わたしたちの罪を赦してください,わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから.(ルカによる福音書11章4節)
「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく,我らの罪をも赦したまえ.」
そう口に出して祈ることは何もむずかしいことではありません.長くないし,
意味の分からない言葉もないでしょう.
しかし,これほど祈りにくい祈りはないのです.信仰生活は主の祈りを繰り
返し祈る生活ですが,何度繰り返してもこの祈りだけは抵抗がある.「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」この祈りの声は大きくても,「われらに罪
を犯すものを我らが赦すごとく,我らの罪をも赦したまえ.」ここだけは声が小さくなるのです.
それは「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく」になっていないからです.とても赦せない誰かがいるのです.赦すわけにはいかない経緯があるのです.
それなのに,「われらに罪を犯すものを我らが赦すごとく,我らの罪をも赦したまえ.」と祈るのは不誠実な気持ちがして,心に痛みを感じる.素直に祈れないことで自分の不信仰を痛切に感じる.しかし絶望せずに祈り続けるべきです.
このことを高みに立って見下ろすように,語っていると思われたくありません.傷つけられた心の痛み,赦せない苦しみ.そういう人の癒されがたい苦しみを何でもないかのように,「他人の罪を赦してあげなさい.あなたはそれでもキリスト者ですか?」などと言っていると思われたくありません.それは律法主義者の言い草です.
「祈る時には,こう言いなさい.『父よ,...わたしたちの罪を赦してください,わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから.』」イエスはこういって弟子たちを赦せない苦しみの中へ突き放しただけでしょうか.
聖書では罪は「負い目」とも表現されています.罪とは,返し切れない負債,
借金のようである.また貸したのに返ってこない借金のようである.罪を赦す
とは大損をすることです.馬鹿を見ることです.失われたものを取り返すことは出きないままで,相手の負債額を帳消しにすること.赦すことは得をすることではない,大きな痛みを伴うことです.
『父よ,...わたしたちの罪を赦してください,わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから.』」この祈りは主イエスの十字架上の祈り「父よ,彼らをお赦しください.自分が何をしているのか知らないのです.」(ルカ23:34)
に似ているような気がします.主イエスが苦痛の極みでこれを祈ったことを思う時,罪を赦すことは激しい痛み,苦しみを被るものだということがよくわかるのです.
主イエスを死の苦しみにあわせ,あざ笑った人々は、自分が何をしているの
か知らないでいたという.罪の痛みを知らないでいる.神と人に対する負債の
多さ,また更に罪に罪を,負債に負債を重ねている愚かをを知らないでいる人
間の有様.しかし主イエスだけがそれを知っている.十字架で負わされた痛み
と恥,死の裁きの恐ろしさを身に負わされている.
日本には「みそぎ」という便利な習慣があるが,罪の赦しはそんなものではない.赦すとは見過ごしにするのとも違うし,水に流すものでもない.罪はとっても見過ごしに出来るような軽いものではない,はっきりと見定められなけ
ればならない.また罪は水に流れない。血でなければ洗い清めることは出来ない.赦しは血を流すことなしには済まない.
罪の赦しをみそぎと区別のつかない時,自分は何をやっても赦されるのだとのんきに考えるおかしな自由主義に陥っている時,罪を放任する無責任に逃げる時,それは十字架を見失っているのであり,自分が何をしているのか知らないでいるのです.罪の赦しが軽んじられているなら、感謝も畏れもない。
敵を赦せない時、わたしたちの感じる激しい心の痛みは,確かに主の十字架に通
じるものである.被らねばならない大損,帳消しにされた負債額の大きさを十字架は物語っている.敵を赦すことで取り返せない痛みの大きさ,悔しさ.そして主はわたしたちのために被らねばならないそれらを忍ばれたのです.
「父よ,...わたしたちの罪を赦してください,わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから.」
わたしたちが赦せない敵を赦すことは,わたしたちが赦される条件なのでしょうか.それならば,わたしたちのうちの一体誰が罪を赦されると言うのでしょうか.主イエスはまるで律法主義者のように「他人の罪を赦してあげなさい.
あなたはそれでもキリスト者ですか?」などと言っているのだろうか.
そうではないのではないか.それでも赦さなければならない,というより,
それでも赦すことが出来る、ということではないか.恵みがわたしたちを支配しているからです.
神の国は主の恵みの支配するところです.恵みとは価なくして与えられるもの.返せるはずのない借金を帳消しにされるようなもの,赦されるはずのない
罪が赦されること,償いようのない罪があがなわれること,乗り越えられるはずのない敵対関係が打ち壊されて和解へと導かれること.これらがわたしたち
に与えられ,わたしたちの被った大損や痛みに,まさにそこに恵みによる癒しが与えられる.そのことに期待していいのです.
「わたしたちの罪を赦してください,わたしたちも自分に負い目のある人を
皆赦しますから.』と祈るのは,倫理的に正しい人間になるためというより,
恵みに期待するからなのです.「わたしたちの罪を赦してください,」とは恵みを乞う祈りなのです.
使徒信条によれば教会は<罪の赦しを信じる>教会です.教会には恵みがあ
ふれている.罪の赦しが満ちあふれている.キリストの十字架から恵みが溢れている.罪の赦し,神から与えられた和解という恵みが溢れています.この恵みを覚える時が礼拝です.罪の赦しは説教壇と聖餐卓から溢れ出ているのです.そして教会から世界へと神の平和は溢れ出し,やがてはキリストにあってすべ
ては和解し、一つとされる.それが聖書に記された神の秘められた計画(救済
史)です.わたしたちはその完成の途上に置かれている.
人を赦さなければ救われないとしたら,敵対関係ばかりを生み出しているわ
たしたち罪人に全く何の希望があろうか.罪を赦し,和解を成し遂げられたのはわたしたちではなく、主イエスです.赦さなければ救われないということより,赦されたのだから,赦すことが出来る,と信じられる.
主が和解をもたらして下さったのだから,またわたしたちにも和解と平和のために奉仕する道が開かれている。
教会をダメにするものがあり,それは互いに裁きあうことです.それぞれが自分の正しさに固執し続けることで,罪の告白は失われ,和解は失われ,対立
が起き,教会はだめになる.教会にゆだねられている福音は和解の福音です.罪の赦しを述べるべきであって,罪の告発に終始すべきではありません.
教会には罪の赦しが溢れている.和解という現実はキリストが既に起こして下さっているのです.現に主は神と敵対する罪人であるわたしたちに神を<父
よ>と呼びかけることを許して下さっています.すでにわたしたちは神を父と呼び,和らぎの関係に入れられている.その恵みは現にある.恵みを信頼しよう.信じられなければおしまいです.信仰にのみ勝利がかかっています.
(2004年8月22日 礼拝)
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