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2004年12月号 説教 【主の祈り(七) 誘惑に 】西堀俊和
ルカによる福音書 11章1~4節  
 

 主の祈りから人間への基本的で深い洞察を学んできたように思います。
  それは三つのことです。まず人間はパンを必要とすること、それがないと生きていけないほどに弱い肉であること。 次にわたしたちはみんな等しく罪ある者だということ、罪深いのは何も周りの人ばかりではなく、自分もまたそうだということ。 そして三つ目が、わたしたちは一人の例外もなく、誘惑に対して非常に弱いということです。わたしたちは絶えず色んな誘惑に晒されており、それに抵抗する力を殆どもっては いないのです。それにたやすく誘われて、破滅の道を歩んでいってしまうほどに弱い者である、ということです。
  はじめに造られた人間アダムとエバに既にそのことを見ることが出来ます。アダムとエバは,神の形に造られた極めて良い者であったはずなのに、どうして罪に堕ちてしまったのか。それはヘビと言われている悪魔に誘惑されたからだ。それにまんまとはまって罪に堕ちてしまったからだ、人間の始まりに既に誘惑と堕罪があったことを創世記の物語が表しているのです(創世記3章)。  
  誘惑は人間を罪に陥れ、神に反逆させるようにし向け、破滅に導くものである。これは間違いない。その誘い方は巧みで、見破ること、抵抗するのが容易ではありません。魅力的な誘い言葉で、一旦入り込んでしまえば、もう抜けられなくなり、地獄のような悲惨に落とされる。  
  その典型的な例として、信濃町教会が立つ新宿と渋谷を中心として、多くの若い人たちを巻き込みつつ、今や全国に蔓延している薬物中毒を挙げることが出来ます。  
  大抵の場合、キッカケは何でもないことだったという。町を歩いていたら、ちょっとかっこいいお兄ちゃんに声をかけられた。最初から危険な薬物と知っていたわけでもなく、ちょっとドキドキして、好奇心を刺激する魅力的な誘い文句に惑わされ、それにたった一度のってしまったために、二度と抜けられなくなった。  
  薬物中毒は脳の組織を駄目にするので、自分の意志では止めることは絶対に出来ない。そしてそのままでいれば、行き着く場所が三つあり、それが精神病院と死体置場、運が良くて刑務所だという。脳を殺し、心を殺し、体を殺す。これが薬物中毒という誘惑の恐ろしい実体です。  
  また最近では「お前など死んでしまえ」という誘惑があるようです。言うまでもなく、年間34,427人という異常な数の自殺者です。わたしは精神医学や心理学の話をするつもりはありませんが、ただ多くの人の心の中に「お前など死んでしまえ!もう生きていく望みはない!」そう囁いて誘惑する何かがあるのです。これを誘惑だと知らず、そこから救われることも知らないで、多くの人が自ら命を絶つ不幸が後を絶たない。  
  もうすぐ戦後六〇年を刻むわたしたちの歴史と今日の社会の現状を振り返る時、私自身もこの国に生きて来た者の一人として、深い懺悔を持って顧みざるを得ない。子供、若い人、老人など弱い立場の人を標的にした事件、または家庭を狙った凶暴な事件が後を絶たない日本の現状について。わたしたちは誘惑というものに余りに無頓着だったのではないか、と。  
  自分はいつも自分自身の力で何でもしっかりやってきたと、果たしていえるだろうか。誘惑に晒されてるのに気付かず、何かに踊らされているのに気付かず、恐れないでもいいものを恐れ、張らなくていい見栄を張り、食べたくないものを食べさせられ、本当はやりたくないことに付き合わされている。自立しているつもりで、何かに依存し、何かに脅かされている。むさぼりの誘惑に翻弄され続け、いつまでも不満で、感謝できないでいる。偽りの栄光を求め、偶像を崇め、追い回され、疲れ果 て、かくも凶暴と成り果てた。なんと多くの時間がそれのみに費やされて来たことか。と思います。  
  わたしたちは目を覚ましたい。社会の背景に何か大きな誘惑の力があったのに、今まで気付かず、それと戦うということに余りに無自覚だったのではないのでしょうか。 「わたしたちの戦いは,血肉を相手にするものではなく、支配と権威,暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6章12節)  
  わたしたちを誘惑する何かがある、聖書で「悪の諸霊」、又はサタン、悪霊、悪魔、創世記ではヘビと呼ばれているものがある。これは「時代の制約を受けた神話的表現」とは言い切れない。今でもそう言うものがある。私はオカルトの話をしているのではない。いっそそれなら判りやすくていいのだがそうでは」ない。神はキリストによってご自身を明確に表された。しかしサタンはとらえどころなく、正体はつかみにくい。  
  キリスト者で「ある」と言うことは、抵抗せず流されていれば、それなりに楽に過ごせる誘惑に目を覚まして戦うことです。「誘惑にあわせないで、悪からお救いください」と祈ることは、この誘惑に満ちた世界の中で、目覚めて祈り、誘惑との戦いに備えていくことになる。教会は盤石な基盤の上に立った堅固な要塞と言われますが、また別 なたとえでは嵐の中の小舟です。人間を駄目にする誘惑の嵐、信仰を捨てさせる誘惑の嵐、それに翻弄され、今にも転覆しそうな小舟、それが教会です。  
  そのことを思う時に、主イエスご自身がわたしたちのように、そしてわたしたちよりも厳しい仕方で、40日間、悪魔から誘惑を受けられたというエピソード(ルカによる福音書4章3~13節)に聞くのは有益です。主が誘惑と戦ったときに、大切なことが明らかになったのです。  
  悪霊は主イエスをどのように誘惑したのか。詳細な解説をしている暇はないが、一言で言うと、意外にも悪霊はイエスを十字架につけるまいとして誘惑したのです。「あなたはどうして苦しみを受けるのか」「あなたは自分の力を利用して宗教的にも世俗的にも英雄にもなれるじゃないか。どうして人々の上に立って支配しないのですか。」「どうして人々と共にあろうとするのですか。」「どうしてあなたは十字架につこうとするのか。」
  わたしたちがしばしば聖書を利用して自分を正当化させようとするように、悪魔は聖書さえも利用して、イエスを地上の支配者へと誘惑し、自分たちに屈服させようとした。しかし主はただ神の御心がなるように祈り求め、自分を捨て、仕え、へりくだり、与えることで、即ち十字架への道を選ぶことで、悪魔に勝利されたのです。  
  恐ろしい誘惑に勝利する力、それは主イエスの十字架の福音にあります。誘惑の嵐にいる中でわたしたちもまた十字架の福音が力になる。  
  通常「ゲツセマネの祈り」と呼ばれている主イエスの祈りは、ルカ福音書ではオリーブ山での出来事だったと伝えられています。(ルカによる福音書22章39~46節)  
十字架の前夜、主は「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と切に祈られたのです。それは「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた.汗が血の滴るように地面 に落ちた.」とあるほどに激しいものでした.しかし主が祈り通されたことは「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」でありました。  
 そこには弟子たちも同行致しましたが、主はそこで弟子たちに二度命じられたことがあり、それは「誘惑に陥らないように祈りなさい。」と言うことでありました。やがて弟子たちは悲しみのあまり眠りこけてしまった。主がその弟子たちを励まし、起こし、促し続けたのは「誘惑に陥らないように祈る」ことでした。 「主よ、御心のままに」「誘惑に陥らないように祈りなさい」。オリーブ山の祈りは主の祈りとよく似ています。ゲツセマネの祈りは主の祈りではないかと思います。  
  わたしたちもまた、誘惑に陥って眠りこける。誘惑の襲ってくるのに無頓着で眠りこける。また悲しみのあまり眠るこける。主はもうおられないのではないか、と絶望して祈りを止めそうになる。しかしそのわたしたちの傍らにあって主が「誘惑に陥らないように祈りなさい」励まし続けてくださるのです。 「わたしではなく、あなたの御心がなりますように。」主イエスご自身の痛みと苦しみを伴った十字架の祈りがあり、それは天の父にわたしたちをとりなす祈りです。  
  わたしたちが祈るとき、十字架の主は傍らにあって、とりなし祈ってくださいます。誘惑に陥らず、目を覚まして祈れ。十字架は勝利だ。御心が勝利し、支配するため。十字架の主が明らかになることだ。そこに誘惑する恐ろしい力への勝利が約束されているのです。  
  最大の罪は絶望することです。もはや望みを捨てて祈らないようになることです。誘惑に陥らないように、眠りこけないように目を覚まして祈ることです。  
  祈りは神につながることです。若い人々を見ていると、つながりを保ち続けることの大切さを思います。学校、家庭、友人、これらのつながりを保ち続けることの大切さ。悪魔はつながりの切れてしまった者を恐ろしい力で連れ去ってしまいます。  
  祈ることはつながることです。差し伸べられた神の御手につながり続けることです。  
  十字架の言葉は滅んでいくものには愚かなものだが、信じる者には神の力です(コリントの信徒への手紙一、1章18節)。絶望しないで、祈り続けるところに、勝利があります。 
  そこに神のみ手があるからです。  わたしたちは主イエスによって神を「父よ」と呼ぶことを許されています。その親密さに招かれています。その父がわたしたちを敵対する誘惑の中に放っておかれるはずがありません。どんな誘惑も父なる神の愛からわたしたちを引き離すことは出来ないのです(ローマの信徒への手紙8章38、39節)。

(2004年9月19日 礼拝)

 
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