信濃町教会        
トップページ リンク アクセス
われらの志 信濃町教会の歴史 礼拝 牧師紹介 集会 新しい友へ
説教集 教会学校 会堂について パイプオルガン 神学研究・出版助成金

  説教集  
     
2004年7月25日 礼拝説教 【主の祈り(五) パンを】西堀俊和
イザヤ書55章1~5節
ルカによる福音書11章1~4節
 

 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。

 今まで学んで来た3つの祈り、これらは「あなたの御名...」「あなたの御国...」「あなたの御心...」という、「あなた」つまり神さまのための祈りでした。
 しかしここからは、「わたしたち」の祈りになります。「わたしたちに日毎の糧を...」「わたしたちの罪を...」「わたしたちを誘惑に...」。
 ここでお断りしておかなければならないのは、ここでいう「わたしたち」とは全人類というより、まず教会のことです。これは主が弟子たちに教えられた祈りであり、天にいます神を「父よ」と呼ぶことの許された者たちの祈りなのです。
 主イエスご自身の祈りから、弟子たち自身のための祈り、わたしたち教会の祈りになるのです。神中心の祈りの中に「わたしたち」が入ることになる。神の交わりの中に「わたしたち」教会がいる。

 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ。」この祈りは生きるのに欠かせない食べ物を求める祈りです。
 「祈るときには、こう言いなさい。」と、毎日、そして折あるごとに、祈り求めなさい。あなた方のために祈るべきはまずそのことだ、と言ったのです。
 「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」これがマタイ福音書6章では「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」(6:11)とあり、ルカには「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」とあります。どこが違うかと言いますと、マタイでは「今日」、ルカには「毎日」与えて下さい、とあることです。「今日」から「毎日」。だから世の終わりまで、毎日わたしたちはそのように祈る。

 主イエスは知っておられます。人間はパンなしに生きられるものではない。あなたたちは父にパンを求めなさい、それが毎日与えられるように。そうでなければ、あなたたちは生きていけないではないか、というのです。
 聖書とはなんと人間の現実をよくよく知っている書物か、と思います。よく言われるのはこ「そんな高尚な話、私のような人間には判りません。地べたを這いずり回って生きている私のような人間には関係ありません」
 しかし聖書はそういう地べたを這いずり回って生きているような人間を知っており、聖書には、神様は高尚な話の判らない人間をこそ深いまなざしをもって見つめておられることが記してあるのです。
 人間とは、土に帰るその日まで、汗を流してパンを求める。(創世記3:19)そうでなければ生きていけないんだ。「人を偏り見るのはよくない。だれでも一片のパンのために罪を犯しうる。」(箴言28:21)という聖書の言葉があります。
 パンを食べなければ、生きていけない人間の弱さを聖書は知っている。パンが食べられないことで、罪を犯してしまう人間の悲しさに、神ご自身が目を注いでおられることがよく判るのです。
 だから主イエスはパンを求めて祈りなさいと勧めるのです。もし飢えてしまうことがあったとしたら、あなたがたは生きていけない、罪をさえ犯してしまう、そんな弱い人間じゃないか。

 神様を信じることはいいことだ、などと言っているのは、まだまだのんきな話で、その昔、神様を信じるしか生きていく方法がなかった人々がいたことをわたしたちは、知っています。奴隷の家、エジプトを出て、荒れ野を旅した神の民イスラエルです。
 神の民イスラエルは、生きるか死ぬかの荒れ野の旅で、ただひとつの道に活路を見いだしました。豊かさのない荒れ野の中を生き抜くたったひとつの方法、それは神に頼ると言う道です。神に頼る。その導きに従う。ただそれだけに生存の可能性をかける。そしてその民に、主なる神はマナというパンを降らせ、神はその民を養われたのです。(出16章)しかしカナン定着後、イスラエルは物質的に豊かな生活を享受するようになり、そこから裁きを招く堕落が始まったのです。神様に頼るということをしなくても、パンを食べられるようになった。

(先ほども触れた)旧約聖書の箴言には、こんな祈りがあります。
7二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。
8むなしいもの、偽りの言葉を
わたしから遠ざけてください。
貧しくもせず、金持ちにもせず
/わたしのために定められたパンで
/わたしを養ってください。
9飽き足りれば、裏切り/主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働き/わたしの神の御名を汚しかねません。(箴言30:7~9)

 飢えたら罪を犯すほどに弱く、満ち足りれば神など何者かと傲慢になる。ならば、最もよいのは、飢えているほどではないが、満ち足りているわけではない状態、むしろ困り果 てて、万策尽き、神に頼るしか生存の可能性はない。それがいちばん良いのです。
 パンを与えて下さいとの祈りを、切実な叫びを天の父、わたしたちの父なる神が聞かないはずがありません。
 29あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。30それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。31ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。(12:29-32)

 パンの祈りと神の国を求める祈りは別個のモノではない。これはひとつに結ばれた祈りなのです。パンを求める祈りは神の御国を求める祈りです。

 パンを食べて、本当にそれで満たされたことになるのか。飢えを満たす。絶えず欲望を満たし続けるシステムから自由になって感謝するようになれない。いつまでたってもなれない。
 「わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。」と祈れ、と勧めた主イエスは『人はパンだけで生きるものではない』(4:4)とも言いました。それはどんな時だったでしょうか。お腹が一杯で満たされきっていた時でしょうか。そうではありません。飢えの極みの中で、試みる悪魔の誘惑に抵抗しつつ、そう言ったのです。

 29あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。...あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。31ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。(12:29-32)

 パンを求める祈りは、また「御国を来らせたまえ」との祈りでもあるのです。パンが与えられる時、それはわたしたちに御国が到来しているしるしでもあると言っていいかも知れません。
 主が起こされた出来事のひとつを思い出します。主イエスがパンを祝福して祈ったところ、男だけでも5000人もの人びとの飢えが満たされたと言う出来事です。(9:10~17) 多くの人々がそこに集まって、主イエスの御言葉に聞き入っていた。弟子たちもそこにいた。やがて日も暮れ、人々はおなかをすかせはじめました。この時、弟子たちは困った状況に置かれました。
 十二人がこの人たちの有様を見て、「群衆を解散させてください。」と申し出たところ、主は「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言う。弟子たちは困り果 て、主イエスに文句さえ言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。」パンはあるにはあるが、それは余りにも少なすぎたのです。

 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。(9:16-17)

 多くの人が満腹する出来事、それが主イエスの熱心に説かれた神の国の支配です。この時主イエスは地上のほんのわずかなパンを祝福した。それが大きな祝福となってすべての人々を満たしたのです。主イエスの祝福は、ごくごくわずかなパンを溢れるばかりの神の恵みに変えたのです。
 この時の弟子たちに學ぶところがあるとすれば、大勢の弱り果てた人々を前にし、困り果 て、主イエスに文句を言いながらではあったにせよ、持っているわずかなものをすべて捧げたことです。わたしたちも多くの人々の抱えるひどい現実を前にして、為す術もなく立ちつくすことがある。自分たちの持っている物は余りにも乏しく、課題は余りにも大きすぎる。しかしそれでもその乏しいものを捧げる勇気や信頼があるならば、父なる神は溢れるばかりの神の国を与えて下さるのです。
 5000人の人々と12人の弟子たちは分かち合ったのは、彼らの持っていたパン五つと魚二匹でありました。パンの祈りにつながる神の国はどんなわずかなものでも分かち合う世界であるということです。
 神の国とパンを結ぶもの、それは教会です。それは聖晩餐において、最も明瞭に表されます。祝福されたパンは独り占めされるべきではありません。裂いて分かち合うモノである。パンを分かち合って、共に与る食卓。イエスは罪人らと食卓を囲んで神の国を表されました。敵対する者同士は食卓を囲まない。食卓を囲むのは愛のしるしです。
 教会はその食卓です。そして伝道とはこの食卓に一人でも多く招くことです。そして教会形成とは、このパンを本当に一人一人が分かち合うように気を配ることです。
 或る者は、腹をすかせ、或る者は酒に酔っている。これは共に食卓を囲んでいる状態とは言えない。力あるものが欲しいままに豊かさを享受し、貧しい者が飢えている。主のみ体なる聖晩餐、そして主の体なる教会の正しい姿ではない。貧しく飢えている兄弟姉妹がいるのは、救いでもなく恵みでもない、裁きの下る群れの姿です。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(1コリント11:29)とある通 りです。

 教会には様々な活動があり、それぞれに課題があります。そしてそれらすべてがひとつの目的のもとに建てられていることを忘れてはなりません。そのただひとつの目標とは、一人でも多くの人々を主の食卓に招くということです。
 独り占めすれば、裁きがあり、分かち合えば合うほど、恵みは溢れるばかりに広がっていくのです。それが主イエスの表された神の国です。
 この度わたしたちに大きな食卓が与えられました。新会堂です。この喜ばしい主の食卓に一人でも多くを招く。与えられた感謝はこの世での応答として、広がっていくのです。

 本当のパンとはイエス・キリストです。パンを与えて下さいとの祈りを、主イエスによって聞いて下さることでしょう。そして喜んで与えて下さるでしょう。御子キリストの血と肉と言うパンです。
 そしてわたしたちの体と霊を生かす神のみ言葉です。御言葉の糧、思えば不思議な言い方です。「人はパンのみに生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」聖書の御言葉という糧を受け、共に食卓を囲む。教会と言う食卓。それによってわたしたちは神の国に既に生きるのです。


(2004年7月25日 礼拝)

 
<説教集インデックスに戻る>


Copyright (C) 2004 Shinanomachi Church. All Rights Reserved.