1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ...
「祈るときには、こう言いなさい。」
主イエスが弟子たちに伝えられて以来、主の祈りは、あらゆる背景にあって、あらゆる伝統に基く、全てのキリスト教会で受け継がれてきた共通
の祈りです。
わたしも洗礼を受けて18年になりますが、全てのキリスト者がそうであるように、礼拝、教会生活の様々な場面
で、主の祈りを数え切れないほど繰り返し唱えつつ、今まで歩んできたのです。
主の祈りは「キリスト教の小さな学校」と呼ばれています。福音の要約、福音の全てがここにあると申し上げてよいということです。
わたしは今朝、初めて信濃町教会の講壇の任につくわけですが、その務めを福音の要約、そして信仰生活の原点であるところの主の祈りの解き明かしで始めることに、不思議な導き、意味の深さを感じております。
どういう経緯で主はこの祈りを弟子たちに伝えたのか。主イエスご自身も祈っておられた時、弟子たちが「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、主イエスが「祈るときには、こう言いなさい。」そう言って教えられたのが主の祈りであったのです。
弟子たちは何故そんなことを言ったのか。洗礼者ヨハネの教団に固有の祈りがあったように、イエスの弟子集団にも固有の祈りが欲しい。それが弟子たちをまとめていく大切な財産となるだろうから、というのもあったでしょう。
しかしもっと重要なのは、弟子たちがどう祈っていいのか判らなかったことでしょう。勿論、彼らもイスラエル育ちですから、祈りの習慣に馴染みがなかったはずはない。しかしその時彼らは、祈っている主イエスを見ていた。彼らは祈りを教えてもらわなくてはならないと切実に思った。「わたしたちにも祈りを教えてください」と言わざるを得なかったのではないか。そのイエスの祈りに、自分たちも合わせるためにはいったい何を祈ればいいのか。
祈りは自分の心からほとばしる思いを神さまに聞いてもらうことだから、その思いに正直になればいいのであって、祈りを教えて貰うというのは変じゃないか、何か枠をはめられるようでおかしいと言う人がいます。
しかし祈りとは教わるものです。
わたしも18年教会で過ごしてきましたが、自分で聖書を学ぶ人はいても、自分で勉強して祈るようになった人をみたことがありません。弟子たちが祈っているイエスを見て、そこから祈りを学んだのに似ておりますが、子供は親の祈りを聞いて、教会学校の生徒はCS教師の祈りを聞いて、信仰に入って間もない人は、教会で周りの人たちが祈っている言葉を聞いて、段々自分でも祈れるようになっていくものです。
「天の父なる神さま」「御在天の父なる神さま」「天のお父さま」...その呼びかけの言葉は大体、最初に教わったとおりにいう。結びには「この祈り、主イエス・キリストの御名によって、お捧げ致します。アーメン」と言わなければならないこと。神の栄光を讃えること、自分の罪を顧みること、恵みを感謝すること、家族、友人、特に病や悩みを抱えている人のためにとりなすこと、平和を求めること、、、段々に祈ることを覚えていくものです。
しかし祈りを教わらなければならないもっと切実な理由とは、祈りを聴かれる神とは一体どんなお方なのかを、知らないというところにあります。祈りとは自問自答とは違います。自分の内的な声に耳を傾ける自己に耽溺する行為とは、決定的に違う。
祈りとは聞く相手あってことなのだ。その相手、神とは一体誰なのかをはっきり表されないといけないのです。
「祈りも空しく、、、」と人はよく口にする。祈りが自分の思いだけで空回りして何にもならないような気がする。身勝手になったり、的はずれになることもある。それは祈りを聴かれる神とは一体どんなお方なのかを知らないか、または見失っているということに原因がある。
「祈りを教えて下さい」という求めは、「祈りを聴かれる神とは一体どんなお方なのかを教えて下さい」と言っているのに等しいのです。
その切実な求めに主はどのように応えられたか。
これが最も大切なことです。今から言うことはキリスト教信仰にいちばん大切なことです。これに比べたら、今までの話は全て忘れて下さってもイイと言うくらい、大切です。
「そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、』
あなたがたは『父よ』と呼びかけなさい、そう主イエスが教えてくれた。これが最も大切なことです。主の祈りが「キリスト教の小さな学校」「福音の要約」と言われる理由はここに尽きる。祈りを聴かれる神とは誰か、それはあなた方の父である。神を父親と信じて呼びかけなさい。
この教会のイースター愛餐会で、受洗50周年を迎えられた方々をお祝いする超える方々が何人もいて、わたしは驚きましたが、そう言う人であれ、洗礼を受けてまだ一年とたたない人であれ、変わらない唯一大切なことがある。
ここに最も大切な福音の要点がある。福音とは、神がわたしたちの父となったことであり、祈りとは、信仰生活とは神を父と呼び続けること、他の難しいことはいいんです。脇に置いておけばいい。とにかく最も大切なことは神を父と呼びかけることなのだ。
聖書のもう一つの主の祈りはマタイ6:9以下でこれが今、わたしたちの唱えている主の祈りに近いが、そのはじめの呼びかけは『天におられるわたしたちの父よ』です。しかしルカにはズバリと、『父よ、』とある。
これは当たり前のことでは決してない。神さまを旧約聖書では色んな言い方をしている。「天地の造り主」「驚くべき指導者」「力ある神」「平和の君」「万軍の主」などなど、どれも神さまを讃えるのに相応しい言葉である。しかし神を「父」と呼ぶ、これは旧約聖書にさえ、あまりに見るとはない。例外的と言っていい。
弟子たちは「祈りを教えて下さい」と主イエスに言った。彼らは神が「天地の造り主」「驚くべき指導者」「力ある神」「平和の君」「万軍の主」といわれていることは当然知っていた。しかし父とは呼べなかった。呼んでイイなんて思ってみなかったのです。彼らはどう祈るべきかを知らなかった。神を父と呼べなかったからである。
父と言う言葉は、「アッバ」と言います。アッバとは、普通にお父さんと言う意味の言葉です(子供が普通
にお父さん)。なれなれしい言い方とも言える。誰かを「アッバ、父よ」と呼ぶならそれは本当のお父さんか、さもなくばよっぽどの親しい間柄である。
神をアッバ、父と呼ぶ。それは決して当たり前のことではない。ありふれた言い方ではない。そこに主イエスの独自性がある。独自性とは彼こそまことの神の子であるということです。主の大胆さ、そしてイエスが神の子と言われる所以がここにある。主イエスのみが真実神の子として、神を父と呼ぶことが出来る。
そしてそればかりではない。「わたしたちにも祈りを教えてください」と言った弟子たちに、祈る時、あなた方も神を父と呼べ。遠慮するな。「父と子」と言われるほどの神と主イエスとの交わりの中にあなた方も入りなさい、と言っている。
例えばの話。どこかの裕福で立派な家庭があり、わたしたちが親もない貧しい子供だったとする。裕福な家庭の子がわたしたち貧しい子供に駆け寄ってきて、「遠慮しないで、君もうちの子になれ。お父さんもイイと言っている。お父さんが君にうちの子になれって言っている」そう告げられたようなものです。
またルカ福音書(15:11~)には、この交わりへの招き、恵みを判りやすく、親しみやすいたとえ話で物語った「放蕩息子の譬え」があります。
父親の弁えず、思い上がり、財産だけを持っていって、好き放題に暮らそうとした愚かな息子、またそれを黙って送り出した父親がいた。息子ははじめは調子よく振る舞ったものの、やがて財産を使い果
たして、食べ物にさえ事欠くほど落ちぶれ果てる。
息子は父親を思い出す。「ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言おう。自分は「もう息子と呼ばれる資格は」ない、と思っている。しかし父親はまだ遠く離れていたところから、息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した、という話です。
もう息子と呼ばれる資格はない、と思った放蕩息子は、弟子たちやわたしたちが神を父と呼べない状態に似ています。しかし神は父親としてわたしたちにかけより、抱きしめて下さる。
主イエスは「父よ」と祈りなさいと言うとき、このたとえ話の父親のようにわたしたちを出迎え、交わりに招いて下さる神を指し示し、またその交わりに向かって歩み出すように勧めているのです。「あの息子は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」
この父親は甘い、甘すぎる。親がこういうことをするから子供は駄目になる。あるお母さんの会で誰かがそう言ったのを覚えています。今もそう言われるくらいだから、父親の権威が強かった当時のユダヤ社会では尚更のことだったに違いない、と想像しております。
ここでは甘すぎる父親の愛に譬えられている神さまの愛というもの。しかしそれは甘い言葉ではないのです、神さまの愛はただ甘いもの、感傷的なもの、気分的なものでは決してありません。それどころか、神さまの愛とは激しく、恐ろしいものでさえある。
神さまの愛とは何か、それは独り子キリストをこの世に遣わしたことです。そしてそれは(週報にある「キリスト讃歌」にあるように)御子が十字架へと従順に歩むためであった。神さまの愛には人の血が流されているのです。その肉が裂かれて、一つの命が犠牲になっているのです。あのゴルゴダの十字架にて、まことの神の子は、神の子と決して呼ばれる資格のない、神を知らない罪人らが神の子と呼ばれる資格を得るために十字架につけられたのです。
主の祈りは弟子たちの祈りである前に主イエスの自身の祈りだった、十字架の出来事の前夜、ゲッセマネの祈りがそれを表しています。
こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)
ここに確かに「アッバ、父よ、」とあります。主の祈りの呼びかけの言葉「父よ」があります。主の祈りがわたしたちの祈りになった、そこには主イエスのゲッセマネの祈りがあった。
主イエスキリストの十字架の苦難と復活の奇跡は、まさに神のいます場所となった。主の十字架と復活を通
してこそ、神は父であることが明らかとされた。まことの神の子が苦しみを引き受けられたところに、神はわたしたちの父としてはっきり表される。神さまの愛は甘い言葉として響くのみでなく、讃美があり、感謝があり、応答、礼拝がある。
神を父と呼べない、または父なる神を知らない。それは孤独の世界である。
久しぶりに東京に帰ってきて、都会は楽しい反面、大勢の人混みのなかで孤独をひしひしと感じる。こんなにも大勢の人がいるのに、友には会えないからです。ましてそこに父親など見いだすことが出来ようか。もしこんな人混みの中でケガをしたり、具合が悪くなって倒れてしまったりしたら、誰が助けてくれるだろうか。自分の時間を捨てて、厄介な面
倒を引き受けてくれる人などいるだろうか。そう思うと、孤独感はますます募るばかりです。
父を知らない、弁えない世界の中で、神を父と呼ぶ。それ自身冒険的なことです。
「世界の中心で愛を叫ぶ」という小説が評判を呼んでいるようですが、「世界の只中で神を父と呼ぶ」それが信仰告白です。この時代の只中で、この人の世で、神を父と呼ぶ、神を父と告白する。それは冒険です。「父よ」と呼びかけ、主の祈りを祈ることは大胆なことです。
しかしそれは空しくない。主イエスの十字架によって、執り成しによって、神は父としてもはやはっきりと表され、招きの手は差し伸べられています。福音とはこのことです。
そして祈りとは主が大胆にも「父よ」と祈れと勧め、十字架によって真実なものとして下さった故に、わたしたちもまたそれに応えていく。大胆に恵みのみ座に進みよっていくことなのです。
(2004年4月25日礼拝)
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