そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。
御国、神の国とは神の支配という意味があります。この世を支配する様々な力があるけれど、一番いいのは神様がこの世を支配されること。そうすればすべての人々が神に従って、平和に暮らせるようになればいいというわけです。「御国が来ますように」との祈りはそのことを切に願っているのです。
福音とは「神の国の到来」です。神の支配は既に来ており、そして将来誰の目にもはっきりと判る時が来る。神の御国がこの地上で完成する日、その時は必ず来る、それはどんどん近づいているのです。
神の国の到来の日、それは世の終わりの日と言われます。「御国が来ますように」とは終わりの日が早く来ますようにと祈っているわけで、これは誤解を受けることもあります。世間では「終わりの日」は末の世、世界の破滅の日などと悪いイメージで見られています。しかし福音はこれと全く逆で、世界の破滅の日というより、神様の造られた世界が完成する日であり、あらゆる罪と悪は滅ぼされ、あらゆる問題は解決へと導かれる。不和や争いが一掃されて、本当の平和がやってくる。だから終わりの日が近づくのは、絶望ではなく、希望となります。
よく「人は死んだ後、天国に行って神様に会う」と言われるのを耳にいたしますが、これは間違いでないにせよ、やや正確さに欠ける言い方ではないか。というのも、天国、神の国は死者の世界ではないからです。そこは生ける者の国、永遠の命に充ちた国であり、死者の住む世界はむしろ神に見捨てられた者の行き着く世界と、聖書では考えられています。(cf.イザヤ38:18-19、マルコ12:27)「人は死んだ後、天国で神様に会う」というのは間違いではありません。ただそれを言うなら、「キリストを信じる者は死んだとしても、復活させられ、永遠の命に与り、天国で神様と一緒に暮らすことが出来る」と言うべきではないでしょうか。
終わりの日、御国の到来の日は死が来るのではなく、永遠の命の到来です。神様の支配する平和な世界、すべての造られた者が神様を讃美する世界。歴史はこの完成に向かって進んでいる。それを信じるのが旧新約通
して、聖書の信仰だと言えます。
御国が来ますように。」これは大胆な祈りです。「御国が来ますように。」と祈るなら、自らも神の支配に身を投げ出すことを求めていることになります。
既に来ているが、いまだ完全には現れていない神の国。わたしたちは地上の生活のただ中で「御国が来ますように。」と祈る時、自分の国籍は、本当の故郷はこの地上でなく、神の御国であり、そこに早く行きたい(帰りたい)と公に言い表しているのです。この地上はただ仮住まいに過ぎず、自分は旅の途上にいるのだ、と言っているのです。
そして洗礼とは、神の国の市民権を与えられるようなものであり、それ以上にこの神の国に新しく生まれるという重大な出来事をもたらしています。
わたしたちが普段何を意識し、どんな態度で毎日を過ごしているにせよ、既に神の国はこの地上に来ています。神の国は今、わたしたちの住むこの町に来ているのであり、それはやがて誰の目にも明らかなほどに、この町でも完成されます。その日は必ずやってきます。
神の国は来ているのです。この地上に、そしてわたしたち一人一人の人生に、神の国は忽然と現れ、激しく迫ってきます。
神の国は抽象的なものでなく、具体的事実として地上に表されました。神の独り子イエス・キリストによって、その言葉と行いによって、その生涯を通
して具体的に表されました。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
主イエスはこう宣言して地上の生涯を始められたのです。主イエスの到来が、神の国の到来です。「悔い改めて福音を信じなさい。」神の国はわたしたちを招いているのです。もはや招きに応じて、悔い改めが求められている。あなたは何を目標に日々暮らしているか。もはやあなたに迫っている神の国に目を向けなさい。その知らせを聞き入れなさいと迫っている。この招きに応じるなら、救いに与る。もし応じないなら、それ自身が裁きです。神の国自身がその人を拒絶する。
そもそもわたしたちはなぜ福音を聞くのか、それはこの地上でよい人間になって、充実した生涯を送るためではない。今、自分が招きを受けている神の国がどのようなところなのかを知りたいから福音を聞くのです。
神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間に(あなたがたのただ中に)あるのだ。」(ルカ17:20,21)
神の国は目に見えないとは限りません。わたしたちの暮らすこの東京都新宿区という町にも、神の国は既に来ているのです。新宿は日本で一番、罪が深そうに思えますが、しかしここに神の国は確かに来ているのです。何をもってそれをそう言えるのか。ここに教会があるからです。建物のことを言ってるんじゃない。
ここに礼拝する群れがある。だから神の国はここに来ている。神の国はわたしたちの知らない内にやって来たのですが、神はわたしたちをほったらかしにして、すべてを進めるのではなく、この地上に教会を建て、礼拝する群れを呼び集めることで、その働きに参与する者とされました。
「神の国は、、、、あなた方の間にある」
教会は神の国のしるしです。聖霊にいきいきと生かされて礼拝する群れがあり、主イエスのように福音をのべ伝える群れとなる。この聖霊の命に充ちた群れに神の国は生き、そして教会の働きを通
して、さらに地上に広がっていく。
神への讃美は、礼拝は神の国の実現している姿です。この世ではよそ者であることを言い表わし、はるかにそれを観て喜びの叫びを挙げる。礼拝する時、そこに神の国があると申し上げてよいのです。
神の国の到来について、まだ絵空事を聞いているような思いを抱かれるでしょうか。しかし今、わたしたちは神の国の到来という現実の前に立たされています。わたしたちは今、神の国から聞こえる声で、そこからの呼びかけを聞いているのです。今ここにいるこの貧しい私を通
して、聖霊が語っているこの言葉は確かに実現した神の国、生ける主イエスの言葉であります。到来した神の国は聖書と聖霊を通
し、貧しいながら建てられた説教者を通し、言葉で証しされます。
そして神の国は聞く一人一人の心に刻まれた信仰、そして分かち合う交わりによって証しされる。聖晩餐は神の国の交わりの先触れです。
そして神の国はその完成に向けてここから始まるのです。教会は小さく、貧しく、弱い群れにすぎません。教会の本質はその「貧しさ」にあります。それ自身では何の輝きもありません。教会に与えられたもの、説教、聖礼典、教職も信徒も、それ自体は本当に貧しい者にすぎません。いくら背伸びをしたって所詮はタカが知れております。
教会は神の国の成長に向けてまた成長していくが、それはこの世から観て、強くなることでも、豊かに富むことでもない。教会は程度の差こそあれ、世の終わりまで、依然貧しい群れであり続ける。
そればかりか、この貧しい群れは、神の国の実現である故に、この世のあらゆる苦難、窮乏、迫害に晒され続ける。
それはわたしたちの確かに知っている現実です。今、教会の内外を巡ってあらゆる困難な状況にあるのは確かです。伝道は進展せず、信徒の高齢化、弱体化、財政の逼迫、とりわけ地方に建てられた教会は厳しい苦闘を強いられている。問題を抱えた教会は数多くあり、立ち直れない程に傷ついた教職、教会員も数知れない。
教会の建っている世の中の有様は更にひどい。それに対して教会が有効な手立てを講じることも出来ないでいる。わたしたちは弱すぎる。先週、テレビで新聞で聞かされた古くてうんざりするようなニュースを、またここで繰り返す必要があるだろうか。世界は戦争の悲惨に溢れ、恐怖政治の台頭、人心は乱れ、大人ばかりでか、子供までおかしくなって来た。人間の堕罪を認めざるをえない、旧いニュースばかりが耳に入ってくる。
日本の教会は困難な状況に晒されており、希望は見えない。この世にあってあらゆる困難、あらゆる窮乏、あらゆる妨害にさらされている。迫害だって現実の問題として差し迫っているように思えます。それはさながらあらしに翻弄される小舟のようです。
神の国があらわになると、悪霊たちが騒ぎたつ。救いとともに罪があらわになる。神の国とこの世との間には、何もありません。一切の妥協も調和もなく、中間領域と呼ばれるものはない。(1コリント6:14~)悪霊の跋扈するこの世と神の国の対立は明確になっていく。不信仰と信仰の対立。神の国とこの世の調和はありません。共存共栄というわけにはいかない。この対立点が明確になればなるほど、教会はこの世にあって、苦闘を強いられることになる。
しかし「御国を来らせたまえ」との祈りが空しくなることはありません。
「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」(ルカ12:32)
御国の到来は神の約束された差し迫った現実です。しかしわたしたちの見える世界が昨日より今日、今日より明日と、段々によくなっていくという意味ではない。わたしたちの思いをこえて、御国は生き、成長している。
御国の到来が決定的になったのは、いかなる出来事を通
してか、思い起していただきたい。それは人々が神の子を十字架につけ、殺した出来事からだった。神を十字架につけ、自分たちの王国を守ろうとした。
しかし御子の死、神が殺される。どこに御国の到来があるか、と思わさせるような神ご自身の激しい苦しみ、そして死の中から、キリストの復活は起こったのであり、ここから神の国の勝利は決まっている。
神は十字架によってもはや怒りを表さない、沈黙しない。わたしたちを捨て置かれず、神は語り始め、み腕をのばしておられるのです。
主は十字架の死から復活された。ゆえに神の民は嘆きの極みから、絶望の果
てから、深い淵からの叫びを挙げる時こそ、真実に恵みを観るのです。
「御国を来らせたまえ」この祈りを弟子たちが思い起したとき、彼らもまた厳しい迫害に晒されていた時でした。イスラエルから教会へ、神の民の歴史は苦難の歴史です。貴重な遺産としてわたしたちはそのことを知っている。そして嘆きの極みから、絶望の果
てから、深い淵からの叫びを神は聞き上げ、民は祈りを知る。それゆえ「御国を来らせたまえ」との祈りは今日までやむことがありません。
神は十字架からキリストを復活させ、死から命を生み出し。過ぎ行く時から永遠を生じさせたもう。
神はキリストによって始められた神の国がわたしたちの間で始められるのを欲しておられる。
御国を来らせたまえ」そう祈りなさい。そう、求めておられる。主は喜んで応えて下さる。
この祈りを祈るところからわたしたち教会の間で神の国はその働きを開始するのです。
(2004年6月27日 礼拝)
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