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2004年7月11日 礼拝説教 【主の祈り(四) 御心が】西堀俊和
箴言19章21節
マタイによる福音書6章9~13節
 

 10 ...御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

 (主の祈りはルカによる福音書の11章とマタイによる福音書6章の二箇所に書かれてあります。しかしルカ福音書の「主の祈り」には通 常わたしたちが「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」と祈っている祈りがありません。これについて色んな見方がありますけれども、結局のところ、本当の理由は判りません。今回はルカからいったん外れて、マタイによる福音書6章をテキストに挙げさせていただきました。)

 御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」は、神さまの御心を求め、その実現を求めている祈りです。神の住まわれる天には既に神様の御心がなっており、それがわたしたちの暮らす地の上に実現しますように、という求めです。前回の「御国が来ますように」という祈りと大変よく似た内容と言えます。
 「天におけるように地の上にも。」改めて顧みてみると、実に天と地は引き裂かれているという現実を思わざるをえない。神のいます天とわたしたちの暮らす地上の有様が大変かけ離れた状態であるわけです。  
  天には正義があり、地上には不正に溢れている。天は命に充ちており、人間には死が定められている。天には祝福があり、地には悲惨がある。天には神の御支配があり、地上には人間の傲慢な自己中心がある、と言う具合です。このように天と地、神様とわたしたちとの間が引き裂かれた状態にある、これが聖書で言うところの「罪」です。天と地が引き裂かれた罪という状態に置かれながら、わたしたち教会には「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」と祈ることが勧められているのです。

 「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」わたしたちがそう素直に祈ることが出来ないということは確かにあるのではないでしょうか。何かが心を鈍らせていて、この祈りの本当のところを見えなくしているということはないでしょうか。
 わたしたちの根本的な人生観と、この祈りが衝突をしているからとも言えます。わたしたちが神様の御心よりも先に、自分の意志や欲望を優先させたいと思っており、神さまのみ心がこの地上でなりますように、という口では祈っているが、実はそれを拒否しているということが起こっている。あなたの人生の目的とは何ですか、あなたにとって一番喜ばしい人生とは何ですか、と聞かれたとする。本音の部分では、自分の欲望を他人よりも少しでも多く達成することが最も喜ばしい人生だと思っている。
 しかし主の祈りはそれと全く対立しているのです。本当によいことは神様の御心が地上を、そしてあなた自身を支配することだ。そうなると本音の部分で神様の御心なんて迷惑だ。一番いいのは何でも自分の思い通 りになることじゃないか、というわけです。

 東京は巨大な欲望のスーパーマーケット、とにかく人間の欲望を満たす一つ大きなシステムになっているような気がします。わたしたちはあらゆるサービスを受けることに余りにもなれてしまっている。だから大人も子供も自分思い通 りにならないとエラく腹をたてる。
 自分の欲望(支配欲、金銭欲、食欲、性欲、「欲」という字がつく言葉をすべて思い浮かべるといい)、願望、時としてそれは切実な願いでもある。自己実現。自分の夢を実現させる。それはしばしばよいことだと言われる。自分の思いを実現させるため、最優先させる行き方。それを満たすことばかりを追い求める。それはしばしば「天国」とさえ言われるが、実は「地獄」なのです。地獄とはやりたいことをやり尽くし、果 てのない満足を求め続ける世界のことです。
 そのような地獄にはっきりとノーと言うのが「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」という祈りである。特にわたしの思いではなく、主よ、あなたの御心を為して下さい、と祈るとは、神と人、引き裂かれた天地の間にあって、厳しい思いをさせる。自分の思い通 りには行かないことを確かに意味しています。

 それとは別に「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」素直にそう祈れず、この祈りに不満や不安さえ、或いは抵抗さえ覚える切実な理由があります。それには神の御心を求めようにも、それが何か判らない。自分たちの目にはそれがしばしば気まぐれで、非情な者にさえ思えるからです。
 天地は神が創造し、祝福されたものと聞いている。しかし地上の現実はどうか。戦争は続き、不正に満ち、病い、貧困、死、深刻な問題に満ちているじゃないか。人間の悲しみ、嘆きは地上に溢れかえっており、解決の手立ては全く立たない。
 「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」とはどういうことか、「御心はどこにある。」誰もが口にするのです。天と地は引き裂かれたままである。神が何かを始めようとしているとはとても思えない。御心ははかりがたく、判らない。
 神は沈黙したままである。地上に溢れる不幸や災いの責任を神に問い、神を被告席に立たせて神の愛を疑い、否定し、人間の悲惨を放置される神を告発する人がいます。
 また神の御心を問うことさえもはや諦めや、出来事をそのままに受け入れるしかないと思っている人がいます。その場合、神は「運命」と呼ばれます。運命という神の支配をあきらめて受け入れる。「何事も運命なんだから仕方ないよ、神様には所詮逆らえないんだ。」この時「御心の天になるごとく、地にも為させたまえ。」という祈りは、すべてを成り行き任せにして、流されるままに生きるのと同じことになる。

 そこで思い出すのは、旧約聖書のヨブ記です。ヨブは神も認めるほどに、責めるべきところがない無垢な人でした。神に対しても、人に対しても誠実を尽くして生きて来たヨブ。ところがこのヨブが大変な不幸にあう。愛する家族と財産をすべて失い、自らも全身を陶片のかけらでかきむしるほどのひどい皮膚病にかかってしまう。そしてこれが確かに神ご自身の起こされた出来事だとヨブは知る。
 深い嘆きの淵から、ヨブは神に対して、激しい叫びをあげる。

9:2 それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか。

20 わたしが正しいと主張しているのに/口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる。
21 無垢かどうかすら、もうわたしは知らない。生きていたくない。
22 だからわたしは言う、同じことなのだ、と/神は無垢な者も逆らう者も/同じように滅ぼし尽くされる、と。
23 罪もないのに、突然、鞭打たれ/殺される人の絶望を神は嘲笑う。

 ヨブの嘆きは神に対する抗弁です。神の御心を求めているのです。三人の友人たちと激しい論戦を繰り広げるつつ、ヨブには神の御心は判りません。ただヨブに見えたものは神の知恵ははかりがたい、ということと、神と人は余りに深い溝があり、あくまで神は正しく、人はいかに正しく生きようとも御前に罪ある者とされ、裁かれるしかないのだ。天と地が引き裂かれた辛い現実をまざまざと見せつけられる。
 天と地は引き裂かれている。神と人間は共存しない。神が表される時、人は滅び行き、消え去ってしまうこの神と人との間には「罪」という深い裂け目が横たわっている。その故に人間の滅びは決まっている。
 しかしそれでもヨブはその深い溝をこえてでも、叫び続ける。

32 このように、人間ともいえないような者だが/わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら
33 あの方とわたしの間を調停してくれる者/仲裁する者がいるなら
34 わたしの上からあの方の杖を/取り払ってくれるものがあるなら/その時には、あの方の怒りに脅かされることなく
35 恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と。

 聖書には創造主なる神の御心を求めて、深い淵から切なる呻きをもって祈った人びとについて多く記されていますけれども、ヨブの他にもう一人の人についてお話しいたします。御心を求めて、深い淵より叫んだ人。...それはイエスです。
 主の祈り」と呼ばれる理由の一つは、これが主イエスご自身の祈りだったからです。主イエスご自身が主の祈りを祈ったその場面 をわたしたちは知っています。「ゲッセマネの祈り」がそれです。
 ルカ福音書の主の祈りには「御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。」という祈りがありません。しかしルカは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」この祈りをきちんと記しております。イエスは「父よ、」と祈ったと記しています。アバ父よ、主の祈りの呼びかけの言葉、神を父と呼びかける、神の子故に赦される特権。そして弟子たちに主の祈りを教えて弟子たちにもまた「アッバ、父よ、」と呼びかけることを勧められた。
 ゲッセマネの祈りは、主の祈りそのものといってもいいかもしれません。
 神の子と呼ばれたこの人は十字架の苦難を前に人間の一人として、真実弱くなられた。弱さの中に、苦難の中に、罪人、死人の中で真実に神の子としてご自身を表された。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 主イエスご自身の祈り、主の祈りによって、引き裂かれた天と地、神と人は一つに結ばれようとしているのです。弱さ、苦難、侮辱、悲惨の中で神の子となられたこの人によって、ヨブの嘆きは神に通 じる。ヨブの嘆きは主イエスの十字架の苦難と等しいものとなったのです。御心は人間の悲惨と分断されているのではもはやない、主イエスの祈りによって結ばれるものとなった。
 御心は主イエスによってはっきりと明らかにされました。十字架の苦難と復活によって神の御心はハッキリと表されました。御心は苦難を通 して表されたのです。
 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」この祈りには大変な事実が潜んでいるのです。

 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 主イエスご自身の祈り、主の祈りによって、引き裂かれた天と地、神と人は一つに結ばれようとしているのです。弱さ、苦難、侮辱、悲惨の中で神の子となられたこの人によって、ヨブの嘆きは神に通 じる。ヨブの嘆きは主イエスの十字架の苦難と等しいものとなったのです。御心は人間の悲惨と分断されているのではもはやない、主イエスの祈りによって結ばれるものとなった。
 御心は主イエスによってはっきりと明らかにされました。十字架の苦難と復活によって神の御心はハッキリと表されました。御心は苦難を通 して表されたのです。
 「御心が行われますように、天におけるように地の上にも。」この祈りには大変な事実が潜んでいるのです。

 一番いいのは、神様が御心に定めておられることを、わたしたちもまた熱心に願うことです。下世話な言い方をすると、神様のニードとわたしたちのニードが合っていること。これが一番いいのではないか。やりたいこととやるべきことが、一つである。これがベストでありましょう。
 「だれが主の思いを知り、主を教えるというのか。」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。(1コリント2:16)

 それを可能にしてくれるのは聖霊です。聖霊に与った者に御心はもはや隠されてはいません。人は苦難に遭遇して、神様の御心を疑ってしまいますが、しかし聖霊に与った者はみ言葉と聖霊によって、御心が示されている。
 その時、神の名は「運命」ではありません。運命は冷たく暴力的にわたしたちを捕らえ、奴隷のように引きずり回すかも知れないが、神には心があるのです。憐れみ、愛、熱情とも言われる熱いハートがあるのだ。その熱いハートでもって世界を支配されるのが神ではないか。
 わたしたちの父なる神は運命の力を支配する方ではない。運命の力さえも打ち破られる全能の神です。キリストの死を通 して、死に勝利する力を表されたからです。

 「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」(マタイ18:14)
 確かに、神を信じたからといって、わたしたちは不幸を避けられるわけではない。わたしたちは今すぐ死ななくなるわけではない。(それはインチキ宗教家の言い草である!)
 それでも希望はわたしたちをあざむくことことがない、と知ることが出来ます。人間の深い淵よりの叫び、神と人の深い裂け目を乗り越えて、父はわたしたちに主イエスを与えられました。神の御心は気まぐれではなく、一つの計画だと知らされています。どんなに悲惨な状況でも二心ではない御心、計画があることを、わたしたちは知るのです。
 「だれが神の御心など判る者か」しかし、わたしたちはキリストの思いを抱いています。神の御心、キリストの思いを証しすることがわたしたちには出来る。

 御心を為して下さいと祈るとは、御心のままに生きるということです。わたしたちも「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」と祈りつつ、また開かれた御心の中に招かれていく。そしてキリストの思いを我が思いとされていくのです。聖霊の賜物、我が思いとなったキリストの思いこそが尽きない情熱です。

 「天の父よ」「御名が崇められますように」「御国が来ますように」「御心がなされますように」  この祈りはすべての教会で祈られています。カトリックでも聖公会でも、ルーテルでも福音派でも祈られています。いろいろあったとしても、すべての教会は主の祈りで一つに結ばれる希望にあると言ってもいいでしょうし、主の祈りを知らない群れは、それこそ教会ではない、と申し上げていいでしょう。
 またすべての教会に集うあらゆる人が、大人も祈るし、子供も祈る。
 またすべての時代を通じて祈られる。平和な時も、混乱の時も、信仰が熱くなって熱心に祈る人がおり、形式的に繰り返すばかりという人も祈っている。
 ここに主イエスによって父となって下さった神の御名、御国、御心が表されています。

(2004年7月11日 礼拝)

 
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