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2004年9月5日 礼拝説教【十字架の言葉に立つ】南 吉衛
コリントの信徒への手紙一  1章18節~25節
 

 今日の日を感謝と喜び、そして畏れを持って迎えた。旧会堂は73年の風雪に耐えた。今般 の会堂は100年の使用に耐えると工事関係者は言われる。それは感謝すべき事実である。しかし、どんなに素晴らしい建物であっても、それは所詮永久のものではなく、「土の器」でしかない。つまり、この素晴らしい建物の「基礎」が頑丈であっても、教会としては、そこに「立つ」ことはできない。それでは、わたしたちはどこに立つのか。何を本当の土台にするのか。  今日の聖書の言葉、特に18節は、パウロ の信仰の核心をついたものである。信仰者パウロ、説教者パウロは、その30年の伝道者としての生涯で何を語りたかったのかである。それも彼は、何か、聖書の他の個所でも展開している、キリスト教の教え、そのドグマをここで単に述べているのではない。そうではなく、自分が労してその形成に加わったコリントの教会が、分裂の危機に陥っている。その人々への手紙の中で訴えているのである。  

  教会の中で分裂や争いが起こる大きな原因は何であろうか。それはコリントの教会の場合も、またわたしたちの場合も変わらないと思われるが、人間が力・知恵・能力を「誇る」ことに起因している。本来人間には、神の前に何も誇るものはないはずである。しかし実際神が中心であるはずの教会においても、人間が力・知恵・能力を誇ることが原因になって、争いが生じる。そういう具体的な問題を視野に入れつつ、教会は、もっとも大事なこととして、何を語るべきかを述べている。 パウロは言う。「十字架の言葉は滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(18節)。
 十字架の言葉は、神の力である、その十字架の言葉を教会は語るべきである、と言う。それは人間の力ではない。しかも人間の目から見ると、到底力とはなり得ないものである。このことをパウロは、旧約聖書イザヤ書(ギリシャ語訳29章14節)を引用して訴える。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする」。  
  この言葉は、元々彼の祖国ユダに対する神の「裁き」である。ユダの指導者は、エジプトと軍事同盟を組んで自国を守ろうとした。つまり、神に信頼して預言者の言葉を聞こうとするのではなく、自分たちの知恵と計画に頼ったのである。当時のイスラエルは宗教的な民族として、唇では神を敬うが心は神から離れているとイザヤは鋭く批判する。  
 このイザヤの言葉には、神の言葉に信頼するのではなく、自分たちの知恵と計画に頼った愚かな指導者の行為に対する批判、それに対する神の裁きが語られている。具体的には、エジプトと軍事同盟を組んで自国を守ろうとした政治・宗教の指導者に対する批判である。指導者には、この自国の一大危機に、軍事力に頼らないでどうするかという意識があったのだろう。小さな国が、大きな国と同盟を結ぶことなく、戦国時代をどう生き延びるかであった。結局イザヤの言葉は聞かれなかった。それは「愚か」としか受け取られなかったからである。  
  旧約の時代の政治的指導者にとって預言者の声が「愚か」であったように、今パウロが語る十字架の言葉は「滅んでいく者にとっては愚かなもの」である。「滅んでいく者」とは、この世の大部分の人のことである。何故ならこの世は、一言で言えば、混乱と滅びの世界であり、この人たちにとっては、十字架の言葉は確かに愚かに見える。  
  パウロの時代、二つの勢力があった。一つは聖書の民ユダヤ人であり、もう一つはギリシャ人である。彼らは時代の代表者であった。ユダヤ人は「しるし」(力・権力・富)を求めた。それを証明するものである。ユダヤ人は、モーセの事績(エジプトの兵士が追い迫った時、神は海の水を左右に分けてイスラエルの民を助けたが、エジプトの兵士たちは波にのまれた)を思い起こし、神の力ある救いの業(しるし)を求めた。そしてギリシャ人の求める知恵とは、一段高い知的な能力、哲学のことである。知を尊ぶギリシャ人は知恵を求める。知恵を求める努力とその成果 が、身の安全を守る保証となると考えた。ギリシャ人にとって、救い主は(自分たち以上に)哲学の賢明な教師であるべき。そうであればイエスは信頼されただろう。  
  このような言わば時代の風潮に対してパウロは語る「神は、イエス・キリストにあってこの世とはまったく異なった力・知恵を明らかにした」と。神の救いは十字架によってもたらされた。メシア(救い主)が十字架に架かるという恥ずべき、無力な死である。そして十字架が無力であれば、それを内容とする言葉(ロゴス)は、失われ、滅び行く世界にはナンセンスと見える。  
  この恥ずべき、無力な、十字架という言わばショッキングな出来事が、神の本質を表す真理であるとすれば、われわれキリスト者の価値はまったく変わることになる。つまり、十字架によってすべてのものが再評価されねばならない。イエスの死は、キリスト教の中心的な出来事である。パウロは、このレンズを通 してこの世のすべての出来事を見ようとする。この世の知恵、力、富に対立する十字架。十字架の死を通 してこの世を見る時、この世は変わって(違って)見える。  
  何故なら神がこの世の救いのために取られた方法は、ショッキングで驚くべきものである。「宣教という愚かさ」。常識的な観点から見れば、十字架を中心に持って来ることは、愚かである。イエスの十字架の死という恥ずべきことがどうして世の救いになるか。しかしパウロは、それこそが福音であると言う。十字架は哲学の一形態でも、より良い生活への処方箋でもないのである。  
  今日の聖書箇所の少し先で、パウロは言う「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」(2章2節)。「十字架につけられたキリスト」だけを知る、この人にすべてを賭ける、このことにパウロは集中している。  注意することは、パウロが「十字架につけられたキリストだけ」と言う時、わたしたちにとって大切な「わたしの罪をキリストは十字架上で贖って下さった、十字架においてわたしの罪は赦されている」、そういう考えはこの時のパウロの眼中にはなかったことである。人々の関心は、十字架が如何にメシアと結び付かないか、であった。何故なら、「十字架」は「ローマの平和」の妨害者・反逆者への見せしめであり、犯罪者への、残酷とは言え、正当な刑罰であり、ローマの権力を誇示するものであった。旧約の考えでは「木に掛けられた者」は神の呪いの下にある。旧約からは、メシアが苦しむこと、他者の重荷を負うことなど考えられない。しかしイエスの十字架は、この権力に勝利するとパウロは確信を持って語るのである。ここにこそ、この逆説的な事実の中にこそ、真理がある。  
 その際、わたしたちにとって大きな慰めは、福音宣教を先導し、それに力を与え、それを完結へと導くのは、われわれではなく、神である、われわれの力ではなく、神ご自身の力であることだ。唯、われわれは、いまだ神を知らないこの世界にあって「神の国」を代表する者である。既にイエスを通 して来てはいるが、未だ完成はしていないものとして、わたしたちは、終わりの日に向かって、この出来事を告知して行くのである。  今日の聖書個所でイザヤが引用した言葉は、「滅ぼす」とか、「意味のないものとする」とか、厳しい響きを持っている。神がこの世界を見られる時、そのようにしか映らない、そのような裁きが事実必要であることには変わりがない。しかし、聖書は、十字架の言葉は裁きと同時に「恵み」の言葉である、そこには深い慰めがあると言う。それはキリストの十字架自身がすでにわたしたちにとって大きな慰めであるからだ。  
  もしキリストの十字架以外のものが真理であり、わたしたちが担うべき課題であるとすればどうであろうか。御言葉以外のものが真理であり、教会はそれ以外のものに従わねばならないとすればどうであろうか。事実教会はそのような誘惑に何時も晒され、それ故に教会の中に争いが耐えず、分裂が耐えなかった。教会は、社会の中にあって「地の塩」、「世の光」の役目を担ってこなかった。この手紙の名宛て人、コリントの教会が正にそうであった。  
  そのことを思う時、十字架の言葉こそが神の力であると語ることは、それ自身、神の導き、聖霊の導きなくしては不可能であることを知る。十字架の言葉を語ることは、教会が何か文化的なことを語ることではない。十字架の言葉に「ついて」語ることでもない。かつて、イエスが罪もないのに十字架に架かって殺されたと歴史的な事実を語ることでもない。そうではなく「宣教という愚かな手段」を用いるのである。普通 は、愚かと分かっていれば愚かでない方法を取るのである。しかし聖書は言う、「神の愚かさは人よりも賢く神の弱さは人よりも強い」と。それが愚かであるからと言って、わたしたちは他の手段を選ぶことはできない。そもそも、聖書の神が神であることは、その愚かさにおいて、その弱さにおいて表されるからである。パウロが「(神の)力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言っている通 りである(コリントの信徒への手紙二、12章9節)。  
 違った言い方をすれば、十字架の言葉は、ここで、それを聞いた人の間で、自ら動き出すのである。慰めの言葉として、裁きの言葉として、教会の意図、語る人の意図を越えて、その言葉自身が働き出すのである。人々を救う言葉として、その言葉に従おうという思いを持たせ、実際にそういう人が出てくることを通 して、働くのである。その意味でも、十字架の言葉は、神の力である。  
  わたしたちは、今こうして目に見える立派な会堂が与えられた。しかし、これからこの立派さを誇り、頼りにするのではない。そうではなく、神の力・業は弱さの中で、無力さの中で、更には隠れた所で、多くの人の目に触れないところで表されることを語り伝えて行かねばならない。今日から毎日毎日年輪を増していくこの新会堂で、日々新しい言葉を頂き、さらに宣べ伝えていかねばならない。その喜びに共にあずかり、神が力を与えて下さるように共に祈りたい。

(2004年9月5日 新会堂第一回礼拝) 

 
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