|
||||
詩編102編16~19節 ルカによる福音書11章1~4節 |
||||
1 イエスはある所で祈っておられた.祈りが終わると,弟子の一人がイエスに,「主よ,ヨハネが弟子たちに教えたように,わたしたちにも祈りを教えてください」と言った.
16 国々は主の御名を恐れ/地上の王は皆,その栄光におののくでしょう. 聖書で「名」とか「名前」というのは,日本語にはない特別 な意味があります.「~の名」とは識別する標識、単なる記号というより,人格そのものを表すと考えられています.名前とはその人そのものだというわけです.ですから「名前を明かす」という行為は,その人自身の正体を明かすのと同じである.名前を明かすとはその人が何ものであるかを明かすのと同じです。 振り返ってみれば、わたしたちとて初対面の人に自分という人間を判って欲しいときには、まず名前を言う。その反対の場合は決して名前を言わない。それとよく似ているのかも知れません。 主の祈りのはじめの祈り「御名が崇められますように.」この御名とは、勿論神さまの名前です。神さまはご自身の名前を明らかにされた、ご自身が何者であるかをわたしたちに表したと言うことです。
そこで聖書のある物語を思い起こさずにはいられません。ホレブの山で、モーセの前に燃える柴のなかから神さまご自身が語りかけられたという物語です。エジプトで苦難に遭うイスラエルを導くために、モーセを遣わすためでありました。
「わたしはある.わたしはあるという者だ」 神さまご自身が「わたしはあるという者だ」と名前を明かされた。この「わたしはある」という名前が、神名ヤハウエになったと言われています。 とは言え、「わたしはある」とは名前のようでいて、名前でない。明らかにされたようで、隠された名前でありました。明らかにされたようで、未だに隠された神の名。それゆえ、旧約聖書の民は神の名前を問い続けるようになった。神の名は何か、神とは誰であるのか、神は何をされようとしているのか。その問いを繰り返し続けた。人類にとって最大の問題とも言うべき問いが旧約聖書から発せられる。 ところが今や、神の名が明らかにされたのです。主イエス・キリストによって、キリストは神のいわばフォーカスです。しかも主の十字架の苦難と復活という場所において、まことの神が表されたのです。 さあ大変なことになりました。わたしたちはもはや神さまの名前を知ってしまったのです。そこには曖昧さとか、決断を留保するものがありません。まことの神と神ではない偶像の違い、そして信仰と不信仰、義とされるもの罪とされるもの、服従と不従順、価値あるものと意味のないもの、それがはっきりとされたのです。もうごまかしは利かないのです。 モーセがホレブ山からエジプトへと出かけていったように、そこに神からのある行為への決断が求められる。ここに神がいます。あなたはこの方とどのように生きるか。この方に従っていくのか、神に背を向けて行くのか、どうなのか。曖昧に決断を留保しようとする、無責任な言い逃れをするなどとは、明らかにされた神の名にもう一度ふたをして、見ないようにしようとするのと同じです。 神の名が表された者は、信仰を求められるのです。信じて従うようにと、招かれているのです。 主イエスはわたしたちに祈る時、「御名が崇められますように.」と祈りなさい、と教えられました。御名が崇められますようにとは、神さまだけが聖なるものとされますように、その名前だけが大きなものとされますように、その名前だけが高く挙げられて、礼拝されますように、讃美されますように、ということです。 それは神の主権を求める祈りです。最も権威ある者として、最も偉大なお方として、神さまの名前が崇められますように、と言うことです。宗教改革者たちが「ただ神にのみ栄光を!」と言い続けたのと同じです。最も権威ある者として、最も偉大なお方として、ただ神さまの名が挙げられますように、それ以外の何者の名をも挙がりませんように。 その神の名が崇められるために、わたしたちは何をすればいいのか。主は「御名が崇められますように」祈れと言ったのです。御名が崇められるように努力しなさい、と言ったのではないのです。ならば誰によって、「御名が崇められますように」なるのか。それは神ご自身によってです。神ご自身の働きによって神さまの名は神さまとして崇められるようになる。神さまは神さまの手によって主権を働かせられる、いや既に働かせつつあるのです。 わたしたちが神のために何かをしようと志すなら、まず「御名が崇められますように」と祈るのです。神さまは既にイエス・キリストによって始められた計画を、聖霊によって今も着々と進めておられる。それはわたしたちの関係のないところで進んでいるのだろうか、いいや、そこにわたしたちも参与すべく招かれているのです。本当に神の御名が崇められ勝利するキリストの再臨の日と呼ばれるその日に向けて、わたしたちもその喜びの計画に加わるように招かれているのです。 6キリストは,神の身分でありながら,神と等しい者であることに固執しようとは思わず, 全ての者、人間ばかりではない。全ての造られた者全てが「イエス・キリストは主である」と公に宣べて,父である神をたたえるその日が来る。わたしたちの想像を遙かに超えていますが、神さまはそれを既に定められておられます。 そして既に実現しつつある。キリストによって、それはこの地上に、わたしたちの現実の生活に既に始まっているのです。キリストが地上の生涯において、御心に従う従順な歩みにおいて、十字架の死で、神がキリストを復活させ、天に挙げられたことで実行された。 こうして神の名は、キリストの名として崇められる。あらゆる名に勝って、キリストの名は神の名として、礼拝される。そしてその計画の中にわたしたちも招かれている。その完成の日の先取りで、教会はキリストの名を崇め、礼拝している。わたしたちもまた主イエスの名を高らかに誉め歌い、誰の名に勝る主の名を高くこの地上に挙げる。(それが伝道と言われる行為です。) 神の名が記されているものがある、それによって、神ご自身が何者であるかが表す。 その神さまの名が書いてあるもの、それはまずキリストです。そして神の言葉である聖書です。そして教会です。教会の中心である礼拝です。更にその中心である神の言葉、説教、洗礼、聖餐です。これらは神さまの名前が書かれており、神さまを指し示すためにある。説教に神さまの名前が書かれてないということがあってはならない。神の名を示すために、説教者は説教に神の名を明らかにする戦いを避けるわけにはいかない。 しかしこれら神の名が記されてあるものを通 して、実に驚くべき事実をわたしたちは知るのです。それは神さまの名前が記されてあるのは、実はわたしたちだということです。 わたしたちが神の名によって,創造され、イエスキリストによって神さまの子どもとされている。新しい命を与えられている。わたしたちに神さまの名が記されている。わたしたちは神さまの子どもである。神はわたしたちの父である。 「後の世代のために/このことは書き記されねばならない.「主を賛美するために民は創造された.」 主を讃美し礼拝する、御名を崇める。実は人間が創造された目的はここにあったのだ。わたしたちはその為に造られた神さまの子ども、げんに主イエスキリストによって神さまを「アッバ父よ、」と呼びかけることを許されている。神を父と呼べ、その様に主イエスがわたしたちに迫っている。 主を讃美し礼拝する、御名を崇める。「御名が崇められますように」その様に祈る。そこには人間の本当に生きている姿がある。そして喜びがあり、平和があり、命があったのです。 |
||||
<説教集インデックスに戻る> |
Copyright (C) 2004 Shinanomachi
Church. All Rights Reserved.
|