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コリントの信徒への手紙一 15章1~11節 | ||||
今日の聖書箇所の冒頭の1~3節の中で、パウロは福音という言葉を4回も使っている。このことの重要性を改めて知らされる。彼にとって喜ばしい福音はただ一つ、それは「最も大切なこと」(3節)である。この福音は、コリントの教会員があの時、初めて聞いたものではない。それはわたしたちにとっても当てはまる。わたしたち多くの者にとって、今朝、語られる福音は、すでに聞いてきたことである。それをパウロは「ここでもう一度知らせます」と言っている。この「知らせます」とは、「情報として与えます」とか「さし当たり、お知らせしておきます」のような意味ではない。原語は「宣告する」であって、今新しく告知され、新しく受けとめられなければならない、と言う意味である。福音・神の言葉は生きている。今朝、思いを新たに聞くのである。 「最も大切なこと」とはキリストに関することである。「イエス・キリスト」と言われていないのは、当時既に、イエスがキリスト(メシヤ)であることは受け入れられていたからだと言う。そしてその最も大切なことは既に「聖書に書いてある」ことである。(この聖書はもちろん旧約聖書を指しているが、具体的には触れていない、強いて挙げればイザヤ書52章や61章)。つまり彼は、これから語るとが、彼の独創でも一時的な思いつきでもなく、旧約聖書という確固たるものを基礎にていると言っている。そして、3b節~5節は、古い「伝承」に依存している。聖書のパウロ以前の古い言葉(フィリピ2章のリスト賛歌)と同じように、この伝承は、巧的な文の構成になっている。これらの一つ一つの言葉は含蓄が深く、詳しく説明することが出来る。しかしパウロがこの古い伝承を引用した理由は、この言葉・事実が全体として語っていることキリストがわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、3日目に復活したこと、そして弟子たちに現れたことである。 「わたしたちの罪のために」。重々しい言葉である。「罪」とはわたしたちが根本的には神から離れていることである。その象徴的な行為が、バラバではなくイエスを十字架に掛けよと叫んだ群衆の声である。しかし、キリストがわたしたちの罪のために死んでくださることによって、その罪、わたしたちの自己中心的な思いをキリストは打ち砕いて、神との間の執り成しをして下さったのである。確かにわたしたちもあの群衆の一人であった(今もそうである)。しかし聖書は、あの十字架上のイエス、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになるのですか」と言いつつ息を引き取ったイエスこそ「神の子」であり、あの見捨てられた姿と孤独と無力の中に神の真の救いの業があったと証ししているのである。福音書は、イエスが「大声を出して息を引き取られた」と伝えている。ルカによれば、その最後の言葉は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」である(二三章四六節)。イエスは、孤独と無力の中で、まるで神に見捨てられたかのように、しかし、すべてを神にゆだねて死んだと伝えている。 ここで思い出すのは、パウロが熱心なユダヤ教徒であった時キリスト信者を迫害し牢に投げ込んだことである。その意味では確かに使徒と呼ばれる値打ちがない。しかしそれにも拘わらず、彼が伝道者として働くことが許され、あのような大きな働きが出来たのは、ひとえに「神の恵み」である。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(10節)。神の恵みが彼と共にあったからである。パウが復活の主に出会って、宣教の委託が与えられた時、パウロにとって福音を証しすること以外は考えられなかったのである。 イースター、この時わたしたちは、一年の中で最も明白にこの福音を信じることへと招かれていると言える。そしてキリスト教信仰の本質は、イースターの出来事にある。改めて今朝そのことを強く感じる。パウロ以前の人々、そしてパウロ、更に代々の教会が「最も大切に」してきたこと、福音、つまり、「救いについての喜ばしいおとずれ」。この福音を信じるようにわたしたちは今朝招かれている。信じて救われなければそれは福音とは言えない。それを信じて、それにしっかりと立ち、それをよりどころとすることである。十字架上のイエスの最後がそうであったように、すべてを神にゆだねること、全心・全霊を神に向けることである。そういう人だけが救いを経験するのである。 聖書の時代、復活のキリストは、多くの弟子たちに、そしてパウロにご自身を現された。啓示されたのである。そのキリストは、今日わたしたちに、伝えられた伝承を通
し、そして何よりも「聖書」、聖書に記された神の言葉を通して、わたしたちに語りかけておられる。そして救いを約束している。祈るべきことは、この聖書の言葉がキリストの言葉として、わたしたちにご自身を現しているキリストが現臨している言葉として語られ、また聞かれることである。そしてこのことを可能にするものこそ「神の業」である。
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