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2004年7月4日 礼拝説教 【罪人の中の最たる者】南 吉衛
テモテヘの手紙一  1章12~17節
 

 今日のテモテヘの手紙を書いたパウロの生涯、彼に起こった奇跡をわたしたちは、思い起こす。以前彼は、イエスの名を汚す者、キリストの教会を迫害する者、そして信者を投 獄する者であった。そのパウロが、ダマスコヘの途上でイエスに捉えられて、喜びの福音を伝える者とされた。使徒言行録で彼は、この回心について3回も語っている。そのパウ ロを、以前名前を汚されていたキリスト・イエスご自身が忠実な者と見なして、大切な務めに就かせてくれたのである。パウロ自身がそのことを想像できなかったであろう。しか し、今や彼は確信を持って「わたしはその福音をゆだねられています」と語っている(1章11節)。
 どうして、よりにもよってユダヤ教の熱心な信者であったパウロにこのようなことが起こったのだろうか。その理由は唯一つ、パウロはイエスの憐れみを受けたのである。それ もそれにまったく値しないにも拘わらずである。 
  確かに彼は、神を冒漬し、キリスト者を迫害し、暴力を振るう者であった。しかし、彼は、それらのことを「信じていない時に、知らずに行った」のである(13節)。つまり知 らないで犯した罪と、知っていて犯した罪が区別されている。イエスご自身、十字架に架かる時「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているかを知らないのです」と言った のである(ルカによる福音書23章34節)。
 しかしパウロがキリスト・イエスの測り知れない憐れみを知ったのは、ダマスコ途上での回心の時だけではなかった。つまり過去のある時点だけではなく、今も「イエス・キリ スト」への信仰と愛を通して、主の恵みが溢れるばかりに与えられていると言う(14節)。
 それが今日の聖書個所が「感謝」で始まり(12節)「頒栄」で終っている(17節)理由でもある。つまり、復活のキリストとの霊の交わりの中で、かつての回心の時と同じように、 現在もなお、パウロは、計り知れないキリストの憐れみが自分を生かしていることを知っている。そう告白しないではいられないのである。  
  更にパウロは、自分の告白をイエスご自身の言葉の引用によって強調する。この言葉は、一つにはルカによる福音書5章32節に出ている。レビを弟子にする個所である。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」。  
  今日の聖書個所15節「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実でありそのまま受けいれるに値します」、これはイエスがザアカイに語った言葉 である。(ルカによる福音書19章10節…正確には、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」)。これほどパウロの 生涯、彼が経験した奇跡を短く、適切に語っているものはないと言えよう。これはパウロが回心の時に経験したことであり、彼こそが、「失われた者であり」、「神の教会を迫害したの ですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」である(コリントの信徒への手紙Ⅰ、15章9節)。
 そしてパウロは、イエスご自身のこのような言葉を引用しつつ、自分のことを「わたしはその罪人の中で最たる者です」と言う。ここはギリシャ語の原文で「現在形」で書 かれている。かつてそうであったというのではない。今もそうだという。確かに神への冒潰、キリスト者への迫害・暴力は、(上に述べたような理由で)赦され、帳消しになってい る。しかし、そうだからと言ってパウロは開き直っているのではない。むしろ、そのことを思い出して日々謙遜にさせられている。そのニュアンス、思いが現在形で書かれた理由である。

 ここまでの個所で少し立ち止まって考えて見たい。わたしたちは、イエスの言葉を引用しつつ現在の自分の信仰を告白しているパウロに直面 している。確かにパウロの回心は、 キリスト教の歴史の中でも注目すべき出来事である。わたしたちも、どこかに、「わたしも彼のような劇的な回心を経験したかった」という思いが潜んでいるかもしれない。  
  しかし問題は、そういうこと、過去のことではない。今、このわたしが、わたしのことをどう認識しているかである。その点、パウロの告白は一点の曇りもない。「わたしは、そ の罪人の中で最たる者です」。
 もちろんパウロは、自分と誰かを比較してこのことを言っているのではない。本心からそう思っている。自分が「神の前で」どういう人問であるか、それは他人と比較すべきことで はない。伝統的なユダヤ人が、「律法(を守っていること)」を誇るように、パウロは、自分の回心が劇的で、模範的であったことを誇っているのではない。そうではなく、彼がこの 言葉で言いたいことは、イエス・キリストにおいて示された神の恵みの無条件さである。イエス・キリストにおける神の憐れみの深さである。パウロは、そのことに気が付けば付 くほど、そして以前の、キリストに出会わなかった時の自分が如何に「希望なき者」であったかに気が付けば付くほど、この神の憐れみに立たざるを得なかったし、今も立たざ るを得ないのである。
 大切なことは、以前キリスト教徒を迫害していたパウロの行動から分かる通 り、彼は本来、その恵み、憐れみに値しないことである。その彼が今、憐れみを受け、他でもない、そ のことを信仰生活の中心的なテーマとしていることである。

 まり、こう言って良い。「罪人の中の最たる者」とは、決して道徳的な意昧で言っているのではない。「人には言えないような、これこれの悪事、悪行を重ねて来ました。しかし キリスト教の信仰を持ちましてお陰様で、以前より少しは立派な人問になりました」ではないのである。つまりわたしたちの行動が、 質的に以前よりも良くなったということではない(もちろん、そのことがすべて悪いとは言っていない)。そうではなく、「罪人の中の最た る者」とは、以前わたしは、神の前での自分の姿に無知であったこと、神の前での自分の本当の姿を知らなかったということである。

 「イエスは、罪人を救うために世に来られた」で言われる「救う」とは、「零からの救い」、いや正確に言えば「マイナスからの救い」で ある。パウロが言う意味での罪人には、彼の側には、何一つ「申し立てること」、「異議を唱える」ものはないということである。業に おいても、そして「罪・罪責」においてもである。  「業」においてというのは、「状況」のせいではない、ことである。わたしたちは、自分の人生がうまく行かないことを「他の人」、 「状況」のせいにする。そうではない。また「罪」自身のことでもない。確かに「罪が赦される」ことは大切であり、イエスが多くの人 に語った「罪の赦し」は大きな意味があった。しかし、イエスが「罪人を救うために世に来られた」のは、もつと深い意味がある。わた しには、罪がないとか、わたしの罪は、あの人ほど重くない、という間題ではない。

 わたしたちは、いったい自分の本当の姿を知っているだろうか。人間の根元的な不幸は、人問が「神の前で」本当は何者であるかを知 らないことだと言える。
 昔読んで、感銘した本がある。(トゥルナイゼン著『この世に生きるキリスト者』)。著者はまず、先週の牛乳代を払うことのできない 貧しい、打ちひしがれた女を紹介し、その不幸を罪と呼ぶ。同時に不幸という罪の特徴は、わたし自身がこの不幸・罪に責任があること であり、罪は単なる不幸ではなく、恥と屈辱を受けることである、と記していた。  確かに、このような意味での罪・不幸を抱えていない者はない。そして真剣に考えれば考えるほど、この罪は自分の力では負いきれ ないのである。そこでわたしたちは、赦しを必要とし、最終的には、神の憐れみを必要としている。  「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉をパウロが引用する時、彼が言いたいのは、そういう人間の根元 的な貧しさである。神の前の貧しさ、その人自身は気がついていない貧しさである。

 さらにパウロは一六節の言葉を語る。今日の短い聖書個所の中で最も重要な言葉である。いったい神は、何故パウロを憐れまれたのか。 神のご計画は何だったのか。どこにあったのか。それはここに書かれている通 りである。「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリ スト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本になるためでした」。
 パウロは罪人の中の最たる者として、同時に恵みを受ける最初の者となったのである。イエス・キリストは、まずパウロに限りない 忍耐を示された。このパウロに示されたキリストの忍耐を知って、パウロの後に続く者は、(わたしたち一人一人もそうであるが)神がイ エス・キリストを通して如何に忍耐深い方であるかを知る。パウロが「まずそのわたしに」と言う時、わたしほど神を悲しませた者はい ない、わたしほどイエス・キリストの神に背を向けていた者はいない、わたしほど自分の罪・不幸に責任があり、それ以上にその責任 を取れない者はいない、との思いがあったのだろう。罪人がキリストの救いに与ることでは最極端の例だろう、とパウロは思っていた に違いない。つまり自分のような者でも、この方を信じる時、この方の計り知れない憐れみを受けて、救いに与ることができるのであ る。パウロは、率先してその「手本」となるのである。

 このようにパウロは、自分のような人間がそうなのだから、「イエスは、罪人を救うために世に来られた」との言葉は、誠に真実であ り、誰も「自分のような人問は神の憐れみに値しない」と思う必要はないのであると確信を持って語るのである。

(2004年7月4日 礼拝説教)

 
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