暗く見えたのである。それは何故か。
 キリストの光は、わたしたちが常識的に光だと思っているのとほとんど正反対だったからである。聖書が証している。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(ルカによる福音書1章51~53節)。権力ある者ではなく身分の低い者、富める者ではなく飢えた人が、キリストの光によって照らされている。イエスが友と呼んだのは、品行方正で勤勉なファリサイ人ではなく、罪人や徴税人であった。彼らがイエスの友であり、そこにキリストの光が注がれている。
 19節「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」。わたしたちを闇の中に追いやったのは神ではない。わたしたち自らがそちらを選んでいるのである。自ら裁きを招いている。このままの状態が続けば、わたしたちが滅ぶのは時間の問題であると言えないだろうか。今こそわたしたちキリストを信じている者が改めて、そしてまだキリストを受け入れていない人がわたしたちと並んで、「神の愛がイエス・キリストにおいて示された」というこの喜びの福音を心の奥深くで聞く必要がある。
 神はすべきことをすべてなされた。今や、わたしたちが、光より闇が強く支配しているこの世で、どう決断するか、神が与えて下さったイエスを受け入れるかどうかである。その選択を今朝しなければならない。裁きを招いているのはわたしたち自身なのだから。
 今日の聖書箇所は最後にわたしたちを「真理の行い」へと招く。「真理を行う」とは無条件にキリストに従うこと、具体的に「光の方に」歩みだすことである。「悪を行う者」「行いが悪い者」は光の方に来ることはない。そこで最終的に神を信じているか、イエス・キリストにおいて示された神の愛を信じているかどうかが問われる。神の愛の業は、わたしたちの行動に影響を与え、その応答を求めている。このクリスマスの良き時、その招きに答えて行きたい。闇が深く、わたしたちが現実から目を塞ぎたいと思う時こそ、クリスマスの良き知らせを聞かねばならないし、聞くことが許されている。

(2004年12月19日 礼拝)

 
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